好齢女(こうれいじょ)盛(せい) もの語る
母と白蓮さん
白川 治子(神奈川県横浜市)
高校の国語の授業で歌人・柳原白蓮(1885~1967)の名前を聞いた時に「あら白蓮さんって,国語の授業で習うほど有名だったのね」と少し驚いた。先生がとりあげた短歌の一言一句は思い出せないが,苦しい結婚生活の胸の内を詠んだものだった。次のような歌だったのかもしれない。 「ゆくにあらず帰るにあらず居るにあらで生けるかこの身死せるかこの身」 「踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故(ほご)いだき立てる火の前」
国語の先生はアララギ派の歌人でもあった。親に決められた結婚に馴染めず婚家を飛び出していることもあり,白蓮の生き方に共鳴していたのかもしれない。当時は考えが及ばなかったが,今になってそう思う。
授業で習う前から,名前だけは耳にしていた。母は「白蓮さんは本当にきれいだった。いつも粋に浴衣を着こなしていたわ」と長野県の蓼科での思い出をたびたび話してくれた。母が父親所有の別荘・去来荘に滞在していたのは夏だけなので,浴衣姿の白蓮さんしか知らないのだろう。
「去来荘の脇を少し上がったところに白蓮さんの別荘が建っていたの。だから子どもたちに『おいくつ? かわいいわね』などと声をかけてくれたこともあったのよ」。「白蓮さんは馬肉が好きだったので,管理人のおじさんがいつも届けていたわ。去来荘の管理人と同じ人だったので,聞いた話だけど」。
私は大学1年の時に初めて去来荘に泊った。別荘と言っても今のように洒落たロッジ風ではない。縁側と3部屋ぐらいがあるごく普通の昭和初期の家屋だった。母が白蓮さんと出会ってからすでに20年以上経っていたとはいえ,この時には白蓮さんの別荘は無かった。戦前は父母や兄姉が夏を過ごしていた蓼科だが,仙台空襲でなにもかも失い貧乏のどん底にあった頃は,祖父所有の去来荘や他人の別荘に関心を寄せるどころではなかった。白蓮さんの別荘がいつ無くなったのか,母も知らないと言う。
母と白蓮さんのひとときの交流については,すっかり忘れていたが,2014年にNHKの朝ドラで「花子とアン」が放映され,村岡花子の女学校時代の親友として白蓮が登場した。村岡花子は「赤毛のアン」の翻訳者として私たち世代にはよく知られているが,白蓮は知る人ぞ知る程度だった。このドラマで急に脚光を浴びたように思う。 ―6― [好齢女盛もの語る]
テレビには蓼科は登場しなかったが「どうして白蓮さんは蓼科の田舎に住んでいたのだろう」と疑問に思った。放映時の母は100歳ながら生存していたので聞いてみたのだが,以前のように生き生きと思い出せる状態にはなかった。
ウィキペディアには「1937年(昭和12年)7月、盧溝橋事件で緊迫する中国との和平工作の特使として,龍介が近衛文麿首相の依頼で上海へ派遣されるが失敗、神戸で拘束されて東京へ送還される。燁子ら一家は家宅捜索を避け、蓼科の別荘に避難した」とある。
これを読み,白蓮さんが蓼科にいた理由が分かった。1937年というと兄が3歳,姉が2歳。母の話と一致する。ちなみに私はまだこの世にいない。文中には燁子ら一家とあるが,母は「白蓮さんしか見かけなかった」と言う。長男も長女も勉学のために東京にいたのかもしれない。
文中の燁子(あきこ)は白蓮の本名。龍介は白蓮の3度目の夫。いわゆる白蓮事件として世間を騒がせた渦中の人だ。白蓮は柳原伯爵が外に産ませた子なので,幼少期から複雑な育ち方をしている。1度目の夫は北小路という華族。15歳で子供を生している。2度目の夫は,白蓮より25歳も年上の九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門である。そこでの生活に耐えられず,社会運動家で法学士の宮崎龍介と駆け落ちしたのは1921年(大正10年)10月20日。新聞紙上に白蓮から夫への絶縁状が公開されたので,センセーショナルに報じられた。それに対して夫・伝右衛門から反論が掲載されるなどマスコミのスクープ合戦が続いた。今のようにメディアが発達していない時でさえ,日本中でこの事件を知らない人はほとんどいなかったようだ。
私は母からこの事件を聞いたのだが,駆け落ちした1921(大正10)年は母はまだ7歳。祖母からの又聞きだったのだろう。 去来荘を相続した従弟は私と一回りも違うので白蓮さんのことをよく覚えているし,
去来荘の両隣だった人達も白蓮さんに好意的だ。誰もが「白蓮さんは……」と親しみを込めて呼んでいる。世を騒がせた時からわずか15~16年。スキャンダラスな事件で新聞をにぎわした彼女を特別視しないで,隣組の住人として付き合っていたようだ。彼女の知性と品性と美しさがそうさせたのではないか。
母と白蓮さん
白川 治子(神奈川県横浜市)
