東日本大震災私は忘れない
震災の中での幸せの記憶
福島 マリコ(福島県伊達市)
あの日は息子の中学の卒業式だった。担任の先生が涙ながらに生徒達の思い出を話してくれた。私は「良い卒業式だったなぁ」とリビングでのんびりお茶を飲んでいた。
その時,大きな揺れがきた。録画された『相棒』を観ていた中1の娘が,あまりにも長く大きな揺れに不安そうな目で私を見た。その後停電,断水になったが,家自体は何事も無く無事だった。
我が家は福島駅から北に10キロに位置する。食料品の買い出しやガソリン不足はいつまで続くのか不安だったが,心のどこかで「大丈夫。何とかなる」という気持ちが私を支えた。しかし,「フクシマ」ということで日本中,世界中から心配されたのは原発事故の放射能だ。「ここは安全か?」という不安な気持ちは,私達の地域でもその家々,各個人で温度差があった。
人間は困った経験をしないと気づかないことがたくさんある。無意識で蛇口を回してしまう自分に「あ,水は出ないんだ」と何度も苦笑いした。やっと水道の水が出た時は,今後はコップ一杯の水でも無駄にしないと誓った。
停電から解放された日,部屋に電気がつき,テレビが映り,IHで料理した。電気の有り難さに頭が下がる。でも原発と電気の関係は,安全性という基盤があってのこそ。原発の存在は,地域住民の雇用や経済発展といった総合的な関わりもあるので,悩ましい問題でもある。
私は子供時代,周囲が田畑や果樹園が多いゆったりとした環境の中で育った。地域の大人達はおおらかで優しく,冗談を言って笑わせてくれた。 また,「結(ゆ)い」という共同体が助けたり,助けられたりが当りまえの地域だった。それを見て育った私は「大人は強くて優しい」ものと尊敬した。将来は私もそういう大人になりたいと子供ながらに思った。
今回の大震災という緊急事態の中で,「何か私にも手伝えることはないか?」と積極的に考えるようになったのはいたって自然のことだった。 「ボランティア」という言葉が一般的に使われるようになったが,私としては少し抵抗がある。困っているのを見つけたら,できる範囲で手伝えばいい。一番大切なことは「どうしたの?」と声をかける,気にかけることだと思うのだ。
震災後,不自由な生活にも慣れてきた頃,家事の合間に避難所の手伝いに通った。援助物資の整理をしたり,青森から送られたリンゴの皮をむき,体育館内を配って歩いた。すると,避難者の女性の方から「私にも手伝わして。動いていた方が気がまぎれるの」と言ってもらった。
この体育館には当初250人の人達が家族単位で座っていたり,横たわったりしていた。津波や原発の放射能から避難してきた浜通りの人々。体育館に入らず駐車場の車の中でペットの犬と寝泊まりしている,という人もいた。
寄附された物資の中に,まくらや毛布,布団もあったので,「今夜からでも使わせて欲しい」と事務所にいた県職員の方にお願いし,避難者のお父さん達に手伝ってもらい倉庫から運び出した。
また別な日には,地元の中学生10人くらいがボランティアにやってきた。しばらくすると,やることも無くなり手持ち無沙汰のようだったので,「ねえ,これから手話教室をやるから集まってくれる?」と思い切って声を掛けた。
手話を教えるのは避難所にいる中学3年生の少年だ。以前から聴覚障害者の彼と手話で話していた私は,明るく,ユーモアのある彼なら引き受けてくれるだろうと思い,急遽お願いした。
初めて見る手話にドキドキしながらも楽しそうに学ぶ地元中学生達。そして元気にイキイキと指導している彼の姿は今でも忘れられない。
震災からもうすぐ10年。震災ボランティアをやってみて学んだことは,平和な日常時のボランティアとはまったく違うということだ。良かれと思ってやったことが相手を傷つけることもあるし,同時に,自分が傷つくこともある。
体育館の片隅から,「コーヒー一緒に飲まない?」と声が聞こえた。車に愛犬がいる彼女だ。隣に腰掛け,熱いコーヒーを受けとる。紙コップのコーヒーは苦かったが,励ましとやさしさの味がして泣きそうになった。笑顔で通っていた私だが,本当は心も体も疲れていたと,今なら分かる。彼女は何も言わず,そっと心に寄り添ってくれた。すべては震災が出逢わせてくれた人々との幸せの記憶である。
震災の中での幸せの記憶
福島 マリコ(福島県伊達市)
