《自由広場》 「愛読書」とは「再読したくなる書」のことか
松井 洋治(東京都府中市)
最近知った言葉に「韋編三絶」(いへんさんぜつ,韋編三たび絶つ)というのがある。孔子は「易経」を繰り返し繰り返し読んだため,綴じ目の革が三度切れたという。
「韋」はなめし皮,当時の書物は竹簡をなめし皮で綴じたようだが,それが三度も切れるほど「愛読」したというのである。今流に言えば,“表紙がボロボロに擦り切れるまで読む”ということか。そこでふと思ったのが,自分にはそんな本があるだろうかということ。強いて挙げるとすれば,高校時代から使い慣れた「英和辞典」くらいのもの。確かに表紙はボロボロで,何箇所もメンディングテープが貼られている。
「再読」したいと思う本は何冊かある。読むたびに新しい発見がある本,歳をとるにつれて違う見え方のする本,何度読んでも充分に味わい尽くしたとは思えない本があるのは確かだ。1年程前の,40年近く住み慣れた家からマンションへの転居の際,断腸の思いで処分した二千数百冊の本の中にも,「韋編三絶」的なものは一冊もなかった。また,仕事関連の本を除いて,二度ならず三度以上読んだことのある本といえば,1973年の還暦記念に,我々子供たちの分業で編集から表紙や挿絵まで描いて出版した亡母の「還暦記念歌集・こでまり」と,2007年に三九出版さんのお陰で出版させて戴けた亡父の随筆集「続・御覧見い」の,わずか二冊だけかもしれない。
「愛読書」の範疇には入らないだろうが,家内に「だから片付かないんですよ」とたびたび言われながらも捨てきれないのが,学生時代のテキストとノートである。大学を卒業して既に40年が経過しているというのに,専攻した「金融経済学」や「銀行論」は,主任教授の書かれたテキストだけではなく,あちこちに真っ赤なアンダーラインの引かれたノートも処分できずにいる。また,4年の時に他学部で聴講した村田武雄の「音楽論」,津村秀夫の「映画論」,内村直也の「演劇論」などのノートは,私にとっては正に「家宝」ともいうべきもので,今でも時々出しては読み返している。卒業論文のコピーも,しっかり手元にあるが,もちろん「愛読書」ではない。
松本清張の長編伝奇小説「西海道談綺」(全五巻)は,転居の際も捨てきれずに連れて来たが,過去二度しか読んでいない。「再読」したいから連れて来た訳だし,「上司を斬り,密通した妻を廃坑に突き落として逐電した男の数奇な物語」(同書の「帯」の表現より)だけに,間違いなく面白い本なのだが,なぜか自分では「愛読書だ」という認識まではない。
「愛読書」というのは,手元の幾つかの国語辞典の記述を要約すると「気にいってよく読む特定の本」となるようだが,参考までに調べた和英辞典(研究社)によれば,英語では「one’s favorite book(お気に入りの本)」で,例文として「Shakespeare
is my favorite author.シェイクスピアは私の愛読書だ」(日本語訳も辞書のまま)というのが出ている。しかしこれでは,authorは「作家」のことであるから,シェイクスピアの作品は全て「愛読書」だということになってしまう。その伝でいけば,「山本周五郎,池波正太郎,藤沢周平は私の愛読書だ」という言い方が許されるのかもしれないが,「愛読書」とは,やはり「特定の作家」を指すのではなく,気にいってよく読む「特定の本」だと考えるのが普通であろう。
それが証拠に,松本清張の数ある推理小説や古代史研究作品の中で,それほど多く読んだ訳でもないが,もう一度読みたいと思ったのは「西海道談綺」だけである。
全作品を読んだつもりの山本周五郎も,転居の時,「さぶ」以外は全て処分してしまったし,池波正太郎の「鬼平犯科帳」全巻も友人に譲ってしまい,連れて来たのは「おれの足音・大石内蔵助」だけ。藤沢周平もほとんどは処分し,手元に残したのは「蝉しぐれ」と「三屋清左衛門残日録」の二冊だけである。
また,私が大好きな(my favorite authorの)遠藤周作にしても,「沈黙」「死海のほとり」「深い河」「イエスに邂った女たち」などは処分できなかったが,楽しみながら読んだ一連の「狐狸庵モノ」は全て破棄したし,五木寛之も「蓮如」と「大河の一滴」しか残っていない。翻訳もので残っているのは「O・ヘンリ短編集」とA・ビアスの「悪魔の辞典」くらいのもの。独善的な定義づけかもしれないが,どうやら私の場合の「愛読書」とは,「やはり再読したくなる本」ということになりそうだ。
「韋編三絶」流に,「二回以上読んだ本が何冊もある」と言える人は,極めて少ないのではあるまいか。逆に言えば,世の中の大半の本は“一見の読者”しか持っていないと言えそうだ。
改めて,「英和辞典」の他にわが書棚に“表紙がボロボロに”なっている本はないか探したところ,一冊だけ見つかったが,それが何と「家庭医学事典」とは,とほほ。
松井 洋治(東京都府中市)
