宇治の文学碑を歩く( その1 )
岡本 崇(京都府木津川市)
私が通う古文書教室の先生の紹介で小西 亘先生に, 西吉野の我が家にあった下記の聴雨居士(※)の書を解説頂いたことがある。
千年帝都地四面峙峰巒華表 連祠樹篆香繞戒壇雲中鐘響
古月下鹿鳴寒到處題詩句宛然 鴻爪残 題平城客楼 聴雨居士
千年帝都の地 四面峰巒(ほうらん=山の峯)に峙(じ=そばだつ)
華表(かひょう=鳥居)は祠樹(ほこらぎ=神社)に連(つら)なり
篆香(てんこう=渦巻き状の香)は戒壇(かいだん=儀式を行う為の壇)を
繞(めぐる)雲中鐘の響くこと古く月下鹿の鳴くこと寒し至る処詩句を題し
宛然(えんぜん=そのまま)鴻爪(こそう=おお鳥の爪痕)残すがごとし
その小西先生が「宇治の文学碑を歩く」という本を㈱澪標から出版された。宇治市と言えば孫達も一時,宇治市木幡に住んでいた。そこで小西先生の本を持って宇治市を歩くことにした。
※聴雨居士(ちょううこじ)=杉聴雨=杉重華=通称杉孫七郎 吉田松陰に学び,明治長州の三筆 の一人。天保六年~大正九年 八十六歳で寂。山口萩藩藩士。文久二年に幕使に随って英仏諸国を 巡歴し,維新に功あり,宮内省御用係りなどを歴任し正二位勲一等子爵を賜る。明治天皇の書道の先 生。詩を能くし,書画に秀でる。
さて,私が伊藤忠商事の新入社員研修会で最初に工場見学に行ったのが,日本レイヨン(ユニチカ)宇治工場だった。東京本社勤務時代,ユニチカ東京本社のナイロン課長が坂東史朗氏。大厚木CCで,上司の永田課長と坂東氏と3人でゴルフをした思い出がある。永田課長は岐阜県郡上八幡市出身で,坂東氏は岐阜県関ケ原市出身だ。因みに私は大阪生まれの奈良県育ちではあるが,父方の大東家(大東市)の家系図を紐解けば,私の23代前が,美濃東氏初代胤行である。14代前の東行澄は, 明智光秀に仕え,愛宕山で張行された,「愛宕百韻」連歌会の執筆(句を書き留める係)を務め,その直後の,「本能寺の変」の後,「山崎の合戦」で戦死している。
私は,坂東氏とは50年近くのお付き合いを頂いている。私の実家(西吉野町)は有名な富有柿の産地であるが,退職後は毎週,京都府木津川市から,坂東氏は堺市から,西吉野の柿畑へ通っていた。ところが先年,西吉野の柿畑を手放してからは疎遠になっていたので,宇治の文学碑を見に行きませんかと声をかけて宇治へ出かけた。
坂東氏と合流する前,宇治市妙楽の「お茶のかんばやし」の前で,チラシを配布しておられる上林康二氏に偶然出会った。話をしているうちに,この方は上林久重の直系,春松家の14代の弟さんらしいことがわかった。伊藤忠商事の副社長で旭日中授賞を受けられた上林孝典氏のことを聞くと,「知っている。その昔,上林一族の勢力を広げる為に,岡本というお茶師に上林を名乗らせた」との事。この店の裏側に,小さい頃は住んでおらたが,最近私が買ったと申された。坂東氏と合流後,この店の2階でお茶を飲む事にする。康二さんの話では,戦前,所持していた茶園は国に買い取られ,当時,国策会社であった大日本紡績(日本レイヨン)に売却された(大正14年,上林春松家だけでも2900坪)という。2階でお茶を出してくれた店員さんにフランスの男性がいるので話を聞くと, 京都大学で学んだ後, ここでお茶の勉強をして帰国するという。近くの宇治川沿いにも「上林」という看板のお店が何軒かあるが,上林康二家の系列店はひらがなで書く「お茶のかんばやし」というお店であるらしい。
歌碑の見学を終えて帰る時, 上林記念館の前にある,「うな好」で一杯飲む。天井の柱は安土城の廃材だと聞く。騎手の武豊の写真と帽子が飾られている。彼は滋賀県育ちであるが,当主とは滋賀県で接点があったらしい。一杯やっていると当主の母の90歳の友人が訪ねて来られた。90歳の母と我々4人の平均年齢は85歳。昔の話に花が咲く。日本レイヨン最盛期の頃は,仕事が終わると,この店も賑わったらしい。
その後は,真向かいにある上林記念館に立ち寄る。春松家14代当主,上林秀章氏が居られたので,「宇治茶と上林一族」という本を買う。「徳川家康と上林一族」という項目の中に,系図があったので,上林孝典氏は,どこに位置するのかと聞くと,道庵家(上林久重の娘の嫁ぎ先)の流れであろうと。その流れのどこかに岡本と云う方がいたのであろう。それにしても,「本能寺の変」の時に,堺の町に居た徳川家康を,上林久重が木津川の渡しまで出迎え,近江信楽迄送り届けた。上林家が代々,徳川家に取り立てられたのはこの功績によるとか。 「本能寺の変」のお陰で取り立てられたのであれば,明智光秀や,我が祖,東行澄が上林家の発展に貢献した事になる。(続く)
岡本 崇(京都府木津川市)
