一世紀近く生きた年寄りの独り言
鈴木 雅子(東京都国立市)
私は昭和三年(1928年)生まれ。子供の頃は兄から,橋の下から拾ってきた子だとからかわれ本気で心を痛めていたもので,昔は日本各地で親が厄年に当たっていると仮に親子の縁を切るお呪(まじな)いとして言われていたらしく,罪作りな習わしだったと思う。
小学校は東京杉並区の桃井第二尋常小学校。すぐ隣が善福寺川の小さい流れで,ショウブやチダケサシ等の花が川岸に咲き,周辺の家々の子供達が通う学校だった。(隣家の某男爵の子供達は毎日お迎えの車で学習院に通っていたが,そんなのは例外で,お高くとまっていたその子供達と遊ぶ事はなかった。) 当時は電話(・・)を引いている家は少なかったし(私宅は半畳位の電話室に電話が鎮座していた。)勿論テレビ(・・・)などというものは存在していない時代だったから,毎日縄跳び・石けり・鞠つき等の外遊びで,友達と無邪気に遊んでいたものである。ちなみに私は小学校6年間皆(かい)出席(しゅっせき)で,卒業式には御褒美に立派な塗り物の硯箱を頂いた。(その賞状と優等賞の賞状とは多分今もしまっておいてある筈)
縄跳びは一度に100回位跳んだし,二重跳びや縄を交差させて跳ぶとか色々な跳び方をした。二人で「お嬢さんお入(はい)りなさい。ジャンケンポン……」と歌いながら廻す中に次々と順に入って跳んだり,二組が一緒に入ってジャンケンをしたりとか。石けりは玉虫色の綺麗な石を,学校の隣のお店で買って嬉しかったものだ。地面に大きい丸を幾つも描いて,石をけりながら順に跳ぶのだが,大事にしていたあの石はその後どうしたかもう覚えていない。鞠は,明治生まれの母の頃は色々な糸で模様をかがった鞠(今は伝統工芸品として売っている)だったというが,私の頃はゴム鞠だった。「一裂(※いちれつ)らんぱん(談判)破裂して日露(※にちろう)戦争始った。さ(※)っさと逃げるはロシアの兵、死(※)んでも尽くすは日本の兵、五(※)万の兵を引き連れて、六(※)人残して皆殺し、七(※)月八日(十日?)の戦いは、ハ(※)ルピンまでも攻め入って、ク(※)ロパトキンの首をとり、東(※)郷大将万々(ばんばん)歳(ざい)」と(上級生から口伝えに教わった歌で)深く意味も考えずにこんな恐ろしい歌を調子よく歌っていたものだ。外遊びのできない雨の日には綾(あや)とりをしたり絵を描いたり…。細かい事はもう忘れてしまったが今の子供達はどんな外遊びをしているのだろうか。 当時は男女席を同じくせずと, 厳然と男女別に分けられていたから,男子とは無縁。名前も, どんな子がいたのかも知らなかったし 一緒に遊ぶなんていう事はなかった。
ただ私は兄弟三人の中の女一人なので,家に遊びに来る兄の友達にまじって庭の柿の木に登ったり平気で屋根の上を歩いたりしていたが,普段仲よく遊ぶのは勿論クラスの女の子達とであった。小学校卒業後は戦争のせいで皆ばらばらになり,小学校に同窓会の記録はある筈だろうに卒業後何の音沙汰もなく,懐かしい幼友達との縁はそれこそプツンと切れてしまい,その消息は今もって皆無であり,わびしい限りである。
女学校入学は昭和十五年。(当時は男女別学。男子は中学校,女子は女学校に進学)小学校では女の先生は,和服の場合は袴姿だったが,この私立の女学校の先生は袴をつけずきちんと帯をお太鼓に締めていらして,母がびっくりしていた。さて,女学校での記憶は戦争抜きには語れない。夏休みには軍隊式にクラスが分隊に分けられ,分隊長になった生徒の号令のもと分列行進の練習が始まる。母は女学校でテニスをしたと楽しそうに話していたが,私の頃は米英由来かと思われるものは排除されていたので,テニスというものを私はした事がない。下級生は薙刀(なぎなた)を習い,公立校では竹槍で突く訓練もあったとか。又「歩け歩け」という歌まで出来て,とにかくやたら散々歩かされたが,当時靴もなかなか買えず,私の靴は鮫(さめ)皮の靴で,すぐ破れてしまい(そんな靴、今の人達は想像出来ないだろうが),でも靴が履けただけでも恵まれていた方で,苦労したものである。女学校は又もう少し東京のはずれだったから近くに農家が多く,食糧不足の当時の事,そこでズイキ(里芋の茎)を売っていると聞き,学校帰りに買って,長いズイキの束を抱えて電車に乗った事もあった。敵国憎しと当時の政府は女学校での英語の授業を廃止したので,そのせいで教えこまれる筈の英語の基本をすっぽぬかされた世代の私は今もって肩身の狭い思いを引きずっている。(その後の不勉強を棚にあげての不満は自分でもどうかとは思うが……。)
今はこんな時代があったなんて嘘のよう。巷には片仮名言葉が溢れ,呆けかけた老人はなかなか追いつけない。れっきとした日本語があってもレガシーと言い,パソコン,レシピ,トイレ,コンビニ等の略語はもう日本語化しているし,何にでもザを付
けたりマイ箸なんて語を作ったり,タワマンはタワーマンション,スクハラはスクールハラスメントの略とか。数えあげるときりがないとひねくれて,ため息まじりにテレビ(・・・)や新聞に目を走らせる日々なのである。
鈴木 雅子(東京都国立市)
