有限会社 三九出版 - 東日本大震災私は忘れない   帰宅困難,徒歩で都心横断


















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東日本大震災私は忘れない
          帰宅困難,徒歩で都心横断

          佐藤 辰夫(東京都青梅市)

平成23年3月11日,私は東京都庁へ向かうため赤坂見附駅から,地下鉄を乗り継いで,大江戸線都庁前500メートルの所に居た。突然,地下なのに電車が震え,左右に上下に,相当の振動であったことを思い出す。一瞬灯りが止まり,地震だろうとは想像したが,どうなるのだろうと思った。数分して照明が回復し,アナウンスがあり『指令室より最寄りの駅まで移動指示が出ました』の声が聞こえた。最寄りの駅は,東京都庁前駅。500メートル程。数分で到着ですとのことだった。都庁前駅到着。エスカレーターはまだ完全に動いていて,都庁一階まで到着。取り敢えずコーヒーショップに入る。混雑していたが運よく席がとれ,一杯¥250のコーヒーを頼み,飲みながら情報を収集。その内電車も動き出すだろうと,2杯目を注文,¥100だった。2回目だから安いと。周りの人たちも情勢を見ているようで,その内「池袋まで歩くよ」と言うような人が出たが,そんな事できないと,もう少し情勢を見ていた。3杯目を注文,又¥100。結構うまいコーヒーなので,辛抱できた。その頃には,事務手続きのための都庁内各部署への訪問は中止されていた。仕事はできないなーと思ったりしていると5時近くなる。4杯目を注文。今度は無料でいいですよとのこと。大サービスを感じた。 その直後,館内放送で当時の東京都知事,石原慎太郎氏の特別アナウンスがあり,『東北で大きな震災があり,都内の交通機関は全部停止状態で,このまま明日まで継続する』旨の内容だった。『都庁内で過ごし,余り外には出ないように』とのこと。夜明かししなさいというような内容だった。しかしそれでも,その内公共交通が開通するだろうと楽観していたが,それははずれた。さあ如何しよう,青梅市の我が住まいまでは大よそ42キロ。つい一週間前に都内42.195キロを,5時間半ほどで完走したのだが,又しても,40キロ走りか?と思ったが,走り・歩きには自信はあったが,あの時は軽装で,マラソンシューズだった。今回は革靴で,鞄を持っている。オマケにコートまで着ている。10時間ぐらいは掛かるだろう。今は午後5時過ぎ,10時間かかると夜通し歩いて午前3時過ぎに到着か?と思った。それから,娘夫婦が勝鬨に住んでいることを思い出し,電話を掛けたが全く通じず,メールを出してもしばらくは返信もなかった。 ―4―                                東日本大震災 30分ほどして,勝鬨からやっとのメールがあり,こちらに来てくださいとのことだった。やれ嬉し!と。しかし勝鬨までも,10キロ以上あるなー。曲がりくねった道を行けば12~13キロあるだろう。しかし青梅までを考えれば何分の一かと思い,5時半過ぎ,決心して勝鬨まで歩くことにした。都区内の大よその道は車で走っている経験があるので,歩いても行けるだろうとの目論見はあった。青山通りまで出れば,赤坂見附まで出て,そこからは東京駅も真っ直ぐ。勝鬨通りを東進すれば勝鬨橋を渡れるぞの目算が立った。 都庁を出て,代々木まで着た時,交通整理に遭い,外国の要人が来ているのでこの道は通行禁止ですとのこと。こんな時,誰が要人で何が大事なんだと思いつつ,係の警官なんぞに文句を言っても埒が明かないので黙って従い,一寸道を間違えたなーと思いながら,移動していて,中央線の土手沿いに歩いているつもりが,山手線の土手の西側を歩いていたのだ。今考えると明治神宮のほとりを歩き,原宿に到着したのであった。そこで自分の立ち位置が判明し,明治神宮前から千代田線沿いの道を進み青山通りを目指した。思えば大きな遠回りをしたものだ。途中,何度かトイレを探したがその都度,学校が開放していたり,公園があったり、公共機関がトイレを開放したりしていて不自由はなかった。とにかく車道という車道は,車であふれ,歩道もいっぱいの人が,あらゆる方向に歩いていた。それでも立小便の人もいないし,ごみを散らす人も見受けなかった。日本の人々の律義さが偲ばれる思いだった。 青山通りを東進し,馴染の赤坂見附に到着。腹が減ってきたので交差点際の食堂に入った。人はいっぱいだったが,一杯のカレーライスにありついた。いつもとは違った値段を覚悟していたが変わらずの¥710だった。ここからは皇居の淵を通り,銀座4丁目を通過し,勝鬨通りを通って,無事勝鬨橋を渡り右折して勝鬨6丁目の高層マンションに到着。又,これからが一苦労。到着したマンションの入り口から,到着した旨メールすると,娘の夫君が出迎えてくれた。エレベーターは動かないとのこと。この時間地震から5時間以上過ぎると警戒のためか,エレベーターはストップだった。19階の居宅まで延々階段を上った。鞄・コートは持ってもらったが,休み休み上ってようやく到着。出されたビールのうまかったこと,孫たちの顔が特別可愛かったこと。
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