津 波 の 恐 怖
齊藤 賢治(岩手県大船渡市)
あの日までは津波の夢を月に2度3度見ていた。津波が迫って来ているというのに逃げようとしても体が自由に動かないのだ。そんな中でもカメラは何処だと探そうとしているその間に大波にのまれもがき苦しんだり,また別の日には山の上を大波が怒涛となって押し寄せて来る中逃げろ,早く早くと焦る,しかし体が進まない。いつも追い詰められる夢で苦しさに眼が覚めた。そしてその度に,きっと近々の内に大津波が来ると確信していた。また,津波となればその前に大地震が来るはずと思い家具やテレビ・冷蔵庫などは壁の骨材にチェーンで固定し,水が止まって給水車が来たときのためにポリタンクを数個用意。チリ地震津波の体験から,津波後の移動手段として瓦礫を避け道なき道を走れるし,いろんなことに利用できるバイクも買っていた。
さて,もし津波が来るとなったらどうするかだが,我が家の立地は期せずも海抜40メートルの高台で波の向かう湾奥ではなく,横に面しているので津波の駆け上がりも心配はしなかった。家にいた場合は津波の心配は問題ないのである。
しかし,私が勤めていた菓子製造会社(さいとう製菓)の本社は大船渡湾の最奥部で海岸からわずか60メートルと近い。津波の被害は免れないだろう。私自身も本社に居る時間帯に津波が来たとすれば大変危険である。用心として,避難の経路をどうするか,避難場所までどう逃げるかを考えていた。普段会社の朝礼などでは,何時どこに居る時に津波が発生するか分からないので,社員はどこに居た場合でも,渋滞に巻き込まれると逃げ遅れるから車での避難はやめた方が良いと繰り返し話題にしていた。しかしその私が車で逃げる方法を考えていた。車も高価な財産だし流したくないと思っていたからである。そして巨大な地震となれば一斉に車が動き出すので誰よりも早い避難行動が必要だと心に刻み込んでもいた。では,経路はどうするか。車は本社の川向こうの和菓子工場裏に置いていたので,事務所から橋を渡って車に乗って防潮堤の横を通り県道を横切って高台に上がるという想定をしていた。
そんなことを考えながらも数年が過ぎた。自分の身の周りはそれでいいと思ったが、本社傍にある和菓子工場が流されたら生産が全く出来なくなるし,本社も流されては機能を失うと心配していた。それで,さいとう製菓のメインとなる「かもめの玉子」工場は高台にあり,その周辺は田畑なので和菓子工場をそこに移設したいと役員会に上程したが,若干の景気低迷ということがあって却下された。結果,流されてしまった。私は父親と母親から津波や火事の恐ろしさを何度も聞かされ防災意識をも高く育てられた。お陰で地震津波からは逃げおおせたのであったが……。
それにしても,震災後の生活は想像を超えていた。文化的な生活に慣れて生活してきた私は知恵を働かせなくては生きて行けなかった。先ず水のこと。当日の夜,通常なら15分程度で帰れる道のりが一般道は通れなくなったので遠回りをして大渋滞の中4時間半も掛けて家にたどり着いた。電話が通じるのであれば家内の無事の確認と風呂に水をためて欲しいと頼んだところだが,当日は午後の3時頃から携帯は圏外表示になってメールも通じないのでそれもできない。家に着いたら家内の姿が窓越しに見えたので先ずは安心して,すぐさま水道が出るか確認したらまだ出る。早速水を風呂にいっぱい貯めた。給水車がきたのは4日後,用意しておいたポリタンクが役立ったことは言うまでもないが,風呂に貯めた水のお陰で命を長らえることができた。
電気が点かない生活は18日間も続いた。発電機はあったものの燃料が少ないので充分には回せない。周りも真暗で心の拠りどころが欲しかった。暗闇の中にいるような思いの中,息子達や社員の安否,そして会社の建て直しと,重圧感が夜となく昼となくおそってくる。食料が不足したこともあったが短期間で体重は激減した。そんな途方に暮れる日々に,破壊された街の中にはボランティアが私達のためにガレキの片付けをしていた。その姿を見て,自分達は一人じゃない,私たちを案じてくれる人達がいっぱいいると思った。ボランティアから元気と勇気を頂き立ち直れたのである。彼らを恩人だと感謝している。
2年後,大船渡津波伝承館を開設し,それを運営しながら多くのお客様に津波の恐怖と人の命を守ることの大切さを伝えているが,逆にお客様からお話をお伺いする機会が多くある。そんな中で,防災意識の低い人の多いことに驚いている。怖さを伝えようとするが他人事にして聞いている方の多いこと多いこと。平穏で平和な時が長いと自然の怖さを忘れ,今日の幸せは明日も続くと思っているようである。しかし大きな災害は突如として発生する。皆様に意識して欲しいこと,それは地球は人類のためにある訳ではないということを知り,自然と共に生き,何があっても対応できる心構えを整えるということ。その上で,平穏な今日を暮らして欲しいと願っている。
齊藤 賢治(岩手県大船渡市)
