自由広場
後藤さんの愛の“叱咤”
小西 忠人(岩手県北上市)
「後藤さんが、僕に『そんな了見じゃ駄目なんだ。もっと自覚してぶつかってゆけ』と言うわけなんだ―」。「後藤さん」とは郷土(岩手)の誇れる先人後藤新平のことで県知事をされた千田正さん(1899~1983)が私にこう話された。既に県政界を退いて閑雲野鶴を友にするといった日々での氏の“後藤新平談”は40年ほど前のことだった。
その「後藤新平ならどう動くのか―」。むろん叶うはずもないが,こんな思いがついつい口に出る。というのも,新型コロナウイルスの対応を巡って国が矢継ぎ早に対策を示してはいるが,これまでの行政面での立ち遅れや「第5波」が懸念される事態での指導性を思う時,自然と私は「後藤新平なら」と頭に浮かんでくるからだ。千田さんに語った後藤新平の「もっと自覚してぶつかってゆけ」というあの言葉を思い起こす。 今年1月下旬,私は何年ぶりかで後藤新平生誕の地にある奥州市の後藤新平記念館を訪ねた時のことである。記念館では昨年から後藤新平の周年記念展を中心にイベントが組まれ,昨年の第7代東京市長就任百年を皮切りに,来年はボーイスカウト,少年団日本連盟初代総裁(総長)就任百年,再来年には関東大震災発生百年(帝都復興院総裁)が予定されていた。2024年には東京放送局(現NHK)総裁就任百年が続く。
こうした記念館が昨年3月,125年前に後藤新平が臨時陸軍検疫事務官長として日清戦争後の23万人を超える帰還兵への伝染病検疫事績を紹介する「日清戦争帰還兵検疫事業」緊急特別展が開かれていた。世界史上,前例のない軍隊検疫を3カ月で完了させた後藤新平の素早い対応と統率力によって,伝染病を阻止したことについてである。記念館でそのことを知り,その時のパンフレットを手にして感じたのは,「参考にすべき外国の経験もなかった」時代にあって,「独創力,統率力,組織力」。それに「胆力」を要して一大難事業に立ち向かった後藤新平の実例が,今のコロナ禍に何を意味しているのかということだった。平時ならともかく,国の命運を担う立場の者としての遂行能力,人に響く発信力がなおさら問われる状況下,125年前に心血を注いで成し遂げ,その責任を全うされた後藤新平に,より一層その感を強くするものだ。
後藤新平が帝都復興院総裁に就くに際しての心境を記されたパネルが,記念館2階の展示室に掲げられている。「過去の生活はすべて去った。一身上の問題を考えている場合ではない。身命を賭して立ち上がるのは今しかない」。復旧でなく復興。欧米にひけを取らない近代都市。首都はあくまで東京。「調査なければ計画なし、計画なければ実行なし」の信念のもとでのダイナミックな新都市造営構想。それを同時代の誰彼もが度肝を抜かした話は有名だが,その構想を持って立ち上がった後藤新平の不抜な気概が2年後,令和の私たちの時代にクローズアップされようとしている。
さてこの稿の主題となってしまうが,「後藤さん」が語ったというそれは髪の毛やら何やらが吹っ飛んでしまいそうな強烈な一撃,いわゆる“叱咤”だった。すっかり凍り付いている千田青年が目に浮かぶが,昔日のあの一撃が人生の「心の財産」になったのだとテカテカ光る頭を軽くなでる感じで微笑された元県知事。また微笑された。
千田さんが凍り付いてしまった青春時代の話は,ざっとこんな具合だった。 《僕が、在京岩手学生会の幹事をやっていたころ、ある学生が「後藤内務大臣に何とか就職を頼んでくれ」と言うわけだ。その学生が「(他県の)先輩が面倒みてくれる話だし、郷土の大先輩後藤さんは相当の傑物だから、ぜひ話をしてくれ」と。そこで僕は麻布の自宅に出掛け、後藤さんに「一つ話をつけてくれませんか」と話したら、 「何しに来た、帰れ」。そう言うなり「ばか野郎、何しに東京に来て勉強しているんだ。斎藤(實)=海軍大臣・朝鮮総督・首相・内務大臣=と一緒に水沢県(現奥州市水沢区)の給仕から飛び出して自分なりにぶつかってきょうまでやってきた」と金縁の眼 鏡をギラギラさせながらズーズー弁で怒られたね。 「自分でやるという考えがないと駄目なんだ。台湾の子供であれ、アイヌの子供であれ、社会に役立つよう自分で真剣になって勉強している人間なら、どんな面倒も見てやる。親類だから、自分の郷土だからと言って勉強もせん者には面倒を見るわけにはいかん」。全く応えたね。》 《そそくさと僕が帰ろうとしたら、どなただったか「別に気になさらんで下さい。どうぞお茶でも」と言って隣の部屋でコーヒーをごちそうになった。あのコーヒーはおいしかったようで、苦かったようで。今までコーヒーをいろいろ飲まされたが、麻布のコーヒーは特別だった。後藤さんは「斎藤も自分も同じなんだから、もっと自覚してぶつかってゆけ」と諭されたんだが、(あの怒りは)そりゃあすごいもんだった。》
“叱咤”という愛の一撃と言えばいいのか,千田さんの胸中には「後藤さんだからこそ、ああも厳しく、“あれ”があったればこそ己の心の筋肉にもなった。(後藤さんは)いつの世にも立ち上がる、そんな方なんだ―」。そう感じ取る私だった。
後藤さんの愛の“叱咤”
小西 忠人(岩手県北上市)