私は昭和三年(1928年)生まれ。子供の頃は兄から,橋の下から拾ってきた子だとからかわれ本気で心を痛めていたもので,昔は日本各地で親が厄年に当たっていると仮に親子の縁を切るお呪(まじな)いとして言われていたらしく,罪作りな習わしだったと思う。
小学校は東京杉並区の桃井第二尋常小学校。すぐ隣が善福寺川の小さい流れで,ショウブやチダケサシ等の花が川岸に咲き,周辺の家々の子供達が通う学校だった。(隣家の某男爵の子供達は毎日お迎えの車で学習院に通っていたが,そんなのは例外で,お高くとまっていたその子供達と遊ぶ事はなかった。) 当時は電話(・・)を引いている家は少なかったし(私宅は半畳位の電話室に電話が鎮座していた。)勿論テレビ(・・・)などというものは存在していない時代だったから,毎日縄跳び・石けり・鞠つき等の外遊びで,友達と無邪気に遊んでいたものである。ちなみに私は小学校6年間皆(かい)出席(しゅっせき)で,卒業式には御褒美に立派な塗り物の硯箱を頂いた。(その賞状と優等賞の賞状とは多分今もしまっておいてある筈)
縄跳びは一度に100回位跳んだし,二重跳びや縄を交差させて跳ぶとか色々な跳び方をした。二人で「お嬢さんお入(はい)りなさい。ジャンケンポン……」と歌いながら廻す中に次々と順に入って跳んだり,二組が一緒に入ってジャンケンをしたりとか。石けりは玉虫色の綺麗な石を,学校の隣のお店で買って嬉しかったものだ。地面に大きい丸を幾つも描いて,石をけりながら順に跳ぶのだが,大事にしていたあの石はその後どうしたかもう覚えていない。鞠は,明治生まれの母の頃は色々な糸で模様をかがった鞠(今は伝統工芸品として売っている)だったというが,私の頃はゴム鞠だった。「一裂(※いちれつ)らんぱん(談判)破裂して日露(※にちろう)戦争始った。さ(※)っさと逃げるはロシアの兵、死(※)んでも尽くすは日本の兵、五(※)万の兵を引き連れて、六(※)人残して皆殺し、七(※)月八日(十日?)の戦いは、ハ(※)ルピンまでも攻め入って、ク(※)ロパトキンの首をとり、東(※)郷大将万々(ばんばん)歳(ざい)」と(上級生から口伝えに教わった歌で)深く意味も考えずにこんな恐ろしい歌を調子よく歌っていたものだ。外遊びのできない雨の日には綾(あや)とりをしたり絵を描いたり…。細かい事はもう忘れてしまったが今の子供達はどんな外遊びをしているのだろうか。 当時は男女席を同じくせずと, 厳然と男女別に分けられていたから,男子とは無縁。名前も, どんな子がいたのかも知らなかったし 一緒に遊ぶなんていう事はなかった。
ただ私は兄弟三人の中の女一人なので,家に遊びに来る兄の友達にまじって庭の柿の木に登ったり平気で屋根の上を歩いたりしていたが,普段仲よく遊ぶのは勿論クラスの女の子達とであった。小学校卒業後は戦争のせいで皆ばらばらになり,小学校に同窓会の記録はある筈だろうに卒業後何の音沙汰もなく,懐かしい幼友達との縁はそれこそプツンと切れてしまい,その消息は今もって皆無であり,わびしい限りである。
女学校入学は昭和十五年。(当時は男女別学。男子は中学校,女子は女学校に進学)小学校では女の先生は,和服の場合は袴姿だったが,この私立の女学校の先生は袴をつけずきちんと帯をお太鼓に締めていらして,母がびっくりしていた。さて,女学校での記憶は戦争抜きには語れない。夏休みには軍隊式にクラスが分隊に分けられ,分隊長になった生徒の号令のもと分列行進の練習が始まる。母は女学校でテニスをしたと楽しそうに話していたが,私の頃は米英由来かと思われるものは排除されていたので,テニスというものを私はした事がない。下級生は薙刀(なぎなた)を習い,公立校では竹槍で突く訓練もあったとか。又「歩け歩け」という歌まで出来て,とにかくやたら散々歩かされたが,当時靴もなかなか買えず,私の靴は鮫(さめ)皮の靴で,すぐ破れてしまい(そんな靴、今の人達は想像出来ないだろうが),でも靴が履けただけでも恵まれていた方で,苦労したものである。女学校は又もう少し東京のはずれだったから近くに農家が多く,食糧不足の当時の事,そこでズイキ(里芋の茎)を売っていると聞き,学校帰りに買って,長いズイキの束を抱えて電車に乗った事もあった。敵国憎しと当時の政府は女学校での英語の授業を廃止したので,そのせいで教えこまれる筈の英語の基本をすっぽぬかされた世代の私は今もって肩身の狭い思いを引きずっている。(その後の不勉強を棚にあげての不満は自分でもどうかとは思うが……。)
今はこんな時代があったなんて嘘のよう。巷には片仮名言葉が溢れ,呆けかけた老人はなかなか追いつけない。れっきとした日本語があってもレガシーと言い,パソコン,レシピ,トイレ,コンビニ等の略語はもう日本語化しているし,何にでもザを付
けたりマイ箸なんて語を作ったり,タワマンはタワーマンション,スクハラはスクールハラスメントの略とか。数えあげるときりがないとひねくれて,ため息まじりにテレビ(・・・)や新聞に目を走らせる日々なのである。
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