〔自由広場〕 雲居禅師と伊達家との絆
齊藤 宏(宮城県仙台市)
仙台市街の西部,東北道・宮城インター近くに蕃山(ばんざん)がある。標高357mの里山。山頂からは太平洋を望む事が出来る。蕃山の東山麓に「大梅寺(だいばいじ)」がある。「松島瑞巌寺中興大悲円満国師雲居禅師」が,伊達政宗13回忌を済ませ,69歳で隠退しこの寺に移られた。蕃山の広い頂上には,杉木立に堂宇が建つ。この開山堂が大梅寺の奥の院であり,中に雲居禅師の木像が安置されている。ここが和尚の墓地である。臨済宗妙心寺派高僧の墓が,本人の遺言とはいえ,ここに決まった。通常は,京都の妙心寺の墓地に納まるはずである。
蕃山北麓には,政宗の長女・五郎(いろ)八姫(はひめ)が22年間生活した「西館(にしだて)」跡がある。姫は,徳川家康の七男・松平忠輝と13歳で結婚。忠輝配流によって離婚。23歳で江戸伊達下屋敷に戻った。4年間江戸で生活。その後約16年間仙台城で過ごす。父政宗歿後,弟二代藩主忠宗の好意により,栗生(くりう)茂庭(もにわ)屋敷をもらい,「西館」を普請され移る。この地は,特に熱心な切支丹信者の多い土地で,薬師堂や鬼子母神堂にもカクレキリシタンの印が認められる。政宗は,1610年ソテロ神父に天主教の教えを受け,布教を認めていた。藩内には,すでに千人以上の信者がいた。1620年,徳川家康は伴天連追放令を出し,神父の国外追放を行い,また,信者の背教を目的に,残酷な弾圧をした。
五郎八姫は,熱心な切支丹となり,忠輝と離れた後,心の支えを神に求めていた。その姿を見て,政宗も,弟・忠宗も,姫に仏教への転宗を強く勧める事が出来なかった。しかし,仙台藩でも,切支丹弾圧を厳しくせざるを得なくなる。姫は天主教を信仰する事が若い藩主に迷惑をかけるとの思いから,仙台城を離れる決心をする。1636年5月,政宗,70歳で死亡し,姫はその年に,仙台城を出て西館へ移る。
1651年,58歳の姫は,前年,政宗の13回忌を済ませ,大梅寺に移った雲居禅師を初めて西館に招いた。以後,大変親密な交流が始まる。この時期,姉思いの忠宗も,参勤交代で江戸へ向う前後は必ず,姫に会い報告するために,西館を訪ねた事が記録に残っている。多忙なはずの藩主にしては異常な程の回数の交流であった。お互いに支え合っていたのだと思われる。最近になって,忠宗が通ったであろう古道がハッキリと発見された。草木で荒れてはいるが,幅員1間半程の道路が,西館址の裏から蕃山の麓を縫って,両側に石垣を積んで,仙台城本丸の裏まで延々と続いている。
姫は,政宗亡き後,忠宗と雲居禅師に支えられながら,穏やかな生涯を送ることができた。政宗夫人・愛(めご)姫(ひめ)(五郎八姫の生母)も禅師の教えを願い,何度も江戸屋敷に迎えている。二人の歌問答の中から「儒釈道三つの教え別ならず,善に善報,悪に悪報」などの『往生要歌』108首が残されている。
姫は,雲居禅師に出会い,西館での暮らしには満足していたが,切支丹で殉教した人々への想いが気がかりだった。神は罪ある人も無条件で愛する。天主教が「愛」であるのに対し,仏教は「慈悲」。「慈」とは,いつくしむ心で,人に楽を与えようと望む心。「悲」とは,人の苦しみを除こうと思う心。世の中の総ての人,あらゆる者をいつくしむ,大きな心と説いた。「禅」については,精神の本性を洞察する事。精神そのものを鍛練して,自己自らを主とする事。禅は,空に浮かぶ一片の雲。釘で打ち止めておく事も,紐で縛りつけておく事も出来ぬ。熊や狐や猪と小さな虫が,お互いに同じこの蕃山で生きていたり,近くを流れる山川で大きな魚と小さな魚が泳いでいるように,切支丹信徒も,仏教も,禅を実践できる。禅は蕃山であり,山川であり,夏の雨,冬の雪であり,禅は人間だ。「禅の真理は,各人各人に備わったものであり,自己の存在の中に求めるべきで,他に求めてはいけない」,それは「天国は,自分の中にある」との天主教の「自己の変化」と同じと気付く。
1636年父政宗70歳。1641年母愛姫77歳。1658年弟忠宗60歳。と,頼りにしていた両親,弟と別れ,自分の死も現実味を帯びてきた時,仏教の「諸行無常」の真実に会い,出家を決心し西館を去る。1658年,姫は65歳になっていた。姫が,出家して仙台城に戻り,翌年1659年8月,雲居和尚は78歳でこの世を去った。2年後の5月,五郎八姫68歳,仙台城で死去す。栗生の里,西館跡を訪れると,樹齢350年以上と見られるモミの木が3本,悠然と立っている。草むらにはリス,ウサギが住み,カモシカが顔を出し,夜はイノシシの天下のようだ。そんな景色を姫は楽しまれ,多くの人に大切にされ,熱い信仰心を持ち続けて生活されたことだろう。雲居禅師は死後も姫を守り通した。決して幸福ではなかった姫は,最後は出家により自分自身への決着をつけた。伊達家はこの事により徳川の取り潰しに遭わず,円満に続くことになったのである。
そんな過去を想像すると,自分も爽やかな,穏やかな気持ちにさせられる。
齊藤 宏(宮城県仙台市)