あの日までは津波の夢を月に2度3度見ていた。津波が迫って来ているというのに逃げようとしても体が自由に動かないのだ。そんな中でもカメラは何処だと探そうとしているその間に大波にのまれもがき苦しんだり,また別の日には山の上を大波が怒涛となって押し寄せて来る中逃げろ,早く早くと焦る,しかし体が進まない。いつも追い詰められる夢で苦しさに眼が覚めた。そしてその度に,きっと近々の内に大津波が来ると確信していた。また,津波となればその前に大地震が来るはずと思い家具やテレビ・冷蔵庫などは壁の骨材にチェーンで固定し,水が止まって給水車が来たときのためにポリタンクを数個用意。チリ地震津波の体験から,津波後の移動手段として瓦礫を避け道なき道を走れるし,いろんなことに利用できるバイクも買っていた。
さて,もし津波が来るとなったらどうするかだが,我が家の立地は期せずも海抜40メートルの高台で波の向かう湾奥ではなく,横に面しているので津波の駆け上がりも心配はしなかった。家にいた場合は津波の心配は問題ないのである。
しかし,私が勤めていた菓子製造会社(さいとう製菓)の本社は大船渡湾の最奥部で海岸からわずか60メートルと近い。津波の被害は免れないだろう。私自身も本社に居る時間帯に津波が来たとすれば大変危険である。用心として,避難の経路をどうするか,避難場所までどう逃げるかを考えていた。普段会社の朝礼などでは,何時どこに居る時に津波が発生するか分からないので,社員はどこに居た場合でも,渋滞に巻き込まれると逃げ遅れるから車での避難はやめた方が良いと繰り返し話題にしていた。しかしその私が車で逃げる方法を考えていた。車も高価な財産だし流したくないと思っていたからである。そして巨大な地震となれば一斉に車が動き出すので誰よりも早い避難行動が必要だと心に刻み込んでもいた。では,経路はどうするか。車は本社の川向こうの和菓子工場裏に置いていたので,事務所から橋を渡って車に乗って防潮堤の横を通り県道を横切って高台に上がるという想定をしていた。
そんなことを考えながらも数年が過ぎた。自分の身の周りはそれでいいと思ったが、本社傍にある和菓子工場が流されたら生産が全く出来なくなるし,本社も流されては機能を失うと心配していた。それで,さいとう製菓のメインとなる「かもめの玉子」工場は高台にあり,その周辺は田畑なので和菓子工場をそこに移設したいと役員会に上程したが,若干の景気低迷ということがあって却下された。結果,流されてしまった。私は父親と母親から津波や火事の恐ろしさを何度も聞かされ防災意識をも高く育てられた。お陰で地震津波からは逃げおおせたのであったが……。
それにしても,震災後の生活は想像を超えていた。文化的な生活に慣れて生活してきた私は知恵を働かせなくては生きて行けなかった。先ず水のこと。当日の夜,通常なら15分程度で帰れる道のりが一般道は通れなくなったので遠回りをして大渋滞の中4時間半も掛けて家にたどり着いた。電話が通じるのであれば家内の無事の確認と風呂に水をためて欲しいと頼んだところだが,当日は午後の3時頃から携帯は圏外表示になってメールも通じないのでそれもできない。家に着いたら家内の姿が窓越しに見えたので先ずは安心して,すぐさま水道が出るか確認したらまだ出る。早速水を風呂にいっぱい貯めた。給水車がきたのは4日後,用意しておいたポリタンクが役立ったことは言うまでもないが,風呂に貯めた水のお陰で命を長らえることができた。
電気が点かない生活は18日間も続いた。発電機はあったものの燃料が少ないので充分には回せない。周りも真暗で心の拠りどころが欲しかった。暗闇の中にいるような思いの中,息子達や社員の安否,そして会社の建て直しと,重圧感が夜となく昼となくおそってくる。食料が不足したこともあったが短期間で体重は激減した。そんな途方に暮れる日々に,破壊された街の中にはボランティアが私達のためにガレキの片付けをしていた。その姿を見て,自分達は一人じゃない,私たちを案じてくれる人達がいっぱいいると思った。ボランティアから元気と勇気を頂き立ち直れたのである。彼らを恩人だと感謝している。
2年後,大船渡津波伝承館を開設し,それを運営しながら多くのお客様に津波の恐怖と人の命を守ることの大切さを伝えているが,逆にお客様からお話をお伺いする機会が多くある。そんな中で,防災意識の低い人の多いことに驚いている。怖さを伝えようとするが他人事にして聞いている方の多いこと多いこと。平穏で平和な時が長いと自然の怖さを忘れ,今日の幸せは明日も続くと思っているようである。しかし大きな災害は突如として発生する。皆様に意識して欲しいこと,それは地球は人類のためにある訳ではないということを知り,自然と共に生き,何があっても対応できる心構えを整えるということ。その上で,平穏な今日を暮らして欲しいと願っている。
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