あの日は息子の中学の卒業式だった。担任の先生が涙ながらに生徒達の思い出を話してくれた。私は「良い卒業式だったなぁ」とリビングでのんびりお茶を飲んでいた。
その時,大きな揺れがきた。録画された『相棒』を観ていた中1の娘が,あまりにも長く大きな揺れに不安そうな目で私を見た。その後停電,断水になったが,家自体は何事も無く無事だった。
我が家は福島駅から北に10キロに位置する。食料品の買い出しやガソリン不足はいつまで続くのか不安だったが,心のどこかで「大丈夫。何とかなる」という気持ちが私を支えた。しかし,「フクシマ」ということで日本中,世界中から心配されたのは原発事故の放射能だ。「ここは安全か?」という不安な気持ちは,私達の地域でもその家々,各個人で温度差があった。
人間は困った経験をしないと気づかないことがたくさんある。無意識で蛇口を回してしまう自分に「あ,水は出ないんだ」と何度も苦笑いした。やっと水道の水が出た時は,今後はコップ一杯の水でも無駄にしないと誓った。
停電から解放された日,部屋に電気がつき,テレビが映り,IHで料理した。電気の有り難さに頭が下がる。でも原発と電気の関係は,安全性という基盤があってのこそ。原発の存在は,地域住民の雇用や経済発展といった総合的な関わりもあるので,悩ましい問題でもある。
私は子供時代,周囲が田畑や果樹園が多いゆったりとした環境の中で育った。地域の大人達はおおらかで優しく,冗談を言って笑わせてくれた。 また,「結(ゆ)い」という共同体が助けたり,助けられたりが当りまえの地域だった。それを見て育った私は「大人は強くて優しい」ものと尊敬した。将来は私もそういう大人になりたいと子供ながらに思った。
今回の大震災という緊急事態の中で,「何か私にも手伝えることはないか?」と積極的に考えるようになったのはいたって自然のことだった。 「ボランティア」という言葉が一般的に使われるようになったが,私としては少し抵抗がある。困っているのを見つけたら,できる範囲で手伝えばいい。一番大切なことは「どうしたの?」と声をかける,気にかけることだと思うのだ。
震災後,不自由な生活にも慣れてきた頃,家事の合間に避難所の手伝いに通った。援助物資の整理をしたり,青森から送られたリンゴの皮をむき,体育館内を配って歩いた。すると,避難者の女性の方から「私にも手伝わして。動いていた方が気がまぎれるの」と言ってもらった。
この体育館には当初250人の人達が家族単位で座っていたり,横たわったりしていた。津波や原発の放射能から避難してきた浜通りの人々。体育館に入らず駐車場の車の中でペットの犬と寝泊まりしている,という人もいた。
寄附された物資の中に,まくらや毛布,布団もあったので,「今夜からでも使わせて欲しい」と事務所にいた県職員の方にお願いし,避難者のお父さん達に手伝ってもらい倉庫から運び出した。
また別な日には,地元の中学生10人くらいがボランティアにやってきた。しばらくすると,やることも無くなり手持ち無沙汰のようだったので,「ねえ,これから手話教室をやるから集まってくれる?」と思い切って声を掛けた。
手話を教えるのは避難所にいる中学3年生の少年だ。以前から聴覚障害者の彼と手話で話していた私は,明るく,ユーモアのある彼なら引き受けてくれるだろうと思い,急遽お願いした。
初めて見る手話にドキドキしながらも楽しそうに学ぶ地元中学生達。そして元気にイキイキと指導している彼の姿は今でも忘れられない。
震災からもうすぐ10年。震災ボランティアをやってみて学んだことは,平和な日常時のボランティアとはまったく違うということだ。良かれと思ってやったことが相手を傷つけることもあるし,同時に,自分が傷つくこともある。
体育館の片隅から,「コーヒー一緒に飲まない?」と声が聞こえた。車に愛犬がいる彼女だ。隣に腰掛け,熱いコーヒーを受けとる。紙コップのコーヒーは苦かったが,励ましとやさしさの味がして泣きそうになった。笑顔で通っていた私だが,本当は心も体も疲れていたと,今なら分かる。彼女は何も言わず,そっと心に寄り添ってくれた。すべては震災が出逢わせてくれた人々との幸せの記憶である。
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