有限会社 三九出版 - 《自由広場》 灯台守の妻と本州最東端


















トップ  >  本物語  >  《自由広場》 灯台守の妻と本州最東端
           灯台守の妻と本州最東端

          小西 忠人(岩手県北上市)

 もう10年近い話になってしまうが,私は,あるきっかけで「灯台守」の夫人として歩まれた田中きよさん(1911~1999)ご自身の体験手記「海を守る夫とともに二十年」を知るようになり,そのコピーが手元にあることから,時折,行間に響く言葉が脳裏に浮かんでくる。手記は,当時の婦人雑誌「婦人倶楽部」(昭和31年8月号)に4ページ半にわたって掲載されているものだった。
 灯台職員・田中績(いさお)さん(1909~2002)と結婚されたきよさんは,最初の灯台が本州最東端,岩手県宮古市の重茂半島に突き出た魹ケ埼(とどがさき)灯台だったという。「背後は険しい山また山で、ここの生活は離れ小島と変りない不便なものでした。岩にくだける怒濤の音や、びゅう~と吹きつける海風が、まだ若かった私にはどんなにか心細かったかわかりません」と綴られ,「灯台守の妻」としての人生が,こうして始まっている。私には今でもこの手記が時代を超えたメッセージとの思いを抱いており,平成24年の初秋に近いころ魹ケ埼灯台を訪ねたことが思い出される。
 その平成24年。魹ケ埼灯台が明治35年に点灯されて以来,“海の番人”として110年。同時に,きよさんの手記が下地となって映画化された不朽の名作「喜びも悲しみも幾歳月」が松竹から公開されて55年。どちらも節目といえば節目,そんな節目が私には目には見えない糸で繫がっているような―。それだから,どうしてもきよさんの手記に触れてみなければ,との思いが募った私は,あちこちの図書館に問い合わせをしているうちに,北海道立図書館から「それがある」との連絡を受け,コピーを手にするものだった。
 ―魹ケ埼灯台は,魹山(465メートル)を抜けた先で,距離にしておよそ4キロ。のっけから心臓破りの急坂が待ち構え,しかも所々に巨岩奇岩がごろりと横たわり,それをなでるようにすり抜けたかと思うと,今度は道がぐんと狭くなり,靴に弾かれた小石があっという間に深いやぶに消えていく。何ともはや,その先が思いやられたが,次第につづら折りながらも大分平坦になった。しかし相変わらずうっそうと生い茂る木々,昼なお暗い。その間から波の音が絶えず届くが,灯台はまだ先だった。
 かつて海上保安庁灯台部(現交通部)の職員が「灯台守」と呼ばれていたころは,灯台に駐在して船舶の安全航海を管理するという人的な体制が敷かれており,魹ケ埼灯台のような大型沿岸灯台となると,航海する船舶をなるべく早い時点から識別できるように人里離れた岬の突端,または絶海の孤島などが灯台の適地にされていたという。田中さん夫婦は,北海道の宗谷岬,樺太の海馬島,長崎の女島など全国の灯台に転勤され,その女島灯台での話では「一番困ったのが水、この島には井戸というものがありません。…コメのとぎ汁で顔を洗い、その残りでぞうきんをかけ、おしめを洗うということが実際ある世界です」と言い,また,ほかの灯台ではこんなことも。「産婦の私にとってたよりになるのは、あの無骨な夫だけだったのです。後になって夫が『へその緒を切るときは手が震えて困ったよ』といって笑っていました」。こう綴られる手記が,辺境の地で互いを見守り,助け合って生きる夫婦の喜び,悲しみ。そして昭和初期から戦後にかけて激動する時代の中で人としてのありようを見つめる。
 ―歩くこと1時間。本州最東端は,まさに地の果てだった。直角に切り立った断崖絶壁に白亜の姿は天と海に向かって悠然と構えていた。高さ33.72メートルもあるという。その周りで潮風がいっこうに止むことがなく,背の低い木々を揺らしていた。そんなざわめきに混じって誰かが立ち話でもしているような…。 むろん,錯覚だった。どうやら私には,手記に写し出されている田中さん夫婦が頭から離れていないせいだった。写真は,灯台官舎を背にして腰を下ろしたきよさんが草花に手をやり,何やら話し掛けている,そんな仕草に笑みを浮かべて見つめる制服姿の績さんだったからだ。魹ケ埼灯台は,今は自動化,無人化されて「灯台守」はいないが,辛苦を共にしながらも束の間の休息を楽しむ,そんな夫婦の姿が私には浮き上がってくるものだった。
 「二十年を振り返って見ますと、もっと当たり前の人間として、よろこんだり悲しんだりしてきたのです。なぜめぐまれることの少ない生活を続けなければならないのか、という疑問にくるしんだこともあります。しかし、ますます陽焼けして行く夫だけを信じながら、二人手を取り合って生きて行く、灯台守の妻ならではわからないような幸福をだいじに抱きしめたこともあります」と話してくれる。
 ―灯塔を下って広い岩場を100メートルばかり行くと,大きな岩に「本州最東端の碑」と刻まれた碑が太平洋に向かってあった。銅板の文字はきよさんの筆によるものだという。力強くておおらかな筆運びのその碑には「灯台守の妻」としての不抜な気力に満ちた人生を,悠揚迫らず広大な海に映している感じがしてならなかった。
投票数:1 平均点:10.00
前
《自由広場》 宇治の文学碑を歩く
カテゴリートップ
本物語
次
《自由広場》 5歳の記憶・疎開―1945年―

ログイン


ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失