有限会社 三九出版 - 《自由広場》 5歳の記憶・疎開―1945年―


















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          5歳の記憶・疎開―1945年―

          福永 邦昭(東京都目黒区)

 終戦から75年目,東京は大空襲・火災・食糧不足・疎開,家族は離ればなれ,都会人にとっては不自由な生活を強いられた。戦後は教育の変換……。生活(衣・食・住)・教育・思想などの大転換の年が始まる。
 長男の私は(父・母・長女七歳・次男三歳の5人家族),1945年3月10日の大空襲をきっかけに,荻窪から父の故郷鹿児島県指宿まで疎開する5日間とその前後を思い出しながら……
 父は東京に残ったため,他の家族同様まだ住んだ事のない地方へ疎開。移動の唯一の手段は国有鉄道。便所,通路,網棚までぎっしりの車中の人間模様,車窓から見た風景,5歳が見たものの記憶です。

 1945年3月ある日夕刻,荻窪の遥か上空に毎日のように米軍の爆撃戦闘機B29の連隊が轟音を響かせながら飛んでいる。夜は日本軍立川基地のサーチライトに照らされた機体は銀色にくっきり映し出されても平然と浮かんでいるように思える。立川基地から空軍の小さな戦闘機が其のあとを追うも届かず,“ブーン”と無残にも悲し気なエンジン音をうならせて基地の方向へ急降下する。B29の飛来は10日に決行された東京空襲の偵察だった。
 そんな中,鉄道省(戦後は元日本国有鉄道と運輸省に分離)役人だった父は鉄道全線が利用できる無料パスを活かし,私を連れて郊外へ少々の米やサツマイモやミカンの買い出しに出ていたので5人家族の空腹はある程度満たされていた。
 3月10日夕方,7歳の長女と1週間後に5歳になる長男の私の二人はともに好奇心旺盛で,家から徒歩10分の所にある荻窪天沼町国鉄中央線脇の小高い丘から,新宿方面一帯が真っ赤に燃えているのを平然と見ていた。東京大空襲である。生まれて初めて見る強烈な光景だが其の時は恐怖心などまるでない。
 翌日,近くの青梅街道を新宿方面から西へ避難する長い列。焼けただれた衣服,人力車やリヤカーには黒焦げの荷物を積んでいる。この時,姉と私は生まれて初めて見るショック,余りにも悲惨で哀しい光景だったので脳裏に焼き付いている。
 「もうここで生活するのは危険だ」父がこう云った5日後の3月17日(たまたま私の誕生日),鉄道省の父は公務のため東京に残り,母子4人はリュックサックいっぱいのおにぎりを背負い,東京駅から汽車に乗った。流石鉄道員の父は事前食料の買い込み,そして鉄道路線が破壊されているだろうから5日間,15食分のおにぎりを用意するようにと母に指示していた。其の時母は8月出産予定の子供を身籠っていた。東京駅発の列車内は人で溢れていた。それでも次々に人は乗ってくる。座席や通路はもちろん便所まで超満員。仕方なく男の子は窓から小便をする。風下の方は気の毒だが誰も咎めない。大人達や女性はどうしたのかわからないが,とにかくトイレはギッシリ身動きもできぬ状態だった。汽車は空襲警報のサイレンが鳴る度に停車して車外の草むらに避難。多くの乗客は其の時大小便の用をたす。むしろ其の時を待っていたように皆さん我先にと降りた。お嬢様や若い主婦たちも所かまわずお尻を丸出しであった。
 父の影響で,幼い頃から汽車が大好き。窓際に座らせてもらい,各駅に汽車が止まる度に母に尋ねるが,母はそれどころではない……。
 父の計らいでリュックサックいっぱいのおにぎりが5日間の空腹を満たしてくれた。食べ物を持たない周りの乗客に遠慮しながら食べ,余り美味しそうな顔は出来ない(母からそう言い聞かされた)。焼けただれた客車や貨車,線路が飴のように曲がって修復に数時間動かないことが度々起きる。
 結局,父の故郷,鹿児島県指宿町に到着したのは計ったように5日後の早朝。しかし安全なはずの父の故郷で,5歳になったばかりの私は生まれて初めて恐怖を味わった。それは,祖父の家に隣接する日本専売公社(現JT)のたばこ工場を米軍機が軍需工場と見間違え焼夷弾投下や機関銃が発射されたのだ。祖父はまさかこんな田舎までと,独り言のように呟いていて私達をかばってくれた。目の前に米空軍P-13戦闘機が低空飛行して機関銃が発射した。操縦席の米兵パイロットの顔まではっきり脳裏に焼き付いているほど。

 ※本稿の中の年月等は後になって母の記憶を基に確認した。
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