≪東日本大震災 私は忘れない》 増えた十円玉
渡邊 朋久(埼玉県さいたま市)
あの日,最初の揺れが来たのは子どもたちの通学班指導を行っているときだった。JR武蔵浦和駅に近い小学校の教頭だった私は,休みを取っていた教員に代わってたまたま児童の指導に当たっていたのだ。揺れは大きかったが,目に見える被害はなかったので,そのまま子どもたちを下校させた。その後何度かの余震に見舞われた。その時点では東北を襲った未曽有の災害の情報はまだ届いていなかったから,私たちの関心は専ら子どもが無事に家まで帰り着いたかどうかの方にあった。
そのうち徐々に情報が入ってきた。巨大津波,福島原発,状況が分かるにつれて身が震えた。これは大変なことになった……。職員と顔を見合わせ,口々に言い合っているところにJRからだったか,市教委からだったかよく覚えていないが,1本の電話が入った。武蔵浦和駅の手前で上りの東北新幹線が立ち往生している。乗客のために避難所を開設してほしいというのだ。学校は元々地域の避難所になっているから,既に避難所開設の準備はできていた。校長に確認し,ためらうことなく了解した。
3月の前半で夜はまだ冷える。体育館より暖房の入る教室がいいだろうということになり,家族エリア,男女別エリア,高齢者エリアなどをフロアごとに区分けをして,受け入れ態勢を整えた。千人あまりの乗客は,周辺の避難所に振り分けられ,本校にも百数十人の避難者が夕方から徐々に集まってきた。あらかじめ準備したエリアを臨機応変に調整しながら,避難者を教室に割り振っていく。こういう人を動かす作業は,教員というのは実に上手なもので,自主的に手伝いに残ってくれた何人かの教職員が,市役所から来た職員と協力し,その場その場で役割を分担しながら避難者の誘導,非常食や毛布の配布など,手際よく捌いていってくれた。
そうしている間にも,テレビは東北東海岸の都市の壊滅的な状況を次々と伝えてきた。乗客の多くは,東北の各県から首都圏に出てきた人たちである。彼らの故郷もこの巨大津波に飲まれた街のどこかかもしれないと思うと,いたたまれない気持ちだったが,我々が気に病む以上に,避難してきた人たちは当然家に残っている家族の安否が気がかりだし,自分の無事を家族に伝えたいという思いも強かったに違いない。しかし,あの日は携帯電話がまったく通じなかった。学校から地震直後に配信した,児童の下校を知らせる “学校安全安心メール” も,保護者の端末に届いたのは夜の11時過ぎという有様だった。そこで活躍したのが,学校に1台だけある緑の公衆電話だ。とりあえず今夜のねぐらを確保して一息ついた乗客たちが,その電話機に長蛇の列を作った。十円玉しか使えない公衆電話である。東北地方の自宅まで電話をすると,かなりの速さで十円玉が落ちていく。次に待つ人を気遣って手短に話そうとはするが,それでも十円玉が足りない人も多かった。そんな様子を見兼ねた校長が,どうぞ,と言って手持ちの十円玉を電話機の上に置いた。前の方に並んでいた何人かが,どうも,と頭を下げる。なかなか粋なことをするな,と私も財布を開けてみたが,残念ながら十円玉の持ち合わせがなく,ちょっと苦笑いだった。
ところがである。夜も更けて,電話機の前の長蛇の列もいつしか消えて,人々が各自の部屋に落ち着いたころ,校内の様子を見回って戻ってくると,電話機の上の十円玉にふと目が留まった。なんと十円玉が明らかに増えているのだ。初めに校長が置いたときは,たぶん十個に満たない数だった。その十円玉を足りない人が借り,手持ちの十円玉が余った人は置いてくれたのだろう。途中経過を見てはいないが,今,電話機の上の十円玉は,一目二十個近くある。こんなときに,いや,こんなときだからこそだろうか,人々の他者を思いやる温かい心に触れて,今思いだしても熱いものがこみ上げてくる。その十円玉は義援金に含めて被災地に送ったことは言うまでもない。
深夜,新幹線の乗客がそろそろ眠りに就こうとするころ,また,ぞろぞろと人が集まり始めた。帰宅困難者たちが,都心から歩いてきて真夜中になってしまい,もはや歩く気力も体力も尽きて,灯りを頼りに集まってきたのだ。当初予定の避難者数は既に超えていたが,疲れ果ててたどり着いた人々を断るわけにはいかなかった。助けを求めて訪れる正に避難(・・)民(・)を迎え入れる作業は夜が白むまで続いた。
一夜明けて次の落ち着き先を見つけた避難者たちが三々五々学校を去っていった。口々に丁寧にお礼を言い,中には,故郷から持ってきた生もののお土産を,持って行くところがないから,と職員室に置いていってくれる人もいた。彼らのその後のことは存じ上げないが,おそらくは平坦な道ではなかったであろう。たった一晩の触れ合いだが,災害にあってなお取り乱すことなく紳士的に振る舞う彼らを忘れない。願わくば,困難を乗り越えて,平穏な日々を取り戻していてほしいと祈るばかりである。
渡邊 朋久(埼玉県さいたま市)
