俳句における「本歌取り」考
菅原 香風(東京都小金井市)
「本歌取り」とは,和歌作成上の表現技術の一法である。先人の和歌(本歌)中の語句を自身の和歌中に取り込んで,本歌の世界と,自身の世界とを二重写しにして,和歌に広さと深みを加え,余情を豊かにしようとする技法である。
「本歌取り」は新古今和歌集時代に盛行したが,その好例として挙げられるのが藤原定家の和歌である。
本歌 苦しくも降りくる雨か三輪の崎 佐野の渡りに家もあらなくに (長忌寸奥麿・万葉集) 新作 駒とめて袖うち払ふ陰もなし 佐野のわたりの雪の夕暮れ (藤原定家・新古今和歌集) 定家は,「本歌取り」の本質について考察しているが,「本歌」の対象は,和歌だけでなく,漢詩文や日本の古典(「源氏物語」「伊勢物語」など)にも広げている。 その「本歌取り」,俳句の世界では,どう扱われているのか。私がそう思ったのは, 「鷹羽(たかは)狩(しゅ)行(ぎょ)の(う )俳句」(太田かほり著)を読んだからである。狩行は,欧米やインド・モンゴルなど16か国へ,30余年にわたって吟詠旅行に出かけた。1989年にはスイスを訪問している。 アイガー,メンヒ,ユングフラウの三名山を望む位置に、「アルプスを愛した日本の作家新田次郎ここに眠る」と記された記念碑が建つ。碑文の一節に詩が眠る。その詩が新たな詩の誕生を促す。 次郎眠らせ 一面のお花畑 この句の中に昭和の名詩が息づく。 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。 (三好達治「雪」) 新田次郎は,気象学者で,山岳小説家,「アイガー北壁」などの作品がある。1980年に東京都武蔵野市の自宅で心筋梗塞で急逝し,墓は故郷諏訪市の正願寺にあるので,「ここに眠る」は,分骨したということであろうか。 三好の「雪」には,私は国語の教科書で出合った。「太郎・次郎」という固有名詞によって,一家庭の子だけでなく,日本中の家庭の子たちに詩の世界が広がっていくこ ―17― 《自由広場》 とに,高校生ながら感心した。 達治の詩は日本民族の詩歌のリズムに乗り、狩行句は本歌取りという古来の形式に則っている。それぞれが伝統ある詩歌の国の住人である。達治は蕪村の名画「夜色楼台図」(国宝,引用者注)からこの詩のイメージを得たというが、狩行は達治の詩からこの一句を得た。一つのジャンルが別のジャンルをいざない、それがまた別の文芸の母胎となる。日本男児の名前を代表する「太郎・次郎」、日本の昭和詩を代表する達治の「雪」、これら二つの日本代表とスイスで再会した感動が俳句という最も日本的な形式に凝縮された。(以上太字は,太田著の上掲書) 俳聖と称される松尾芭蕉には「本歌取り」の句がたくさんあるが,手元の「俳句大事典」には「本歌(句)取り」という項目はない。たとえば,本歌から7音分の語を借用すると,自身用は10音分しかないので,自身の情意を表現するのはむずかしく,また,類似句や盗作になってしまうおそれがある。そのため,現代俳句界では「本歌取り」は公認されていないのかもしれない。 しかし,追悼句や挨拶句には,故人や知人の句中の語句を借用して,追悼の意や敬意・祝意を表すものが多い。掲句は,臼田亜浪33回忌に,当時の俳人協会会長,松崎鉄之介が寄せた追悼句である。 本歌 死ぬものは 死にゆくつつじ 燃えてをり (臼田亜浪) 新作 死ぬものは 死に亜浪忌も 古りにけり (松崎鉄之介) 俳句の本を見ていて,次の句に目が留まった。 桐咲いて 熱いぞなもし 道後の湯 (百合山羽公) 「○○○ぞなもし」(○○○でございますよ)は愛媛県の方言で,夏目漱石の「坊っちゃん」に頻出する。この小説は,漱石が松山中学校勤務中の体験をヒントに書いたものなので,作句者は,「坊っちゃん」の世界と自作句の世界を二重写しにしようと思ったのであろう。 次掲句には前書きがある,「特殊潜航艇の残骸に触れて」。この艇は太平洋戦争中に海軍が作った小型潜水艦で,2人乗り。2基の魚雷を積んで,敵艦に体当たりするための特攻兵器である。 ―18― 潜航艇 青葉茂れる 夕まぐれ (川崎展宏) 中・下の句は,落合直文作詞の唱歌「桜井の訣別」の冒頭「青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木(こ)の下陰に駒とめて…」から取った。楠木正成は,後醍醐天皇の命を受け,上洛しようとする足利尊氏の大軍を少人数で迎え討とうとする。桜井は現大阪府三島郡島本町の地名。正成は,11歳の長子正行(まさつら)に,成長したら天皇に忠義をつくせと諭して別れ,討ち死に覚悟で戦場へ赴く。この唱歌は,明治時代から太平洋戦争時まで「忠君」の歌として愛唱された。 展宏句は,楠木父子の別れと,特攻兵の家族との別れと,生還不能と知りながら運命に逆らえない,正成と特攻兵とを二重写しにしている。作句者自身の語は上の句だけだが,「夕まぐれ」に,特攻兵の胸中の苦悩の表現を託しているようだ。ともあれ,自身の語は上の句5音分だけというのは,離れ技として賞賛すべきであろう。 さて,私は,少年時代に子守りをさせられ,ぐずったり泣いたりする背中の子を早く眠らせたいと願い,眠れば体重が2倍になった感じに苦しめられた。その体験を,60年以上たってから俳句にまとめてみた。 菜の花に 鐘や背の子は 眠りをり これを,三好達治「雪」の「本歌取り」の形にしてみようと考えた。私の俳句は,ことば遊びによってまとめあげることが多いのだ。 菜の花や 背(せな)の太郎を 眠らせん 背の太郎 花菜畑に 眠らせん 本歌では,「太郎を」「眠らせ」なので,少し形を改める。 背の太郎 眠りを花菜に あづけしよ 背の太郎 花菜にまかせ 眠らせし 「本歌取り」ならば,「太郎」と「眠らせ」を切り離さずに,続けるほうがよい,と気づく。これで,三好の「雪」の世界と,私の体験とが二重写しになったであろうか。あるいは,それは,小手先のことば遊びだけでは無理なのであろうか。 菜の花に ゆだね太郎を 眠らせる 菜の花は ぐづる太郎を 眠らせる
菅原 香風(東京都小金井市)
「本歌取り」とは,和歌作成上の表現技術の一法である。先人の和歌(本歌)中の語句を自身の和歌中に取り込んで,本歌の世界と,自身の世界とを二重写しにして,和歌に広さと深みを加え,余情を豊かにしようとする技法である。
「本歌取り」は新古今和歌集時代に盛行したが,その好例として挙げられるのが藤原定家の和歌である。
本歌 苦しくも降りくる雨か三輪の崎 佐野の渡りに家もあらなくに (長忌寸奥麿・万葉集) 新作 駒とめて袖うち払ふ陰もなし 佐野のわたりの雪の夕暮れ (藤原定家・新古今和歌集) 定家は,「本歌取り」の本質について考察しているが,「本歌」の対象は,和歌だけでなく,漢詩文や日本の古典(「源氏物語」「伊勢物語」など)にも広げている。 その「本歌取り」,俳句の世界では,どう扱われているのか。私がそう思ったのは, 「鷹羽(たかは)狩(しゅ)行(ぎょ)の(う )俳句」(太田かほり著)を読んだからである。狩行は,欧米やインド・モンゴルなど16か国へ,30余年にわたって吟詠旅行に出かけた。1989年にはスイスを訪問している。 アイガー,メンヒ,ユングフラウの三名山を望む位置に、「アルプスを愛した日本の作家新田次郎ここに眠る」と記された記念碑が建つ。碑文の一節に詩が眠る。その詩が新たな詩の誕生を促す。 次郎眠らせ 一面のお花畑 この句の中に昭和の名詩が息づく。 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。 (三好達治「雪」) 新田次郎は,気象学者で,山岳小説家,「アイガー北壁」などの作品がある。1980年に東京都武蔵野市の自宅で心筋梗塞で急逝し,墓は故郷諏訪市の正願寺にあるので,「ここに眠る」は,分骨したということであろうか。 三好の「雪」には,私は国語の教科書で出合った。「太郎・次郎」という固有名詞によって,一家庭の子だけでなく,日本中の家庭の子たちに詩の世界が広がっていくこ ―17― 《自由広場》 とに,高校生ながら感心した。 