《自由広場》 父が教えてくれたこと
荒巻 浩明(東京都世田谷区)
昨年,私は古希を迎えた。父が亡くなったのは69歳になる少し前だったから,既に父の他界した歳を超えたことになる。
60歳を超えた頃から,何か判断に迷ったときなどに,自分の年齢の時期の父の姿を思い出して,こんな時「父だったらどうしただろう」と考え,手がかりにしてきた。
けれども,父の生きていた年齢を超えてからはそうした手がかりがなくなり,「父の判断の基準になっていた考えは何だったのか」を探るようになっていた。
思春期前後の時期,私は父にいろいろと相談したことがあった。そうした折の断片的な記憶のなかに,今でも鮮明に浮かんでくることが幾つかある。
その一つは,中学時代の末期,「ひとは何で生きるのか」について友人や書籍で納得のいく答えが見つけられず,父に訊ねたことがあった。そのとき父は,「自然の美しさを感じるとき,体が健康に動いているとき,何でもよい自分が快いと感じるときがある。その短いときを感じることが,生きる意味だ」と淡々と語ったのを思い出す。
また,高校受験のときのこと。地方から上京して,東京の父の実家に寄宿して高校に行くことになったが,父と一緒に試験場に向かっている途中,真剣にこう忠告した。「大事な局面での一つ一つの決断と生き方が,次の自分自身の環境と立場につながる。今はそのときなのだから,こうした局面での決断は注意深く行うように」と。
父は余り多くを話す方ではなかったが,結論だけは信念を持ってはっきりと示した。こうした信念の背後には,一貫して流れるはっきりした考えがあったのだ。
それは,「人生が予め決定されていて,人の力ではどうすることもできない」という宿命論的な考え方の否定,別な言い方をすると,「流れている一瞬,一瞬の時間を,自分の力を尽くして精一杯に生きていくこと」を大事にする考え方である(この考えは,後に私のマルクス主義否定の考えに大きく影響したが,ここでは省略する)。そして,この考えを支えたのが,持ち前の我慢強さと,将来の可能性に対する楽観主義ではなかったかと思う。
今にして思うと,こうした考え方は,生まれついての気性もさることながら,生きてきた環境や時代の影響した面も大きかったのではないかと感じる。
父は,明治42(1909)年,男5人・女2人の7人兄弟の長男として東京下町で生まれた。大正12(1923)年,中学生のとき関東大震災に遭遇したが,寡黙な父もその時の経験は折に触れて語っていた。父の父親は旧東京市の職員だったが,当時でも7人の子供を育て,教育することは経済的に楽ではなかったに違いない。父から直接に苦労話を聞いたことはなかったが,叔父や母から父や叔父達がアルバイトなどで学費や生活費の工面に苦労した話は時折聞かされた。
大学を卒業した昭和9(1934)年は,昭和恐慌の後遺症の残る就職難の時代。希望の職業には就けず,とりあえず働いて給与を得ながら国家試験を受け公務に就いた。
種々の困難な時期を不断の努力で乗り越え,相応の生活と社会的地位を得るに至ったことが,こうした考え方に辿り着いた背景にあったのではないかと思う。
父の思想形成に影響を与えたもう一つの大きな要素に,当時の時代状況がある。
これをうかがい知る思い出がある。高校時代だっただろうか,父に「今までの生活のなかで,最も嬉しかったことと嫌だったこと」について訊いたことがあった。
父は最も嬉しかったこととして,「旧制高校に入学したときのこと」を話した。そしてその理由として,これまでの努力が認められて社会的に選ばれた立場を得たという自覚が得られたこと,そしてそれを満足させる学問と自由な雰囲気を享受できるようになったことを挙げた。逆に,最も忌避したい経験として,再度に亘る応召で体験した軍隊での自主性の失われた生活について語った。
こうした経験が,その後の思想や趣味や生活上の嗜好にも反映している。西欧的な啓蒙主義・合理的思想への傾斜,クラシック音楽の愛好などはその典型的な例であり,私の少年期に普及し始めたテレビや音響機器など「新しいもの好き」もその現れだったのだろう。私の思想形成の基盤は,無意識のうちに父の影響の下でなされてきた。
今,自分自身の生き方を振り返ってみると,大筋で父の用意したこうした環境のなかで,多少の悔いはあっても大きな間違いはなく生きてくることができた。
これから先,種々の決断を求められる局面は必ずしも多くはないであろう。だが,大きな決断を迫られることはあろう。そうしたとき,こうした「父の教えてくれたこと」を思い起こして,「未来に希望をもって,一日一日を大事に生きていくこと」に心がけていきたいと思っている。
荒巻 浩明(東京都世田谷区)