あの日,最初の揺れが来たのは子どもたちの通学班指導を行っているときだった。JR武蔵浦和駅に近い小学校の教頭だった私は,休みを取っていた教員に代わってたまたま児童の指導に当たっていたのだ。揺れは大きかったが,目に見える被害はなかったので,そのまま子どもたちを下校させた。その後何度かの余震に見舞われた。その時点では東北を襲った未曽有の災害の情報はまだ届いていなかったから,私たちの関心は専ら子どもが無事に家まで帰り着いたかどうかの方にあった。
そのうち徐々に情報が入ってきた。巨大津波,福島原発,状況が分かるにつれて身が震えた。これは大変なことになった……。職員と顔を見合わせ,口々に言い合っているところにJRからだったか,市教委からだったかよく覚えていないが,1本の電話が入った。武蔵浦和駅の手前で上りの東北新幹線が立ち往生している。乗客のために避難所を開設してほしいというのだ。学校は元々地域の避難所になっているから,既に避難所開設の準備はできていた。校長に確認し,ためらうことなく了解した。
3月の前半で夜はまだ冷える。体育館より暖房の入る教室がいいだろうということになり,家族エリア,男女別エリア,高齢者エリアなどをフロアごとに区分けをして,受け入れ態勢を整えた。千人あまりの乗客は,周辺の避難所に振り分けられ,本校にも百数十人の避難者が夕方から徐々に集まってきた。あらかじめ準備したエリアを臨機応変に調整しながら,避難者を教室に割り振っていく。こういう人を動かす作業は,教員というのは実に上手なもので,自主的に手伝いに残ってくれた何人かの教職員が,市役所から来た職員と協力し,その場その場で役割を分担しながら避難者の誘導,非常食や毛布の配布など,手際よく捌いていってくれた。
そうしている間にも,テレビは東北東海岸の都市の壊滅的な状況を次々と伝えてきた。乗客の多くは,東北の各県から首都圏に出てきた人たちである。彼らの故郷もこの巨大津波に飲まれた街のどこかかもしれないと思うと,いたたまれない気持ちだったが,我々が気に病む以上に,避難してきた人たちは当然家に残っている家族の安否が気がかりだし,自分の無事を家族に伝えたいという思いも強かったに違いない。しかし,あの日は携帯電話がまったく通じなかった。学校から地震直後に配信した,児童の下校を知らせる “学校安全安心メール” も,保護者の端末に届いたのは夜の11時過ぎという有様だった。そこで活躍したのが,学校に1台だけある緑の公衆電話だ。とりあえず今夜のねぐらを確保して一息ついた乗客たちが,その電話機に長蛇の列を作った。十円玉しか使えない公衆電話である。東北地方の自宅まで電話をすると,かなりの速さで十円玉が落ちていく。次に待つ人を気遣って手短に話そうとはするが,それでも十円玉が足りない人も多かった。そんな様子を見兼ねた校長が,どうぞ,と言って手持ちの十円玉を電話機の上に置いた。前の方に並んでいた何人かが,どうも,と頭を下げる。なかなか粋なことをするな,と私も財布を開けてみたが,残念ながら十円玉の持ち合わせがなく,ちょっと苦笑いだった。
ところがである。夜も更けて,電話機の前の長蛇の列もいつしか消えて,人々が各自の部屋に落ち着いたころ,校内の様子を見回って戻ってくると,電話機の上の十円玉にふと目が留まった。なんと十円玉が明らかに増えているのだ。初めに校長が置いたときは,たぶん十個に満たない数だった。その十円玉を足りない人が借り,手持ちの十円玉が余った人は置いてくれたのだろう。途中経過を見てはいないが,今,電話機の上の十円玉は,一目二十個近くある。こんなときに,いや,こんなときだからこそだろうか,人々の他者を思いやる温かい心に触れて,今思いだしても熱いものがこみ上げてくる。その十円玉は義援金に含めて被災地に送ったことは言うまでもない。
深夜,新幹線の乗客がそろそろ眠りに就こうとするころ,また,ぞろぞろと人が集まり始めた。帰宅困難者たちが,都心から歩いてきて真夜中になってしまい,もはや歩く気力も体力も尽きて,灯りを頼りに集まってきたのだ。当初予定の避難者数は既に超えていたが,疲れ果ててたどり着いた人々を断るわけにはいかなかった。助けを求めて訪れる正に避難(・・)民(・)を迎え入れる作業は夜が白むまで続いた。
一夜明けて次の落ち着き先を見つけた避難者たちが三々五々学校を去っていった。口々に丁寧にお礼を言い,中には,故郷から持ってきた生もののお土産を,持って行くところがないから,と職員室に置いていってくれる人もいた。彼らのその後のことは存じ上げないが,おそらくは平坦な道ではなかったであろう。たった一晩の触れ合いだが,災害にあってなお取り乱すことなく紳士的に振る舞う彼らを忘れない。願わくば,困難を乗り越えて,平穏な日々を取り戻していてほしいと祈るばかりである。
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