有限会社 三九出版 - あの町この街/贋ふるさと記?     K市T町(承前)


















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あの町この街/贋ふるさと記?            K市T町(承前)
                             小櫃蒼平(神奈川県相模原市)

 K市T町――前回,この町にかかわるふたつの〈幻影〉について書いた。この町はまた,わたしに〈夢想癖〉という厄介なものをもたらした町でもある。
 当時,わたしの家から歩いて20分ぐらいのところに鉄道の,(今はどうなっているのかわからないが)貨車を行き先別に編成替えする大きな操車場があって,そこに架かっていた長い跨線橋からわたしはよく貨車の入れ替え作業を眺めていた。貨車の腹にはそれぞれの行き先を示す名札が付いていて,そこには鹿児島とか仙台とか,ときにはわたしの知らない町のなまえが書かれていた。わたしにはその名札が一枚の切符に見えた。わたしは何度それらの貨車に乗り込み,何度見知らぬ土地に降り立ったことだろう。西の空が茜色になる――それが魔法の解ける合図。現実に戻ったわたしは駄菓子屋で空クジをひいたような気分で家に帰る。わたしの〈夢想癖〉は時と場所を選ばなくなった。たとえば学校の音楽の時間に「海」を合唱中,「海は広いな大きいな。……行ってみたいなよその国」のところにくると,わたしは必ず〈よその国〉へこころが飛び,気がつくとひとり音を外していた記憶がある。この〈夢想癖〉は恒常的になり,いまもそれを曳きずっている。
 サーカスに夢中になったのも,このころのことである。とくにサーカスの花形である,空中ブランコの役者と道化に夢中になった。空中ブランコの役者については,その演技もさることながら,なによりもかれらのタイツ姿に魅かれた。宝塚歌劇団やSKDの男役もわたしの贔屓だったが,その理由もまたタイツ姿(じっさいには細身のパンツを身に付けているときが多かったが)にあった。やがてそれは〈制服〉への憧れに変わる。1970年ごろ――たぶん70年安保のころだとおもうが,ルキノ・ヴィスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」のヘルムート・バーガーの親衛隊(SS)の制服姿に痺れたことを覚えている(断っておくが,わたしはナチス賛美者でも制服マニアでも,また倒錯趣味者でもない)。では,なぜ〈制服〉なのかといえば,もともとある種の形式主義者だったわたしは,ヴィスコンティの作品で〈制服の神秘性〉とでもいったものに一撃されたのだ(限定される恐怖,または解放される快感!?)。
 道化についていえば,白塗の表情の下に,(いま思えば)何かから下りてしまった人間の悲しみを見たような気がしたのだ。評論家・蘆原英了は『サーカスの研究』(新宿書房)で,つぎのように書いている。「(道化というのは)もともと、馬に乗ってでてくるグロテスクな百姓(蘆原は,あえて禁句の“百姓”を使うのは,それに含まれている“少し軽蔑的な意味”を表現したいからだと断っている)のことです。……お客の立場からすれば嘲笑すべき対象で、演じるほうも軽蔑されるような役をするわけです。馬に乗って出てきて馬からおっこちたり、醜態を演じるわけです」と。日本のサーカスでの道化の役割は,「お客の子供に風船をやったり、なにか滑稽なことをちょっとやってひっこ」む程度だが,それでもわたしは,白塗の顔と水玉模様や星のついた衣服を見るだけでもの悲しい気持ちになったものだ。
 ところで,ここまでの話は前置きで,わたしの好きな空中ブランコの役者や道化もその一員である,サーカス一座そのものがわたしの〈感傷〉の対象なのだ――つまりサーカスという言葉が表現する全体がわたしの〈夢想癖〉を刺激するのだ。
 たとえばわたしが子供のころ,「サーカス」は曲馬団ともよばれ,〈ひとさらい〉という言葉はたしかな実感として存在した。先述の蘆原英了の『サーカスの研究』には,「わたしたちが子供の頃は、いたずらをすると人さらいにやっちまう……夕方になっても家に帰らず、外で遊んでいると、人さらいにさらわれてしまう、……そうしてそのさらわれた子供たちは、サーカスに売られて曲芸をさせられる」あるいは「曲馬団の団長というのは残忍な男で、ムチで子供たちをなぐりつけて芸を仕込んだり、身体を柔らかくするために酢をのませたり」するというエピソードが紹介されているが,わたしが子供のころ,おとなたちはこの根拠のない空言(そらごと)を〈しつけ〉に使った。その言葉を聞くたびに,わたしは恐怖におののきながらも,いつか〈ひとさらい〉をこころ待ちにしていた。サーカス一座の団員になって,遠い見知らぬ国をまわってみたいという思いは,わたしのなかですでに消すことのできない思いになっていた。だから西条八十作詞の『サーカスの唄』――「旅のつばくろ淋しかないか/おれもさみしいサーカスぐらし……」は,いまでもわたしの愛唱歌である。この歌を口ずさみながら,わたしは無意識の裡に「知らぬ他国」を跨線橋から見た貨車の行き着く先と決めていた。わたしがこんにちサーカス一座の団員になっていないのは至極単純な理由で,〈ひとさらい〉に出会う機会に恵まれなかったこともあるが,〈夢想〉を実現する勇気がなかったからである。
 跨線橋から操車場を眺めることで生まれたわたしの〈夢想癖〉はいまだに治らないが,それも昨今はずいぶんと湿っぽいものになってきた。そういえば当時,叔母たちが「君よ知るや南の国」という歌を口ずさんでいたが,いまやわたしの〈夢想は〉失速し,老いたわたしが自嘲的に口ずさむのは「君よ知るやあちら(・・・)の国」である。
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