有限会社 三九出版 - 好齢女(こうれいじょ)盛(せい) もの語る 母と加藤英重


















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好齢女(こうれいじょ)盛(せい) もの語る

             母と加藤英重

          白川 治子(神奈川県横浜市)

 「本物語」で,母と嵯峨浩,竹久夢二,柳原白蓮との関わりを綴ってきた。他にも教科書に載るような人の名前を,軽い口調で話していた。母が有名人と知り合いだったと話すと「すごいわねえ」と言う方がいるが,母の実力や人柄のせいではない。祖父の加藤英重が,社交的で少し羽振りが良かったにすぎない。すべて戦争前の事で,空襲で丸焼けになった貧乏生活しか知らない私には,写真がなければ母が嘘をついているとしか思えなかった。
 母は95歳で入居した老人ホームで102歳の生涯を終えた。100歳を過ぎた頃からキーパーソンの私や自分の夫の名前すら思い出せないのに,加藤英重の名前は施設の職員にも知れわたっていた。
 英重は明治10(1877)年に金沢で生まれたが,1歳になるかならないうちに北海道に渡った。開拓を夢見た父親の和平が,仲間数人と原野を切り開くためだった。この事は『石川百年史』に記されている。「……明治11年加藤和平らは、同士と開進社を組織し、後志、渡島両国の開墾に従事したが、これは失敗した……」とある。
 和平は加賀100万石の和算学者で,維新後に「新撰数学」を著したほどだが,安定した地位を捨てた。結果的には武士の商法で開拓は頓挫したのだが,長年にわたり,北の大地で測量の仕事をしたり警察に勤務していたらしい。
 その息子の英重は,元の殿様である前田藩から奨学金をもらい,北海道から金沢の四高に進学した。四高から東京帝國大学法学部に入学するまでは順調だった。でも大学4年の時に前田家の人に誘われて,アメリカに渡った。明治32(1899)年の東大卒といえば,それだけで出世が約束されていたのに,卒業年に退学したのだ。「加藤は馬鹿だなあ」が同級生の語り草だったという。英重の晩年を共に過ごした従弟は,「祖父も曽祖父も安定した地位を望まずに,新天地に夢を託した。そのあげく途中で頓挫している。破天荒な親子だよなあ」と言う。
 アメリカのサクラメント(カリフォルニアの州都)での写真が残っているが,英重の妻「テツ」は,映画「風と共に去りぬ」のスカーレットのような大きな帽子をを被り,レース付きのロングドレスを着ている。この地で貿易に携わり,アーリーアメリカン風の豪邸に住んでいた。
 英重の家族や仕事や交友関係を記したエッセイが,アメリカのカリフォルニア図書館でデジタル化されていることが分かった。8年前に開原と名乗る若者が教えてくれた。私のHP「母が語る20世紀」http://cosmos.moo.jp/20seiki.htmを検索し,加藤英重の名を見つけてメールをくれた。本の名前は「故国に帰ってから」,著者は開原榮(加州サクラメント市第4街1414),大正8年6月17日発行,発行所は「よろづ商店」(加州サクラメント市第4街1300)。
 ネットでエッセイを読んだ私は,祖父のアメリカでの具体的な生活を知り,感慨深かった。祖父母や伯母や母が実名で出ている。祖父は何冊も所蔵していたに違いないが,関東大震災ですべてを失った。アメリカは,日本人の著作(日本語)をデジタルとして残してくれている。私は自宅のパソコンで無料で読むことができた。ありがたい世の中になったものだ。
 順調だった貿易や新聞発行の仕事をやめ,英重は大正2(1913)年に日本に帰国。母はその翌年,横浜で生まれている。太平洋戦争時に日本人が強制収容所に入れられた話はよく聞くが,それより30年も前から,排日の空気が高まっていた。大正2(1913)年に日本人の土地所有禁止,大正9(1920)年に日本人の借地禁止,大正13(1924)年労働移民の全面禁止。
 「こんなアメリカで暮らせるもんかと、さっさと引き上げたらしいよ。でも再渡米するつもりで、荷物を残してきたと祖母が残念がっていた」と従弟は言う。
 帰国後は引き続き貿易の仕事をしていたので,母はアメリカの人形や菓子に囲まれて育った。排日ムードが強まるにつれ嫌気がさして,貿易会社を親戚に譲渡。その後,日比谷で出版社を起こすも失敗したのか,母が物心つくころには三越に勤めていた。すべて中途半端のように思えるが,東大法学部を出て高級官僚になるより,面白い人生だったかもしれない。
 英重は,交友関係が広く戦前までは多少の財力があった。彼の庇護のもとで,母は私に比べると一段と華やかな生活ができたのだった。英重は戦後の変化についていけなかったのか,空襲で無一物になった娘一家に経済的援助をしてくれなかった。それでも,母の最晩年は,加藤英重の思い出で占められていた。仲が悪かったとも思えない夫の名前が出ないのに,英重の名だけは102歳までインプットされていた。
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