昨年,私は古希を迎えた。父が亡くなったのは69歳になる少し前だったから,既に父の他界した歳を超えたことになる。
60歳を超えた頃から,何か判断に迷ったときなどに,自分の年齢の時期の父の姿を思い出して,こんな時「父だったらどうしただろう」と考え,手がかりにしてきた。
けれども,父の生きていた年齢を超えてからはそうした手がかりがなくなり,「父の判断の基準になっていた考えは何だったのか」を探るようになっていた。
思春期前後の時期,私は父にいろいろと相談したことがあった。そうした折の断片的な記憶のなかに,今でも鮮明に浮かんでくることが幾つかある。
その一つは,中学時代の末期,「ひとは何で生きるのか」について友人や書籍で納得のいく答えが見つけられず,父に訊ねたことがあった。そのとき父は,「自然の美しさを感じるとき,体が健康に動いているとき,何でもよい自分が快いと感じるときがある。その短いときを感じることが,生きる意味だ」と淡々と語ったのを思い出す。
また,高校受験のときのこと。地方から上京して,東京の父の実家に寄宿して高校に行くことになったが,父と一緒に試験場に向かっている途中,真剣にこう忠告した。「大事な局面での一つ一つの決断と生き方が,次の自分自身の環境と立場につながる。今はそのときなのだから,こうした局面での決断は注意深く行うように」と。
父は余り多くを話す方ではなかったが,結論だけは信念を持ってはっきりと示した。こうした信念の背後には,一貫して流れるはっきりした考えがあったのだ。
それは,「人生が予め決定されていて,人の力ではどうすることもできない」という宿命論的な考え方の否定,別な言い方をすると,「流れている一瞬,一瞬の時間を,自分の力を尽くして精一杯に生きていくこと」を大事にする考え方である(この考えは,後に私のマルクス主義否定の考えに大きく影響したが,ここでは省略する)。そして,この考えを支えたのが,持ち前の我慢強さと,将来の可能性に対する楽観主義ではなかったかと思う。
今にして思うと,こうした考え方は,生まれついての気性もさることながら,生きてきた環境や時代の影響した面も大きかったのではないかと感じる。
父は,明治42(1909)年,男5人・女2人の7人兄弟の長男として東京下町で生まれた。大正12(1923)年,中学生のとき関東大震災に遭遇したが,寡黙な父もその時の経験は折に触れて語っていた。父の父親は旧東京市の職員だったが,当時でも7人の子供を育て,教育することは経済的に楽ではなかったに違いない。父から直接に苦労話を聞いたことはなかったが,叔父や母から父や叔父達がアルバイトなどで学費や生活費の工面に苦労した話は時折聞かされた。
大学を卒業した昭和9(1934)年は,昭和恐慌の後遺症の残る就職難の時代。希望の職業には就けず,とりあえず働いて給与を得ながら国家試験を受け公務に就いた。
種々の困難な時期を不断の努力で乗り越え,相応の生活と社会的地位を得るに至ったことが,こうした考え方に辿り着いた背景にあったのではないかと思う。
父の思想形成に影響を与えたもう一つの大きな要素に,当時の時代状況がある。
これをうかがい知る思い出がある。高校時代だっただろうか,父に「今までの生活のなかで,最も嬉しかったことと嫌だったこと」について訊いたことがあった。
父は最も嬉しかったこととして,「旧制高校に入学したときのこと」を話した。そしてその理由として,これまでの努力が認められて社会的に選ばれた立場を得たという自覚が得られたこと,そしてそれを満足させる学問と自由な雰囲気を享受できるようになったことを挙げた。逆に,最も忌避したい経験として,再度に亘る応召で体験した軍隊での自主性の失われた生活について語った。
こうした経験が,その後の思想や趣味や生活上の嗜好にも反映している。西欧的な啓蒙主義・合理的思想への傾斜,クラシック音楽の愛好などはその典型的な例であり,私の少年期に普及し始めたテレビや音響機器など「新しいもの好き」もその現れだったのだろう。私の思想形成の基盤は,無意識のうちに父の影響の下でなされてきた。
今,自分自身の生き方を振り返ってみると,大筋で父の用意したこうした環境のなかで,多少の悔いはあっても大きな間違いはなく生きてくることができた。
これから先,種々の決断を求められる局面は必ずしも多くはないであろう。だが,大きな決断を迫られることはあろう。そうしたとき,こうした「父の教えてくれたこと」を思い起こして,「未来に希望をもって,一日一日を大事に生きていくこと」に心がけていきたいと思っている。
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