仙台市街の西部,東北道・宮城インター近くに蕃山(ばんざん)がある。標高357mの里山。山頂からは太平洋を望む事が出来る。蕃山の東山麓に「大梅寺(だいばいじ)」がある。「松島瑞巌寺中興大悲円満国師雲居禅師」が,伊達政宗13回忌を済ませ,69歳で隠退しこの寺に移られた。蕃山の広い頂上には,杉木立に堂宇が建つ。この開山堂が大梅寺の奥の院であり,中に雲居禅師の木像が安置されている。ここが和尚の墓地である。臨済宗妙心寺派高僧の墓が,本人の遺言とはいえ,ここに決まった。通常は,京都の妙心寺の墓地に納まるはずである。
蕃山北麓には,政宗の長女・五郎(いろ)八姫(はひめ)が22年間生活した「西館(にしだて)」跡がある。姫は,徳川家康の七男・松平忠輝と13歳で結婚。忠輝配流によって離婚。23歳で江戸伊達下屋敷に戻った。4年間江戸で生活。その後約16年間仙台城で過ごす。父政宗歿後,弟二代藩主忠宗の好意により,栗生(くりう)茂庭(もにわ)屋敷をもらい,「西館」を普請され移る。この地は,特に熱心な切支丹信者の多い土地で,薬師堂や鬼子母神堂にもカクレキリシタンの印が認められる。政宗は,1610年ソテロ神父に天主教の教えを受け,布教を認めていた。藩内には,すでに千人以上の信者がいた。1620年,徳川家康は伴天連追放令を出し,神父の国外追放を行い,また,信者の背教を目的に,残酷な弾圧をした。
五郎八姫は,熱心な切支丹となり,忠輝と離れた後,心の支えを神に求めていた。その姿を見て,政宗も,弟・忠宗も,姫に仏教への転宗を強く勧める事が出来なかった。しかし,仙台藩でも,切支丹弾圧を厳しくせざるを得なくなる。姫は天主教を信仰する事が若い藩主に迷惑をかけるとの思いから,仙台城を離れる決心をする。1636年5月,政宗,70歳で死亡し,姫はその年に,仙台城を出て西館へ移る。
1651年,58歳の姫は,前年,政宗の13回忌を済ませ,大梅寺に移った雲居禅師を初めて西館に招いた。以後,大変親密な交流が始まる。この時期,姉思いの忠宗も,参勤交代で江戸へ向う前後は必ず,姫に会い報告するために,西館を訪ねた事が記録に残っている。多忙なはずの藩主にしては異常な程の回数の交流であった。お互いに支え合っていたのだと思われる。最近になって,忠宗が通ったであろう古道がハッキリと発見された。草木で荒れてはいるが,幅員1間半程の道路が,西館址の裏から蕃山の麓を縫って,両側に石垣を積んで,仙台城本丸の裏まで延々と続いている。
姫は,政宗亡き後,忠宗と雲居禅師に支えられながら,穏やかな生涯を送ることができた。政宗夫人・愛(めご)姫(ひめ)(五郎八姫の生母)も禅師の教えを願い,何度も江戸屋敷に迎えている。二人の歌問答の中から「儒釈道三つの教え別ならず,善に善報,悪に悪報」などの『往生要歌』108首が残されている。
姫は,雲居禅師に出会い,西館での暮らしには満足していたが,切支丹で殉教した人々への想いが気がかりだった。神は罪ある人も無条件で愛する。天主教が「愛」であるのに対し,仏教は「慈悲」。「慈」とは,いつくしむ心で,人に楽を与えようと望む心。「悲」とは,人の苦しみを除こうと思う心。世の中の総ての人,あらゆる者をいつくしむ,大きな心と説いた。「禅」については,精神の本性を洞察する事。精神そのものを鍛練して,自己自らを主とする事。禅は,空に浮かぶ一片の雲。釘で打ち止めておく事も,紐で縛りつけておく事も出来ぬ。熊や狐や猪と小さな虫が,お互いに同じこの蕃山で生きていたり,近くを流れる山川で大きな魚と小さな魚が泳いでいるように,切支丹信徒も,仏教も,禅を実践できる。禅は蕃山であり,山川であり,夏の雨,冬の雪であり,禅は人間だ。「禅の真理は,各人各人に備わったものであり,自己の存在の中に求めるべきで,他に求めてはいけない」,それは「天国は,自分の中にある」との天主教の「自己の変化」と同じと気付く。
1636年父政宗70歳。1641年母愛姫77歳。1658年弟忠宗60歳。と,頼りにしていた両親,弟と別れ,自分の死も現実味を帯びてきた時,仏教の「諸行無常」の真実に会い,出家を決心し西館を去る。1658年,姫は65歳になっていた。姫が,出家して仙台城に戻り,翌年1659年8月,雲居和尚は78歳でこの世を去った。2年後の5月,五郎八姫68歳,仙台城で死去す。栗生の里,西館跡を訪れると,樹齢350年以上と見られるモミの木が3本,悠然と立っている。草むらにはリス,ウサギが住み,カモシカが顔を出し,夜はイノシシの天下のようだ。そんな景色を姫は楽しまれ,多くの人に大切にされ,熱い信仰心を持ち続けて生活されたことだろう。雲居禅師は死後も姫を守り通した。決して幸福ではなかった姫は,最後は出家により自分自身への決着をつけた。伊達家はこの事により徳川の取り潰しに遭わず,円満に続くことになったのである。
そんな過去を想像すると,自分も爽やかな,穏やかな気持ちにさせられる。
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