有限会社 三九出版 - 《自由広場》 楽 に 寄 す


















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             楽 に 寄 す

          宍戸 忠夫(神奈川県松井田町)

「ハイケンスのセレナーデ」
 作曲家は確かハイケンスといった。メロディーがとてもきれいで今でもよく覚えている。中学1年の音楽の時間はわくわくする時間だった。綺麗なマドンナHさんと一緒に歌えるからである。男子生徒を尻目に,勝気で多少すましたところが魅力的だった。クラスは違うが何故か合唱の時は一緒だった。誰にも気づかれぬよう彼女を盗み見ながら歌うのはちょっぴりスリリングな瞬間だった。ハイケンスのセレナーデの中間部はマイナーな甘いメロディーで「尽きせぬ想いを心に秘めて……」という歌詞がついていた。ここが気に入っていた。ハイケンスの気持ちが判った気がして,気分を込めて歌うと何故か胸が熱くなってくる。セレナーデとはかくもやるせないものかとちょっぴり大人っぽい気分になった。この曲を聞く度に当時の音楽室のHさんが思い出される。
 時が流れ大学時代のある日、仙台のある旅行会社の受付カウンターでバッタリHさんに遭遇した。高校卒業後旅行会社に就職したらしい。彼女は私に気づき一瞬困惑したしぐさを見せたが、すぐさま忙しく仕事に専念した。この時は丁度夏休みの旅行シーズンのため,彼女は大勢の客の対応に追われ何やら先頭の客と怖い顔で言い争っていた。事情も知らずに外見だけで失礼だったが,その時のHさんは中学の頃は魅力に見えた勝気さだけが過度に強調され,私には中学時代の可愛らしさが半減して見え,それまで抱いていたHさんの魅力は引潮のごとく去ってしまった。
 しかし私には未だにハイケンスのセレナーデの曲に中学時代の魅力的なHさんの残香を感じるのである。
「おお、ひばり」
 中学1年の冬,父の転勤に伴い盛岡から仙台の中学校に転校した。その頃全国合唱コンクールが大変盛んで,我が校は当時毎年全国優勝,悪くても3位の成績を誇る名だたる合唱名門校だった。そのせいで学内合唱コンクールも盛んで、学年別クラス対抗合唱コンクールなるものまであった。中学2年の時だった。クラス担任の先生は30代の職業課程科の男性教師だった。先生は我がクラスを優勝させようと,何故か異常なほどの闘志を燃やしていた。先生の歌はお世辞にも上手いとは言えなかったが,合唱指導は発声指導から指揮指導に至るまで音楽の先生以上に熱心だった。コンクールが近づくと昼休みと放課後は先生の一声で毎日クラス対抗合唱コンクールの特訓があった。先生は冗談を飛ばし愉快な方だったが,怒ると怖かった。
 その年の2年生の課題曲はメンデルスゾーンの「おお、ひばり」という曲だった。 「みんな! この歌はな、「おお、ひばり、高くまた・・・・・・・天の恵み、地の栄え、そう寿(ことほ)ぎ歌う・・・・」と自信を持って誇らしげに歌わなければなんね~ぞ!」と遠ちゃん(アダナ)先生は指揮棒を振り振り,我々に毎日模範を示し指導した。私はこの天の恵み,地の栄えの歌詞に続く「恵~み~栄~え~…」とゆったりと歌う後半部分の重厚なハーモニーが好きだった。
 遠ちゃんは授業より,音楽指導をしている時が輝いて見えた。先生は愛用の原付二輪車(自転車に原動機を付けた今の電動自転車のはしり)に乗り,市の北部郊外から出勤していた。当時、自転車通勤の他の先生に比べ、遠ちゃんは断トツにモダンだった。バイク音を高らかに鳴らし,颯爽と下校する姿は格好よかった。時には音楽担任の若い女先生を後ろに乗せて帰る時もあった。そんな時,男子生徒は口笛を吹いて冷やかしたが,先生は皆に手を振り益々格好よく見えた。遠ちゃんの合唱コンクールにかける異常な闘志はこの若い音楽の女先生と関係があったのかもしれない。
 そんなある日学校に来てみると,何と遠ちゃんは片方の顔を包帯で隠し,左腕を三角巾で吊って何とも情けない姿で出勤していた。皆は当然その真相を知りたがった。 遠ちゃんは「いや~、夕んべ、学校の帰り道、バイクごと田圃に突っ込んですまったのや~!」と照れ臭そうに説明した。「先生! んでも、なんでひっくりげったのすか?」皆が質問した。「実はな「おお、ひばり」を歌いながら、バイクぶっ飛ばしていたら、気分っこよぐなって、ついつい指揮してしまって手っこがハンドルから離れだ。気づいだらどっぷり田圃の泥こさかぶったんだ~!」先生は照れくさそうに白状した。言うまでもなくこれはあっと言う間に学校中に広がった。
 クラス対抗合唱コンクールの結末は残念ながら記憶にないが,多分我がクラスは上位入賞できなかったと思う。我々が講堂の壇上で高らかに「おお、ひばり」を歌っているのを壁際で神妙に見ていた白い包帯姿の遠ちゃんが目に浮かぶ。
 遠ちゃんの無残な顔の擦り傷はその後数ヶ月残った。名付け親は誰か覚えていないが,これを境に先生のあだ名は遠ちゃんから「ザンタ」に代わった。田圃の跡が顔に無残に残った意味だとか。
「発声練習」
 私の高校は当時男子校で旧制中学以来のバンカラな高校だった。ちょっと上の先輩に作家,井上ひさしと俳優,菅原文太がいた。音楽の先生は優しい若い男の先生だった。私のクラスには当時一人だけ親父くらいにみえた20歳の生徒がいた。肺結核で留年していたせいである。マサミッツアンと呼ばれていた。青々とした髭剃り跡がとても大人っぽかった。我々が何をいたずらしても笑って許してくれる寛容な兄貴のような存在であった。
 いつも音楽の時間は,まず発声練習から始まる。先生のピアノに合わせドレミファソラシドー、ドシラソファミレドーと上がって下がる発声練習を半音階ずつ移調して歌うものだった。この発声練習はつまらないもので身が入らない。みんな起立して歌うのだが,クチパクだけで真面目に歌うものは少ない。外を眺めるもの,雑誌を読むものなどもいてかなりか細い発声練習だった。ある時,とうとう先生が切れた。「おめえ等!もう少し元気よく歌えっつうんだ!!」と鋭くチョークが飛んだ。この時,マサミッツアンが「先生が、可哀想だべー、ちょっとは真面目に歌うべや!」と前の数人の背中をたたいて回った。「わがった、わがった。うだえばいいんだべ~!」中でもきつく背中を叩かれたサッカー部のA君が、はらいせに多少やけになり「マサミチバガヤロー、バガヤロマサミチー」とこのドレミファ音階の替え歌バージョンを歌い出した。最初はドレミファソラシドーに混じって小さいものだったが,意外に歌いやすくノリもいいので,次第に皆がこの新バージョンの「マサミチバガヤロー、バガヤロマサミチー」に乗り換え,最後は全員新バージョンを歌い出した。遂に男声ユニゾーンの物凄い声量の発声練習が教室中に響き渡る結果となった。
 「いいぞ~! やれば出ぎんでねえが!」先生はこのふざけた発声練習に怒るどころか,お褒めの言葉を賜った。ワルガキ共はみんな腹から大きな声を出して新バージョンを歌った。これで音楽の時間が数倍楽しくなった。但し一人だけ苦笑いでドレミファソラシドーの旧バージョンを歌っていた者がいた。そうマサミッツアンだった。
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