女工哀史と私の小史
川村昭二郎(滋賀県彦根市)
大正プロレタリア文学で小林多喜治の『蟹工船』,細井和喜藏の『女工哀史』は現代にも通じる名著であることはご存じの通りです。その『女工哀史』は長野県諏訪湖の水力を使った絹の製糸工場を舞台として,事実を小説化したものです。その工場は貧しい飛騨の農村から「100円工女」という言葉で出稼ぎをする女性の手が必要でした。農家は10歳位の子女を借金の代わりに,また“口減らし”のために,半ば人身売買の状態でその工場に送り込みました。工場には働くものに必要な福利厚生というものが全くなく,それは蟹工船でも,紡績でも,炭鉱でも同じで,安全無視,生産第一でした。国家目標は西欧列強に追い付け追い越せで,それは当時の資本主義の常識であり,労働運動も正に初期的なものであったと思われます。
さらに工場では,女子工員を10人並べて作業させますと,手作業では1位から10位まで能率上の優劣がつきます。そこで上位の者には多額の報酬を与えられますが,下位の者には借金が残り帰省もままならない状態にしている工場が多かったようです。
山本茂実の『ああ野麦峠』には,工場の労働条件の悪さのために長時間労働が強制され,過労のために結核に罹り,そのうえ「工場で死ぬと縁起が悪いので病人は家の人に連れて帰ってもらう」という実態が描かれています。クライマックスは女工のみねが兄の背中で野麦峠を越え,「飛騨が見える」と言いながら死んでいく場面です。
私は昭和39年に学卒で母方の祖先が関係していた会社の彦根工場に入社し,平成10年の工場閉鎖までのほとんどの年月をそこに勤務しました。その会社というのが明治以後隆盛した紡績会社です。明治維新により富国強兵政策が取られ,紡績業は大変隆盛を極め,工場の開始式典には天皇陛下が出席されるというほど力が入っておりました。そして日本の十大紡績会社は中国に進出し,第二次大戦の終わるまで多大な利益を得ておりました。しかし私が入社した年以来,国内の紡績は韓国,中国に追い上げられ,しだいに採算が難しくなって,操業短縮の歴史であったように記憶しています。
会社での私は,はじめの20年ほどは社員募集の仕事にも関わりました。昭和43年頃から新規採用は全員高校卒とし,条件として保母さんや幼稚園教員の免許が得られる勤労学生の制度を導入しました。定時制短大で学ぶ制度で,大垣市を中心とした繊維工場の28社が実施しました。後に歯科衛生士や歯科助手の専門学校も作り,働きながら学ぶ人達の大集結の工場集団ができました。その成果は,昭和46年から平成10年までに,勤労女学生で得た資格を生かしている30歳から60歳までの方々が2万人という数になってあらわれました。
しかし,世界の産業構造がすっかり変わってしまい,自動車,電気電子といった分野が主となったため,前述のように従業員の福利厚生に多大な資金を投じて募集はうまくいっても採算が取れないというジレンマに悩まされるようになりました。そして平成10年3月にはその制度も終了してしまったのでした。しかしながら,元勤労学生で社員であった人達は皆さん「厳しい軍隊のような寄宿生活と学校の二本立てのおかげで,故郷に帰っても保母や幼稚園教員となり,結婚して子供の教育にも大変役に立っている」と言います。
日本紡績協会で年に一度,協会に加入している会社の労務採用担当者の会があります。昭和50年頃,女工哀史の映画がNHKで全国に放映されることになりましたので,その会で私は協会幹部に「そのような報道をされては我々募集担当者は大いに困る。NHKに中止するよう申し込んでください」と申し上げました。しかし「昔あった事実は,表現の自由もあって,仕方のないことだ」と言われてしまいました。それは十分にわかったうえでの具申でしたが,「女工哀史」のようなことを無くするためのそれまでの自分たちの努力が無視されたような気持ちであったことも事実でした。
会社勤務の最後の約5年,平成6年から10年までは彦根工場長として勤務しましたが,10年6月に工場を閉めることが決まりました。そのため,13件の社宅用地の至急販売,在庫品の売却,従業員の出向・再就職先の開拓と,大多忙の日々を送りました。中でも,彦根工場開始時に地元農業組合からお借りした水源地の返却は難問題でした。明治45年に近隣村落の流血を見る水争いを解決したという由緒ある,当時では珍しい英国製の蒸気機関による水揚設備のある水源地ですが,昭和40年には枯れてしまっていたのです。その水源地の完全返却,水利権を主張されたわけでしたが,私も努力して組合の人達と毎日のように話し合いを持ち,解決できました。
このような経験から,私は人々を可能な限り愛することによってはじめて感謝・尊敬されることを学びました。今はそのことを生かすよう努力しているところです。
川村昭二郎(滋賀県彦根市)
