有限会社 三九出版 - 自由広場 我輩は老人である(その1)


















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            我輩は老人である(その1)

           木下 勝一(東京都足立区)

 我輩“老人”は昨日今日の出来事はすぐに忘れるが,50年60年前の事柄は鮮明に覚えていることが多い。
 小中学生時代は尼崎市で過ごした。我が家の近くには進駐軍が接収した甲子園ホテルと浜甲子園の海水浴場があり米軍進駐軍のプールもあった。小学校の校庭には焼夷弾の痕跡があり,民家の白壁にはペンキで黒く乱暴に塗ってあった。空襲を避ける目的であったらしい。 “老人”がそれを見た時の10年前に戦争は終わった筈だが,それは戦争の名残りであった。

 その後富山市へ移り高校時代を過ごした。高校は超スパルタ教育校で北陸随一の進学実績を誇るが,英語の時間などは,英文だけのテキストを一人が半ページを読み上げ,その後それを日本語に翻訳するという結構難しい授業であったので,毎度3~4名がそれをできないために立たされる。2年終了迄に3年生迄の教科書を終了し,3年次は国立大学志望クラス,私立大学志望クラスに再編成される。毎月の模擬テストの成績ランク表を1位~100位迄の成績順位表を全員に毎月配る。お陰で親しくなかった人の名前も60年も経ったのに未だに覚えている。

 その高校を卒業後,高崎の公立大学に入った。大学時代の4年間の印象的出来事は学園紛争である。それは3年生の時に勃発した。当時の市長が財政難を理由に大学を公立から私学へ移行するという行動に出たために,それに反対して学生が立ち上がったのである。我輩“老人”,当時は二十代に入ったばかりの時だったが,その紛争が起きたときに闘争委員会議長となったため,毎日の学生大会で忙殺され勉強どころではなかった。学長や文部省次官,市議会議長と問題解決のための面談もしたが,紛争はなかなか終わらなかった。
 7人の学生がハンガーストライキをやり,体調を壊して高崎病院に入院した時は病院へ見舞いに行った。
 市街地でのデモ行進も行ったが,その時は一般市民の方から多数カンパが寄せられ,中には1000円札もあった。初任給が24,000円の時代だから価値があった。
 その後,学生が校門でバリケードを築き,教授達に私学化反対の働きかけを行っていたために,水上温泉で教授会が開かれるということになった。それで学生も水上まで押しかけプレッシャーをかけた。更にその後,学内での教授会が開かれることになり,田中学長の理解もあり私を含め3名の学生の傍聴が許された。(田中学長は東大出身で岸元総理大臣と同級生。)そしてその教授会の前に,東京の中野区にある田中学長のご自宅で,学長と3名の学生とで市長側の実行進捗の情勢分析を行った。その後教授会が開かれたわけだが,一部の教授は市長の意向に賛同していたものの,田中学長 により迫力ある議事が進められ,学生の要望どおりに終わった。
 またこの紛争中には市庁舎での座り込みも行った。そこでは500数十名の学生と一緒であったが私と他の2名が逮捕されることとなった。毎日の集会で壇上に居た為マークされていたらしい。前橋の検察庁での一晩だけの拘留であったが,高崎の警察署を多数の学生が取り囲んでいた為,前橋の検察庁への送りは混乱を避ける為,警察署の裏口より署長の高級車で護送された。翌日,釈放され大学に戻ると講堂に満席の学生が拍手で迎えてくれ心強かった。そして,大学闘争時代の世にも不思議な話であるが,当時期末試験ではカンニングの取り締まりが厳しく,毎回2~3名が無期停学になっていたぐらいなのに,警察に逮捕された我々3名はお咎めなしとなったのである。

 さてこの“老人”は,大学闘争時代の紛争を乗り越え,就職試験では東京証券取引所を受験した。120名受験し,筆記試験では20名が合格した。そこまでは私もパスであったが,面接試験での質問は学生運動をやったか否かの質問ばかりでアウトとなった。当時の社会情勢は鉄道や工場でのストライキが花盛りで,今から思えば採用側の気持ちもわかる気がする。東証も当時は毎年ストライキをやっていた。最終的に就職先は証券会社であった。証券会社では学生運動で鍛えられていたお陰で従業員組合委員長をやることとなった。その後も業界団体の全証連絡会議議長として週休2日制の要求書を証券業協会会長に提出した。今では当り前の週休2日制だが,当時,実現できたのは良かったと思う。                     (以下次号)
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