達治の詩は日本民族の詩歌のリズムに乗り、狩行句は本歌取りという古来の形式に則っている。それぞれが伝統ある詩歌の国の住人である。達治は蕪村の名画「夜色楼台図」(国宝,引用者注)からこの詩のイメージを得たというが、狩行は達治の詩からこの一句を得た。一つのジャンルが別のジャンルをいざない、それがまた別の文芸の母胎となる。日本男児の名前を代表する「太郎・次郎」、日本の昭和詩を代表する達治の「雪」、これら二つの日本代表とスイスで再会した感動が俳句という最も日本的な形式に凝縮された。(以上太字は,太田著の上掲書) 俳聖と称される松尾芭蕉には「本歌取り」の句がたくさんあるが,手元の「俳句大事典」には「本歌(句)取り」という項目はない。たとえば,本歌から7音分の語を借用すると,自身用は10音分しかないので,自身の情意を表現するのはむずかしく,また,類似句や盗作になってしまうおそれがある。そのため,現代俳句界では「本歌取り」は公認されていないのかもしれない。 しかし,追悼句や挨拶句には,故人や知人の句中の語句を借用して,追悼の意や敬意・祝意を表すものが多い。掲句は,臼田亜浪33回忌に,当時の俳人協会会長,松崎鉄之介が寄せた追悼句である。 本歌 死ぬものは 死にゆくつつじ 燃えてをり (臼田亜浪) 新作 死ぬものは 死に亜浪忌も 古りにけり (松崎鉄之介) 俳句の本を見ていて,次の句に目が留まった。 桐咲いて 熱いぞなもし 道後の湯 (百合山羽公) 「○○○ぞなもし」(○○○でございますよ)は愛媛県の方言で,夏目漱石の「坊っちゃん」に頻出する。この小説は,漱石が松山中学校勤務中の体験をヒントに書いたものなので,作句者は,「坊っちゃん」の世界と自作句の世界を二重写しにしようと思ったのであろう。 次掲句には前書きがある,「特殊潜航艇の残骸に触れて」。この艇は太平洋戦争中に海軍が作った小型潜水艦で,2人乗り。2基の魚雷を積んで,敵艦に体当たりするための特攻兵器である。 ―18― 潜航艇 青葉茂れる 夕まぐれ (川崎展宏) 中・下の句は,落合直文作詞の唱歌「桜井の訣別」の冒頭「青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木(こ)の下陰に駒とめて…」から取った。楠木正成は,後醍醐天皇の命を受け,上洛しようとする足利尊氏の大軍を少人数で迎え討とうとする。桜井は現大阪府三島郡島本町の地名。正成は,11歳の長子正行(まさつら)に,成長したら天皇に忠義をつくせと諭して別れ,討ち死に覚悟で戦場へ赴く。この唱歌は,明治時代から太平洋戦争時まで「忠君」の歌として愛唱された。 展宏句は,楠木父子の別れと,特攻兵の家族との別れと,生還不能と知りながら運命に逆らえない,正成と特攻兵とを二重写しにしている。作句者自身の語は上の句だけだが,「夕まぐれ」に,特攻兵の胸中の苦悩の表現を託しているようだ。ともあれ,自身の語は上の句5音分だけというのは,離れ技として賞賛すべきであろう。 さて,私は,少年時代に子守りをさせられ,ぐずったり泣いたりする背中の子を早く眠らせたいと願い,眠れば体重が2倍になった感じに苦しめられた。その体験を,60年以上たってから俳句にまとめてみた。 菜の花に 鐘や背の子は 眠りをり これを,三好達治「雪」の「本歌取り」の形にしてみようと考えた。私の俳句は,ことば遊びによってまとめあげることが多いのだ。 菜の花や 背(せな)の太郎を 眠らせん 背の太郎 花菜畑に 眠らせん 本歌では,「太郎を」「眠らせ」なので,少し形を改める。 背の太郎 眠りを花菜に あづけしよ 背の太郎 花菜にまかせ 眠らせし 「本歌取り」ならば,「太郎」と「眠らせ」を切り離さずに,続けるほうがよい,と気づく。これで,三好の「雪」の世界と,私の体験とが二重写しになったであろうか。あるいは,それは,小手先のことば遊びだけでは無理なのであろうか。 菜の花に ゆだね太郎を 眠らせる 菜の花は ぐづる太郎を 眠らせる
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