高校の国語の授業で歌人・柳原白蓮(1885~1967)の名前を聞いた時に「あら白蓮さんって,国語の授業で習うほど有名だったのね」と少し驚いた。先生がとりあげた短歌の一言一句は思い出せないが,苦しい結婚生活の胸の内を詠んだものだった。次のような歌だったのかもしれない。 「ゆくにあらず帰るにあらず居るにあらで生けるかこの身死せるかこの身」 「踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故(ほご)いだき立てる火の前」
国語の先生はアララギ派の歌人でもあった。親に決められた結婚に馴染めず婚家を飛び出していることもあり,白蓮の生き方に共鳴していたのかもしれない。当時は考えが及ばなかったが,今になってそう思う。
授業で習う前から,名前だけは耳にしていた。母は「白蓮さんは本当にきれいだった。いつも粋に浴衣を着こなしていたわ」と長野県の蓼科での思い出をたびたび話してくれた。母が父親所有の別荘・去来荘に滞在していたのは夏だけなので,浴衣姿の白蓮さんしか知らないのだろう。
「去来荘の脇を少し上がったところに白蓮さんの別荘が建っていたの。だから子どもたちに『おいくつ? かわいいわね』などと声をかけてくれたこともあったのよ」。「白蓮さんは馬肉が好きだったので,管理人のおじさんがいつも届けていたわ。去来荘の管理人と同じ人だったので,聞いた話だけど」。
私は大学1年の時に初めて去来荘に泊った。別荘と言っても今のように洒落たロッジ風ではない。縁側と3部屋ぐらいがあるごく普通の昭和初期の家屋だった。母が白蓮さんと出会ってからすでに20年以上経っていたとはいえ,この時には白蓮さんの別荘は無かった。戦前は父母や兄姉が夏を過ごしていた蓼科だが,仙台空襲でなにもかも失い貧乏のどん底にあった頃は,祖父所有の去来荘や他人の別荘に関心を寄せるどころではなかった。白蓮さんの別荘がいつ無くなったのか,母も知らないと言う。
母と白蓮さんのひとときの交流については,すっかり忘れていたが,2014年にNHKの朝ドラで「花子とアン」が放映され,村岡花子の女学校時代の親友として白蓮が登場した。村岡花子は「赤毛のアン」の翻訳者として私たち世代にはよく知られているが,白蓮は知る人ぞ知る程度だった。このドラマで急に脚光を浴びたように思う。 ―6― [好齢女盛もの語る]
テレビには蓼科は登場しなかったが「どうして白蓮さんは蓼科の田舎に住んでいたのだろう」と疑問に思った。放映時の母は100歳ながら生存していたので聞いてみたのだが,以前のように生き生きと思い出せる状態にはなかった。
ウィキペディアには「1937年(昭和12年)7月、盧溝橋事件で緊迫する中国との和平工作の特使として,龍介が近衛文麿首相の依頼で上海へ派遣されるが失敗、神戸で拘束されて東京へ送還される。燁子ら一家は家宅捜索を避け、蓼科の別荘に避難した」とある。
これを読み,白蓮さんが蓼科にいた理由が分かった。1937年というと兄が3歳,姉が2歳。母の話と一致する。ちなみに私はまだこの世にいない。文中には燁子ら一家とあるが,母は「白蓮さんしか見かけなかった」と言う。長男も長女も勉学のために東京にいたのかもしれない。
文中の燁子(あきこ)は白蓮の本名。龍介は白蓮の3度目の夫。いわゆる白蓮事件として世間を騒がせた渦中の人だ。白蓮は柳原伯爵が外に産ませた子なので,幼少期から複雑な育ち方をしている。1度目の夫は北小路という華族。15歳で子供を生している。2度目の夫は,白蓮より25歳も年上の九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門である。そこでの生活に耐えられず,社会運動家で法学士の宮崎龍介と駆け落ちしたのは1921年(大正10年)10月20日。新聞紙上に白蓮から夫への絶縁状が公開されたので,センセーショナルに報じられた。それに対して夫・伝右衛門から反論が掲載されるなどマスコミのスクープ合戦が続いた。今のようにメディアが発達していない時でさえ,日本中でこの事件を知らない人はほとんどいなかったようだ。
私は母からこの事件を聞いたのだが,駆け落ちした1921(大正10)年は母はまだ7歳。祖母からの又聞きだったのだろう。 去来荘を相続した従弟は私と一回りも違うので白蓮さんのことをよく覚えているし,
去来荘の両隣だった人達も白蓮さんに好意的だ。誰もが「白蓮さんは……」と親しみを込めて呼んでいる。世を騒がせた時からわずか15~16年。スキャンダラスな事件で新聞をにぎわした彼女を特別視しないで,隣組の住人として付き合っていたようだ。彼女の知性と品性と美しさがそうさせたのではないか。
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