私が通う古文書教室の先生の紹介で小西 亘先生に, 西吉野の我が家にあった下記の聴雨居士(※)の書を解説頂いたことがある。
千年帝都地四面峙峰巒華表 連祠樹篆香繞戒壇雲中鐘響
古月下鹿鳴寒到處題詩句宛然 鴻爪残 題平城客楼 聴雨居士
千年帝都の地 四面峰巒(ほうらん=山の峯)に峙(じ=そばだつ)
華表(かひょう=鳥居)は祠樹(ほこらぎ=神社)に連(つら)なり
篆香(てんこう=渦巻き状の香)は戒壇(かいだん=儀式を行う為の壇)を
繞(めぐる)雲中鐘の響くこと古く月下鹿の鳴くこと寒し至る処詩句を題し
宛然(えんぜん=そのまま)鴻爪(こそう=おお鳥の爪痕)残すがごとし
その小西先生が「宇治の文学碑を歩く」という本を㈱澪標から出版された。宇治市と言えば孫達も一時,宇治市木幡に住んでいた。そこで小西先生の本を持って宇治市を歩くことにした。
※聴雨居士(ちょううこじ)=杉聴雨=杉重華=通称杉孫七郎 吉田松陰に学び,明治長州の三筆 の一人。天保六年~大正九年 八十六歳で寂。山口萩藩藩士。文久二年に幕使に随って英仏諸国を 巡歴し,維新に功あり,宮内省御用係りなどを歴任し正二位勲一等子爵を賜る。明治天皇の書道の先 生。詩を能くし,書画に秀でる。
さて,私が伊藤忠商事の新入社員研修会で最初に工場見学に行ったのが,日本レイヨン(ユニチカ)宇治工場だった。東京本社勤務時代,ユニチカ東京本社のナイロン課長が坂東史朗氏。大厚木CCで,上司の永田課長と坂東氏と3人でゴルフをした思い出がある。永田課長は岐阜県郡上八幡市出身で,坂東氏は岐阜県関ケ原市出身だ。因みに私は大阪生まれの奈良県育ちではあるが,父方の大東家(大東市)の家系図を紐解けば,私の23代前が,美濃東氏初代胤行である。14代前の東行澄は, 明智光秀に仕え,愛宕山で張行された,「愛宕百韻」連歌会の執筆(句を書き留める係)を務め,その直後の,「本能寺の変」の後,「山崎の合戦」で戦死している。
私は,坂東氏とは50年近くのお付き合いを頂いている。私の実家(西吉野町)は有名な富有柿の産地であるが,退職後は毎週,京都府木津川市から,坂東氏は堺市から,西吉野の柿畑へ通っていた。ところが先年,西吉野の柿畑を手放してからは疎遠になっていたので,宇治の文学碑を見に行きませんかと声をかけて宇治へ出かけた。
坂東氏と合流する前,宇治市妙楽の「お茶のかんばやし」の前で,チラシを配布しておられる上林康二氏に偶然出会った。話をしているうちに,この方は上林久重の直系,春松家の14代の弟さんらしいことがわかった。伊藤忠商事の副社長で旭日中授賞を受けられた上林孝典氏のことを聞くと,「知っている。その昔,上林一族の勢力を広げる為に,岡本というお茶師に上林を名乗らせた」との事。この店の裏側に,小さい頃は住んでおらたが,最近私が買ったと申された。坂東氏と合流後,この店の2階でお茶を飲む事にする。康二さんの話では,戦前,所持していた茶園は国に買い取られ,当時,国策会社であった大日本紡績(日本レイヨン)に売却された(大正14年,上林春松家だけでも2900坪)という。2階でお茶を出してくれた店員さんにフランスの男性がいるので話を聞くと, 京都大学で学んだ後, ここでお茶の勉強をして帰国するという。近くの宇治川沿いにも「上林」という看板のお店が何軒かあるが,上林康二家の系列店はひらがなで書く「お茶のかんばやし」というお店であるらしい。
歌碑の見学を終えて帰る時, 上林記念館の前にある,「うな好」で一杯飲む。天井の柱は安土城の廃材だと聞く。騎手の武豊の写真と帽子が飾られている。彼は滋賀県育ちであるが,当主とは滋賀県で接点があったらしい。一杯やっていると当主の母の90歳の友人が訪ねて来られた。90歳の母と我々4人の平均年齢は85歳。昔の話に花が咲く。日本レイヨン最盛期の頃は,仕事が終わると,この店も賑わったらしい。
その後は,真向かいにある上林記念館に立ち寄る。春松家14代当主,上林秀章氏が居られたので,「宇治茶と上林一族」という本を買う。「徳川家康と上林一族」という項目の中に,系図があったので,上林孝典氏は,どこに位置するのかと聞くと,道庵家(上林久重の娘の嫁ぎ先)の流れであろうと。その流れのどこかに岡本と云う方がいたのであろう。それにしても,「本能寺の変」の時に,堺の町に居た徳川家康を,上林久重が木津川の渡しまで出迎え,近江信楽迄送り届けた。上林家が代々,徳川家に取り立てられたのはこの功績によるとか。 「本能寺の変」のお陰で取り立てられたのであれば,明智光秀や,我が祖,東行澄が上林家の発展に貢献した事になる。(続く)
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