有限会社 三九出版 - 還暦盛春駆ける夢             花のひとかぶ


















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花のひとかぶ

野口 広鎮(千葉県野田市)

 社会で多くの時間を費やしてきた,そこでのひと仕事が終わり,停年になった。これから何をする。まだまだ元気だ。このまま仕事をしなければ,ウロウロ,ゴロゴロしている鼠の捕れない猫と同じだ。次の仕事を探すにも,ここらで一休みはしたかった。その機会を待っていたのか,「海外の山へ行こうよ」と友人から誘いがあった。

 ネパールの首都カトマンズを飛び立った小型飛行機は,この国の東端にある飛行場に着陸した。そこからエベレストへ向かう街道を歩き始めて,三日目のことだった。
 標高三千メートルほどの所に点在する集落。道に沿って,石垣が低く乱雑に積み上げられ,その石垣の奥にはレンガ積みや民家があった。
 庭先では,地面に置かれたアルミニュームの洗面器にかがみ込んだ若い女性が,母親と思える人に長い髪を洗ってもらっていた。髪は石鹸で白く泡だっている。傍らでは,女の子と男の子が,素足にゴムサンダルを履き遊んでいる。
 十一月の空はどこまでも青く,空の下には,ヒマラヤの白き山脈が吃立していた。庭に植えられた,四メートルはどの高さの木には,薄紫色の大輪の花が寒そうに風に揺れている。子供は,髪を洗う洗面器からコップで水を掬い取り,ストローに付け,空に向かって吹いた。
 シャボン玉は,いくつかの玉になって,僅かな風に流される。風船は薄紫色の花の上を越え,白い山並みと青い空を背景に飛んで行く。庭の東側は急斜面で,斜面の行きつく底は,氷河から流れ出る川になっていた。川は細長くくねり,水は僅かに乳白色に濁っている。シャボン玉は,フワリ,フワリと漂い,谷底に向かって落ちて行く。だが,いくらも飛ばないうちに,パッと弾けた。
 「あの紫色の花,なんというのかなぁ?」友人とその奥さんに聞いた。
 「知らないですわ,さわやかな花ですね」と彼女は言い,友人は頭を傾げる。
 山仲間は縦一列に並んで歩く。最後尾につく,身体は大きく丸顔で,南西諸島系日本人といっても通るシェルパ族のガイドは口を開いた。英語は流暢だが,日本語は片言だ。そのニケ国語を考え合わせると「ダリア」と言ったように聞こえた。あんなに高い木に咲くダリアがあるはずがない……。ましてやこの高地の晩秋に……。その花の名前は,謎のままになった。
 二十日余りのトレッキングも終わった。カトマンズ空港まで見送りにきたガイドは,十センチほどの長さの茎の切り株を差し出した。ネパール語で埋まる新聞紙に包まれていた。葉もなければ,根も生えていなかった。
 「日本で育つか分かりませんが,咲けばいいオモイデになりますね」
と笑顔で言った。育て方を英字で書いた紙も添えてある。その手書きのアルファベットは,この人の温厚さを表すように柔らかな字であった。

 帰国してすぐ,もらったかぶを鉢に植えた。真冬には部屋に取り入れた。翌年の春には庭に植え替える。春を過ぎ梅雨も明け,夏になった。幹の高さは五十センチぐらいに育った。残暑も終り十月の中頃には一メートルほどに伸びていた。十月も下旬になると二メートルほどにもなった。朝晩は涼しい季節だ。花芽はまだついてはいなかった。もうこれ以上の高さにはならないだろう。花は見られないと半ば諦めた。だが,立冬には三メートルになり,十一月中旬には一階の屋根を越えた。木の先端と,その木の枝分かれした枝先に,花芽らしきものが見えた。
 十一月下旬,その朝は冷え込んだ。テレビは十二月の中旬の気候と報じている。
 雨戸を引く。目に入ってきたのは,――ヒマラヤの,あの花だった。花は英名で『ツリーダリア』,日本では『皇帝ダリア』と呼ぶ多年草とのことだ。
 二階のベランダからはよく見えた。皇帝ダリアの向こうの空に,雲が高く幅広く懸かっていた。雲は,街並みの上空では灰色に黒ずみ,上へ行くほどに白くなった。さらに上部では曲線が凹凸を造り,青空を背負い込んでいた。その景色をしばらく眺める。すると,青空と雲の境の線は稜線に,そのすぐ下は雪を抱えた中腹に,その下の黒ずむ雲は麓に,風景は,あのヒマラヤの山並みに見えた。
 髪を洗う女性が,子供が飛ばすシャボン玉が,山仲間の砂埃にまみれた顔が,リーダーの陽に焼けた笑顔が浮かび上がった。晩秋から冬にかけて皇帝ダリアは,ヒマラヤの山旅を引き連れてきた。
また行きたい。白き山々のふところへ。今度は,何が待っているのだろう……。
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