大正プロレタリア文学で小林多喜治の『蟹工船』,細井和喜藏の『女工哀史』は現代にも通じる名著であることはご存じの通りです。その『女工哀史』は長野県諏訪湖の水力を使った絹の製糸工場を舞台として,事実を小説化したものです。その工場は貧しい飛騨の農村から「100円工女」という言葉で出稼ぎをする女性の手が必要でした。農家は10歳位の子女を借金の代わりに,また“口減らし”のために,半ば人身売買の状態でその工場に送り込みました。工場には働くものに必要な福利厚生というものが全くなく,それは蟹工船でも,紡績でも,炭鉱でも同じで,安全無視,生産第一でした。国家目標は西欧列強に追い付け追い越せで,それは当時の資本主義の常識であり,労働運動も正に初期的なものであったと思われます。
さらに工場では,女子工員を10人並べて作業させますと,手作業では1位から10位まで能率上の優劣がつきます。そこで上位の者には多額の報酬を与えられますが,下位の者には借金が残り帰省もままならない状態にしている工場が多かったようです。
山本茂実の『ああ野麦峠』には,工場の労働条件の悪さのために長時間労働が強制され,過労のために結核に罹り,そのうえ「工場で死ぬと縁起が悪いので病人は家の人に連れて帰ってもらう」という実態が描かれています。クライマックスは女工のみねが兄の背中で野麦峠を越え,「飛騨が見える」と言いながら死んでいく場面です。
私は昭和39年に学卒で母方の祖先が関係していた会社の彦根工場に入社し,平成10年の工場閉鎖までのほとんどの年月をそこに勤務しました。その会社というのが明治以後隆盛した紡績会社です。明治維新により富国強兵政策が取られ,紡績業は大変隆盛を極め,工場の開始式典には天皇陛下が出席されるというほど力が入っておりました。そして日本の十大紡績会社は中国に進出し,第二次大戦の終わるまで多大な利益を得ておりました。しかし私が入社した年以来,国内の紡績は韓国,中国に追い上げられ,しだいに採算が難しくなって,操業短縮の歴史であったように記憶しています。
会社での私は,はじめの20年ほどは社員募集の仕事にも関わりました。昭和43年頃から新規採用は全員高校卒とし,条件として保母さんや幼稚園教員の免許が得られる勤労学生の制度を導入しました。定時制短大で学ぶ制度で,大垣市を中心とした繊維工場の28社が実施しました。後に歯科衛生士や歯科助手の専門学校も作り,働きながら学ぶ人達の大集結の工場集団ができました。その成果は,昭和46年から平成10年までに,勤労女学生で得た資格を生かしている30歳から60歳までの方々が2万人という数になってあらわれました。
しかし,世界の産業構造がすっかり変わってしまい,自動車,電気電子といった分野が主となったため,前述のように従業員の福利厚生に多大な資金を投じて募集はうまくいっても採算が取れないというジレンマに悩まされるようになりました。そして平成10年3月にはその制度も終了してしまったのでした。しかしながら,元勤労学生で社員であった人達は皆さん「厳しい軍隊のような寄宿生活と学校の二本立てのおかげで,故郷に帰っても保母や幼稚園教員となり,結婚して子供の教育にも大変役に立っている」と言います。
日本紡績協会で年に一度,協会に加入している会社の労務採用担当者の会があります。昭和50年頃,女工哀史の映画がNHKで全国に放映されることになりましたので,その会で私は協会幹部に「そのような報道をされては我々募集担当者は大いに困る。NHKに中止するよう申し込んでください」と申し上げました。しかし「昔あった事実は,表現の自由もあって,仕方のないことだ」と言われてしまいました。それは十分にわかったうえでの具申でしたが,「女工哀史」のようなことを無くするためのそれまでの自分たちの努力が無視されたような気持ちであったことも事実でした。
会社勤務の最後の約5年,平成6年から10年までは彦根工場長として勤務しましたが,10年6月に工場を閉めることが決まりました。そのため,13件の社宅用地の至急販売,在庫品の売却,従業員の出向・再就職先の開拓と,大多忙の日々を送りました。中でも,彦根工場開始時に地元農業組合からお借りした水源地の返却は難問題でした。明治45年に近隣村落の流血を見る水争いを解決したという由緒ある,当時では珍しい英国製の蒸気機関による水揚設備のある水源地ですが,昭和40年には枯れてしまっていたのです。その水源地の完全返却,水利権を主張されたわけでしたが,私も努力して組合の人達と毎日のように話し合いを持ち,解決できました。
このような経験から,私は人々を可能な限り愛することによってはじめて感謝・尊敬されることを学びました。今はそのことを生かすよう努力しているところです。
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