最近知った言葉に「韋編三絶」(いへんさんぜつ,韋編三たび絶つ)というのがある。孔子は「易経」を繰り返し繰り返し読んだため,綴じ目の革が三度切れたという。
「韋」はなめし皮,当時の書物は竹簡をなめし皮で綴じたようだが,それが三度も切れるほど「愛読」したというのである。今流に言えば,“表紙がボロボロに擦り切れるまで読む”ということか。そこでふと思ったのが,自分にはそんな本があるだろうかということ。強いて挙げるとすれば,高校時代から使い慣れた「英和辞典」くらいのもの。確かに表紙はボロボロで,何箇所もメンディングテープが貼られている。
「再読」したいと思う本は何冊かある。読むたびに新しい発見がある本,歳をとるにつれて違う見え方のする本,何度読んでも充分に味わい尽くしたとは思えない本があるのは確かだ。1年程前の,40年近く住み慣れた家からマンションへの転居の際,断腸の思いで処分した二千数百冊の本の中にも,「韋編三絶」的なものは一冊もなかった。また,仕事関連の本を除いて,二度ならず三度以上読んだことのある本といえば,1973年の還暦記念に,我々子供たちの分業で編集から表紙や挿絵まで描いて出版した亡母の「還暦記念歌集・こでまり」と,2007年に三九出版さんのお陰で出版させて戴けた亡父の随筆集「続・御覧見い」の,わずか二冊だけかもしれない。
「愛読書」の範疇には入らないだろうが,家内に「だから片付かないんですよ」とたびたび言われながらも捨てきれないのが,学生時代のテキストとノートである。大学を卒業して既に40年が経過しているというのに,専攻した「金融経済学」や「銀行論」は,主任教授の書かれたテキストだけではなく,あちこちに真っ赤なアンダーラインの引かれたノートも処分できずにいる。また,4年の時に他学部で聴講した村田武雄の「音楽論」,津村秀夫の「映画論」,内村直也の「演劇論」などのノートは,私にとっては正に「家宝」ともいうべきもので,今でも時々出しては読み返している。卒業論文のコピーも,しっかり手元にあるが,もちろん「愛読書」ではない。
松本清張の長編伝奇小説「西海道談綺」(全五巻)は,転居の際も捨てきれずに連れて来たが,過去二度しか読んでいない。「再読」したいから連れて来た訳だし,「上司を斬り,密通した妻を廃坑に突き落として逐電した男の数奇な物語」(同書の「帯」の表現より)だけに,間違いなく面白い本なのだが,なぜか自分では「愛読書だ」という認識まではない。
「愛読書」というのは,手元の幾つかの国語辞典の記述を要約すると「気にいってよく読む特定の本」となるようだが,参考までに調べた和英辞典(研究社)によれば,英語では「one’s favorite book(お気に入りの本)」で,例文として「Shakespeare
is my favorite author.シェイクスピアは私の愛読書だ」(日本語訳も辞書のまま)というのが出ている。しかしこれでは,authorは「作家」のことであるから,シェイクスピアの作品は全て「愛読書」だということになってしまう。その伝でいけば,「山本周五郎,池波正太郎,藤沢周平は私の愛読書だ」という言い方が許されるのかもしれないが,「愛読書」とは,やはり「特定の作家」を指すのではなく,気にいってよく読む「特定の本」だと考えるのが普通であろう。
それが証拠に,松本清張の数ある推理小説や古代史研究作品の中で,それほど多く読んだ訳でもないが,もう一度読みたいと思ったのは「西海道談綺」だけである。
全作品を読んだつもりの山本周五郎も,転居の時,「さぶ」以外は全て処分してしまったし,池波正太郎の「鬼平犯科帳」全巻も友人に譲ってしまい,連れて来たのは「おれの足音・大石内蔵助」だけ。藤沢周平もほとんどは処分し,手元に残したのは「蝉しぐれ」と「三屋清左衛門残日録」の二冊だけである。
また,私が大好きな(my favorite authorの)遠藤周作にしても,「沈黙」「死海のほとり」「深い河」「イエスに邂った女たち」などは処分できなかったが,楽しみながら読んだ一連の「狐狸庵モノ」は全て破棄したし,五木寛之も「蓮如」と「大河の一滴」しか残っていない。翻訳もので残っているのは「O・ヘンリ短編集」とA・ビアスの「悪魔の辞典」くらいのもの。独善的な定義づけかもしれないが,どうやら私の場合の「愛読書」とは,「やはり再読したくなる本」ということになりそうだ。
「韋編三絶」流に,「二回以上読んだ本が何冊もある」と言える人は,極めて少ないのではあるまいか。逆に言えば,世の中の大半の本は“一見の読者”しか持っていないと言えそうだ。
改めて,「英和辞典」の他にわが書棚に“表紙がボロボロに”なっている本はないか探したところ,一冊だけ見つかったが,それが何と「家庭医学事典」とは,とほほ。
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