備えは幾重にも,想定不足は人災
鈴木 邦夫(宮城県仙台市)
2011年3月11日の午後,その夕刻に30年前当時の同僚との会合があり,仙台市営地下鉄を利用して会場の最寄りの駅である八乙女駅に向かっていた。広瀬通駅で乗り,二つ目の北四番丁駅に到着寸前の14時46分に地震は発生した。電車のドアは開放されていたが余震の心配もあり,私はむしろ車内にいた方が安全だろうと,しばしの間車内にとどまった。が,電車が動き出すのがいつになるか分からないとの車内アナウンスがあり,電車から出て改札口に向かった。その時はまだ暢気にも,地下内での振動だから強かったのだろうと考えて,まだ動いていたバスに乗り換え,渋滞の中を目的地に向かった。ところが,目的地の停留所でバスを降り,八乙女の会合場所の店まで行くとシャッターは閉まっていて周りには誰一人としていない。ここで事の重大さを知ったのだが,事は既に遅しである。霙も降っていて,その中を徒歩で2時間かけてやっとの思いで我が家に戻ってきた。
倒壊にも火災にも遭うことなく,無事な我が家を目にして安心したが,家具や本棚が倒れ,壁やタイル,引き戸,床,基礎等には大きなダメージを受けていた。また,ライフラインのうち,水道だけは止まっていなかったが,電気,ガスは止まっていた。 そのようなことで,幸いにも住めない状態ではなかったが,あの震災では次のようなことを特に強く考えさせられた。
まず,〝寒さへの対策″をしておくことである。我々現代生活者は電気が通じていないことには非常に弱いので,電気の要らない暖房機を備えておくことが欠かせない。あの震災が起きた当時,わが家には幸いにも反射式石油ストーブがあり,石油の備蓄もあったので辛うじて暖を取ることができた。(暑さに対しても何らかの備えをしておかなければならないのは言うまでもない。)
次に,〝調理器具の備え″である。我が家のある地区では約1ヶ月間都市ガスが通らなかった。幸いな事にここでも反射式ストーブが重宝した。また,カートリッジ式卓上コンロとそれ用のボンベが3本ほどあり,幸いした。しかしそのボンベは間もなく使い果たしてしまい,その補充はなかなか手に入らなかった。できれば5kプロパンボンベとガスコンロがあるとよい。
3つ目は,〝通信手段の確保″である。固定電話やファックスは電源を必要としているので使えないし,携帯電話も充電ができないので大変困った。しかし,旧式の「黒」電話機と同様のものは電力を必要としないので停電でも通話できるし,当時も売られているということであったので後日購入することにした。
以上が我が家が受けた“被害”から学んだことであるが,逆から言うとこの程度の被害で済んだということであり,それは我が家が仙台でも海からずいぶん離れた所にあるおかげである。特に沿岸部は津波の被害が口舌に尽くせない被害を受けているのは周知のところである。これは仙台のみならず東北地方から茨城県,千葉県の沿岸部も同様である。中でも福島第一原発の事故による被害は甚大である。このような超大事故を防ぐ備えは出来なかったのだろうか。
震災後一ヶ月ばかり過ぎた頃であったろうか,テレビの対談で福島第一原発の建設に係わった元幹部が次のような事柄を証言している。①現地は元々海抜30m程の海岸台地を海抜10m程に削り取って建設したこと。②米国ジェネラル・エレクトリック社(GE)の海水を汲み上げる揚水ポンプの能力は高さ10m程度の仕様のものであったこと。③GE設計図上,補助電源室は海側の地下室に設置されていたこと。以上のことから,東電は当初,ポンプの能力を上げてそのままの高さに原子炉を建てること,また電源室を内陸側に設計変更することを検討したが,建設コストを抑えるため,津波認識の低い米国GE社の仕様そのまま丸呑みして建設してしまったものと言えよう。つまり,東電は建設当時に津波の可能性を想定し,津波に対する心配を間違いなく持っていたのに,コスト優先をとったのである。そしてその結果として大災害を招いたものと言える。 また,震災の20年も前に,869年の貞観地震による津波の災害実態が警告として地震学者により出されている。それに自然災害ばかりでなく,東電の会議では2006年,2008年にテロによる標的となる問題が話題となっていたという。こうした中で全電源喪失は容易に考えなければならないことである。
こうしてみると,福島第一原発の事故は,想定外ではなく想定不足であり,自然災害ではなく人災であると言える。因みに,宮城県にある女川原発は近い将来に来るであろう「宮城沖地震」に備えて15mの津波対策を予めとっていて,3.11当日は地盤沈下1mのところに13.5mの津波が押し寄せ,すんでのところで難を逃れたそうだ。
安全対策にとり過ぎということはない。幾重にも備えてほしいものだ。
鈴木 邦夫(宮城県仙台市)