「後藤さんが、僕に『そんな了見じゃ駄目なんだ。もっと自覚してぶつかってゆけ』と言うわけなんだ―」。「後藤さん」とは郷土(岩手)の誇れる先人後藤新平のことで県知事をされた千田正さん(1899~1983)が私にこう話された。既に県政界を退いて閑雲野鶴を友にするといった日々での氏の“後藤新平談”は40年ほど前のことだった。
その「後藤新平ならどう動くのか―」。むろん叶うはずもないが,こんな思いがついつい口に出る。というのも,新型コロナウイルスの対応を巡って国が矢継ぎ早に対策を示してはいるが,これまでの行政面での立ち遅れや「第5波」が懸念される事態での指導性を思う時,自然と私は「後藤新平なら」と頭に浮かんでくるからだ。千田さんに語った後藤新平の「もっと自覚してぶつかってゆけ」というあの言葉を思い起こす。 今年1月下旬,私は何年ぶりかで後藤新平生誕の地にある奥州市の後藤新平記念館を訪ねた時のことである。記念館では昨年から後藤新平の周年記念展を中心にイベントが組まれ,昨年の第7代東京市長就任百年を皮切りに,来年はボーイスカウト,少年団日本連盟初代総裁(総長)就任百年,再来年には関東大震災発生百年(帝都復興院総裁)が予定されていた。2024年には東京放送局(現NHK)総裁就任百年が続く。
こうした記念館が昨年3月,125年前に後藤新平が臨時陸軍検疫事務官長として日清戦争後の23万人を超える帰還兵への伝染病検疫事績を紹介する「日清戦争帰還兵検疫事業」緊急特別展が開かれていた。世界史上,前例のない軍隊検疫を3カ月で完了させた後藤新平の素早い対応と統率力によって,伝染病を阻止したことについてである。記念館でそのことを知り,その時のパンフレットを手にして感じたのは,「参考にすべき外国の経験もなかった」時代にあって,「独創力,統率力,組織力」。それに「胆力」を要して一大難事業に立ち向かった後藤新平の実例が,今のコロナ禍に何を意味しているのかということだった。平時ならともかく,国の命運を担う立場の者としての遂行能力,人に響く発信力がなおさら問われる状況下,125年前に心血を注いで成し遂げ,その責任を全うされた後藤新平に,より一層その感を強くするものだ。
後藤新平が帝都復興院総裁に就くに際しての心境を記されたパネルが,記念館2階の展示室に掲げられている。「過去の生活はすべて去った。一身上の問題を考えている場合ではない。身命を賭して立ち上がるのは今しかない」。復旧でなく復興。欧米にひけを取らない近代都市。首都はあくまで東京。「調査なければ計画なし、計画なければ実行なし」の信念のもとでのダイナミックな新都市造営構想。それを同時代の誰彼もが度肝を抜かした話は有名だが,その構想を持って立ち上がった後藤新平の不抜な気概が2年後,令和の私たちの時代にクローズアップされようとしている。
さてこの稿の主題となってしまうが,「後藤さん」が語ったというそれは髪の毛やら何やらが吹っ飛んでしまいそうな強烈な一撃,いわゆる“叱咤”だった。すっかり凍り付いている千田青年が目に浮かぶが,昔日のあの一撃が人生の「心の財産」になったのだとテカテカ光る頭を軽くなでる感じで微笑された元県知事。また微笑された。
千田さんが凍り付いてしまった青春時代の話は,ざっとこんな具合だった。 《僕が、在京岩手学生会の幹事をやっていたころ、ある学生が「後藤内務大臣に何とか就職を頼んでくれ」と言うわけだ。その学生が「(他県の)先輩が面倒みてくれる話だし、郷土の大先輩後藤さんは相当の傑物だから、ぜひ話をしてくれ」と。そこで僕は麻布の自宅に出掛け、後藤さんに「一つ話をつけてくれませんか」と話したら、 「何しに来た、帰れ」。そう言うなり「ばか野郎、何しに東京に来て勉強しているんだ。斎藤(實)=海軍大臣・朝鮮総督・首相・内務大臣=と一緒に水沢県(現奥州市水沢区)の給仕から飛び出して自分なりにぶつかってきょうまでやってきた」と金縁の眼 鏡をギラギラさせながらズーズー弁で怒られたね。 「自分でやるという考えがないと駄目なんだ。台湾の子供であれ、アイヌの子供であれ、社会に役立つよう自分で真剣になって勉強している人間なら、どんな面倒も見てやる。親類だから、自分の郷土だからと言って勉強もせん者には面倒を見るわけにはいかん」。全く応えたね。》 《そそくさと僕が帰ろうとしたら、どなただったか「別に気になさらんで下さい。どうぞお茶でも」と言って隣の部屋でコーヒーをごちそうになった。あのコーヒーはおいしかったようで、苦かったようで。今までコーヒーをいろいろ飲まされたが、麻布のコーヒーは特別だった。後藤さんは「斎藤も自分も同じなんだから、もっと自覚してぶつかってゆけ」と諭されたんだが、(あの怒りは)そりゃあすごいもんだった。》
“叱咤”という愛の一撃と言えばいいのか,千田さんの胸中には「後藤さんだからこそ、ああも厳しく、“あれ”があったればこそ己の心の筋肉にもなった。(後藤さんは)いつの世にも立ち上がる、そんな方なんだ―」。そう感じ取る私だった。
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