有限会社 三九出版 - 母と夢二さん


















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                母と夢二さん

              白川 治子(神奈川県横浜市)

 「代々木の俊二さん」は遠い親戚で,本業は東京帝国大学卒の医者だが正木不如丘というペンネームを持つ小説家でもあった。夢二のパトロンの1人で,しかも最期を看取った医者なので,夢二年表には必ず彼の名が載っている。母が可愛がってもらっていた頃の夢二は「奥さんも子供もいなかったわ。居候していた部屋は,いつでも使えるように空けてあったの」と母は言う。仙台の天江富弥氏(富弥氏の姪は私の小中学校の友人)もパトロンの1人だったから,あちこちのパトロンの家を渡り歩いていたと思われる。放浪画家と言われるゆえんだ。
 生存中の夢二は,○○賞には無縁で画家としての評価は高くなかったが,今はどうだろう。彼の作品を常設展示してある美術館は故郷の岡山や,東京の文京区や,群馬県の伊香保などたくさんあり,特別展ともなると大盛況だ。 美人画もさることながら,まったく画風が異なる斬新なイラストは,若者にも人気がある。20世紀の終わりに発行された「20世紀デザイン切手集」にも,2枚入っている。比べるのもおこまがしいが,彼を庇護した正木不如丘を知っている人は今となっては親戚ぐらいだ。私は「思われ人」しか読んだことがないが,図書検索したら何冊も出てきた。大衆文学全集も出してもらっている。医者でありながらベストセラー作家だった。
 三越に勤めていた母の父も,夢二の年表に登場する。1931(昭和6)年に,夢二は新天地を求めてアメリカに向かったが,費用を工面するために新宿三越で「渡米告別展」を開いた。そのお膳立てをしたのが祖父。若い頃にカリフォルニアに住んでいたので,滞米中の世話をアメリカの知人に頼んだそうだ。感激した夢二は,箱書き付きの絵を祖父に贈っている。
 アメリカとヨーロッパを回って1933(昭和8)年9月に神戸港に帰ってきた時には.すでに結核におかされていたようだ。1年後に亡くなっている。「1934(昭和9)年の1月19日に、 信州の富士見高原療養所の正木不如丘所長に迎えられ、特別病棟に入院。手厚い看護を受ける」と年表にある。
 富士見高原療養所は,所長が作家ということもあり,堀辰雄,久米正雄など多くの文化人が療養生活を送った。ここを舞台にした作品が,堀辰雄の「風立ちぬ」であり,久米正雄の「月よりの使者」である。


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