2011年3月11日の午後,その夕刻に30年前当時の同僚との会合があり,仙台市営地下鉄を利用して会場の最寄りの駅である八乙女駅に向かっていた。広瀬通駅で乗り,二つ目の北四番丁駅に到着寸前の14時46分に地震は発生した。電車のドアは開放されていたが余震の心配もあり,私はむしろ車内にいた方が安全だろうと,しばしの間車内にとどまった。が,電車が動き出すのがいつになるか分からないとの車内アナウンスがあり,電車から出て改札口に向かった。その時はまだ暢気にも,地下内での振動だから強かったのだろうと考えて,まだ動いていたバスに乗り換え,渋滞の中を目的地に向かった。ところが,目的地の停留所でバスを降り,八乙女の会合場所の店まで行くとシャッターは閉まっていて周りには誰一人としていない。ここで事の重大さを知ったのだが,事は既に遅しである。霙も降っていて,その中を徒歩で2時間かけてやっとの思いで我が家に戻ってきた。
倒壊にも火災にも遭うことなく,無事な我が家を目にして安心したが,家具や本棚が倒れ,壁やタイル,引き戸,床,基礎等には大きなダメージを受けていた。また,ライフラインのうち,水道だけは止まっていなかったが,電気,ガスは止まっていた。 そのようなことで,幸いにも住めない状態ではなかったが,あの震災では次のようなことを特に強く考えさせられた。
まず,〝寒さへの対策″をしておくことである。我々現代生活者は電気が通じていないことには非常に弱いので,電気の要らない暖房機を備えておくことが欠かせない。あの震災が起きた当時,わが家には幸いにも反射式石油ストーブがあり,石油の備蓄もあったので辛うじて暖を取ることができた。(暑さに対しても何らかの備えをしておかなければならないのは言うまでもない。)
次に,〝調理器具の備え″である。我が家のある地区では約1ヶ月間都市ガスが通らなかった。幸いな事にここでも反射式ストーブが重宝した。また,カートリッジ式卓上コンロとそれ用のボンベが3本ほどあり,幸いした。しかしそのボンベは間もなく使い果たしてしまい,その補充はなかなか手に入らなかった。できれば5kプロパンボンベとガスコンロがあるとよい。
3つ目は,〝通信手段の確保″である。固定電話やファックスは電源を必要としているので使えないし,携帯電話も充電ができないので大変困った。しかし,旧式の「黒」電話機と同様のものは電力を必要としないので停電でも通話できるし,当時も売られているということであったので後日購入することにした。
以上が我が家が受けた“被害”から学んだことであるが,逆から言うとこの程度の被害で済んだということであり,それは我が家が仙台でも海からずいぶん離れた所にあるおかげである。特に沿岸部は津波の被害が口舌に尽くせない被害を受けているのは周知のところである。これは仙台のみならず東北地方から茨城県,千葉県の沿岸部も同様である。中でも福島第一原発の事故による被害は甚大である。このような超大事故を防ぐ備えは出来なかったのだろうか。
震災後一ヶ月ばかり過ぎた頃であったろうか,テレビの対談で福島第一原発の建設に係わった元幹部が次のような事柄を証言している。①現地は元々海抜30m程の海岸台地を海抜10m程に削り取って建設したこと。②米国ジェネラル・エレクトリック社(GE)の海水を汲み上げる揚水ポンプの能力は高さ10m程度の仕様のものであったこと。③GE設計図上,補助電源室は海側の地下室に設置されていたこと。以上のことから,東電は当初,ポンプの能力を上げてそのままの高さに原子炉を建てること,また電源室を内陸側に設計変更することを検討したが,建設コストを抑えるため,津波認識の低い米国GE社の仕様そのまま丸呑みして建設してしまったものと言えよう。つまり,東電は建設当時に津波の可能性を想定し,津波に対する心配を間違いなく持っていたのに,コスト優先をとったのである。そしてその結果として大災害を招いたものと言える。 また,震災の20年も前に,869年の貞観地震による津波の災害実態が警告として地震学者により出されている。それに自然災害ばかりでなく,東電の会議では2006年,2008年にテロによる標的となる問題が話題となっていたという。こうした中で全電源喪失は容易に考えなければならないことである。
こうしてみると,福島第一原発の事故は,想定外ではなく想定不足であり,自然災害ではなく人災であると言える。因みに,宮城県にある女川原発は近い将来に来るであろう「宮城沖地震」に備えて15mの津波対策を予めとっていて,3.11当日は地盤沈下1mのところに13.5mの津波が押し寄せ,すんでのところで難を逃れたそうだ。
安全対策にとり過ぎということはない。幾重にも備えてほしいものだ。
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