《東日本大震災 私は忘れない》 星空とトイレ
横山 和彦(宮城県仙台市)
東日本大震災後,被災した多くの人は,しばらくは「ぼうぜん」と「絶望」の中にいた。みんな虚ろな表情で,元気もなく,ただ生きていたように見えた。わたしも同じように感じていたが,ある時を境に少しずつ元気を取り戻していった。
それは震災から何日目だろうか?その日は朝から快晴で夜になっても雲一つない晴天だった。会社からの帰り道に,家々の電気や街灯,信号も点いていない,真っ暗闇の中でいつもの坂道を自転車で登って行き,ふと見上げると,空いっぱいに無数の星が降り注いでいるではないか。これは凄いと久しぶりに心から感動し見入った。こんなにたくさんの星空が仙台で見えるなんて,まんざら悪くもないなと思ったものだ。
それで,われに返ったのか,少し元気になり,冷静になった。
住んでいるマンションも当然のように被害を受けた。家具や食器棚が軒並み倒れ,足の踏み場もなかった。そのため,数日間は母親が住んでいる近くの実家に避難し,そこで寝泊まりしながら,少しずつ片付けて,家族してマンションに戻った。水や電気もそうだが,一番の心配はトイレだった。町内会の役員をしていた関係で,震災後に緊急に集まり,さまざまな対策を協議し,その中で,トイレは使った紙を便器に捨てないで別に集め,少しずつ水をトイレに流せばなんとか使えるということが分かり,早速に実行してうまくいったので,これでなんとかなるなと家族一同安堵した。流すために使う水は,ほかの家庭もそうだが,風呂場の残り湯。その時は半分くらい残っていたので助かった。水が減ってくると,水道が復旧するまではと5階まで階段で何度も運び,大層疲れたものだ。楽をしようと一度は雪を運んで使ってみたが,風呂場に入れてもシャーベット状にはなるだけでなかなか解けず,しかも水が氷のように冷たくなり使えないと諦め,水をひたすら運ぶ作業を続けた。
ある時,町内に住む一人住まいの高齢者を見守ろうということになり,わたしは古い木造2階建ての1階に住んでいた足の悪いお爺さんを,水と食料を持って訪ねると,トイレが紙で詰まって困っていると相談を受けた。そこで,部屋にあったラバーカップを使い,何度もやってみたがうまくいかず,老人の困っている表情を見て,これはこのまま諦める訳にはいかないなあと,気合を入れ直して思いっきりやってみたら,無事流れるようになり,正直ホッとした。
実は水道が復旧するまでの数日間,マンションのトイレでわたしは紙を使わずに水だけで処理した。それは,今から40年ほど前,学生時代に一人で旅行したインド,パキスタンでの体験によるものだ。
当時,ヨーロッパからパキスタンの首都イスラマバードにやってきたわたしは,街の安宿に泊まり,市内をうろついていると,同じくらいの若者たちと知り合いになり,そのうちの一人が住んでいるアパートに泊めてもらい,1週間ほど彼らと一緒に楽しく過ごした。そのアパートは土壁で造られた古い建物で,部屋はワンルームで,トイレは共同。そのトイレには,日本の和式便器のようなオマルがあり,その前に水道の蛇口とランプのような水差しが置いてあるが,紙がなかった。使い方を聞いてみると,なんと,水を入れた水差しを右手に持ち,左手で使用後にお尻を洗うのだと言うではないか。物凄いカルチャーショックを受け,とてもじゃないが真似できないと断り,最初は持ってきたティッシュを使って処理していた。でも,次第に紙もなくなり,仕方ない,物は試しと,えいやっとばかりに挑戦してみた。すると,なんと,なんと,快適ではないか。お尻の具合が手の感触でよくわかり,終わった後のお尻の爽快なこと。これでやみつきになり,インドとパキスタンの旅行中は,この方法で通した。日本に帰ってみると,ちょうど,ウォシュレットが出回り始めたころで,この開発者は絶対にインド,パキスタンを旅行し,現地のトイレを使ってわたしと同じようにその良さに気が付いたに違いない,それをベースにしたのだろうと思ったものだ。
だから,今回のマンションのトイレでも,そのやり方を思い出し,紙なしでまったく不自由なく過ごすことができた。本当はみんなに教えてやりたいくらいだったが,それは我慢した。
現在,日本では,たいていの家庭にウォシュレットが普及し,紙はそれほど必要ないと思っていたのだが,今回,新型コロナウイルスの感染拡大によって,トイレットペーパーが買いだめや買い占めに遇い,全国的に一時期なくなるのを見て,正直驚いた。そうしたら,ウォシュレットを使わずに紙を使っている人や,使用後に紙・ウォシュレットの順で使う人などがいることが判明し,需要はあるのだなと少しばかり納得した。でもまあ,紙はなくともなんとかなる,ですよ。
横山 和彦(宮城県仙台市)
東日本大震災後,被災した多くの人は,しばらくは「ぼうぜん」と「絶望」の中にいた。みんな虚ろな表情で,元気もなく,ただ生きていたように見えた。わたしも同じように感じていたが,ある時を境に少しずつ元気を取り戻していった。
それは震災から何日目だろうか?その日は朝から快晴で夜になっても雲一つない晴天だった。会社からの帰り道に,家々の電気や街灯,信号も点いていない,真っ暗闇の中でいつもの坂道を自転車で登って行き,ふと見上げると,空いっぱいに無数の星が降り注いでいるではないか。これは凄いと久しぶりに心から感動し見入った。こんなにたくさんの星空が仙台で見えるなんて,まんざら悪くもないなと思ったものだ。
それで,われに返ったのか,少し元気になり,冷静になった。
住んでいるマンションも当然のように被害を受けた。家具や食器棚が軒並み倒れ,足の踏み場もなかった。そのため,数日間は母親が住んでいる近くの実家に避難し,そこで寝泊まりしながら,少しずつ片付けて,家族してマンションに戻った。水や電気もそうだが,一番の心配はトイレだった。町内会の役員をしていた関係で,震災後に緊急に集まり,さまざまな対策を協議し,その中で,トイレは使った紙を便器に捨てないで別に集め,少しずつ水をトイレに流せばなんとか使えるということが分かり,早速に実行してうまくいったので,これでなんとかなるなと家族一同安堵した。流すために使う水は,ほかの家庭もそうだが,風呂場の残り湯。その時は半分くらい残っていたので助かった。水が減ってくると,水道が復旧するまではと5階まで階段で何度も運び,大層疲れたものだ。楽をしようと一度は雪を運んで使ってみたが,風呂場に入れてもシャーベット状にはなるだけでなかなか解けず,しかも水が氷のように冷たくなり使えないと諦め,水をひたすら運ぶ作業を続けた。
ある時,町内に住む一人住まいの高齢者を見守ろうということになり,わたしは古い木造2階建ての1階に住んでいた足の悪いお爺さんを,水と食料を持って訪ねると,トイレが紙で詰まって困っていると相談を受けた。そこで,部屋にあったラバーカップを使い,何度もやってみたがうまくいかず,老人の困っている表情を見て,これはこのまま諦める訳にはいかないなあと,気合を入れ直して思いっきりやってみたら,無事流れるようになり,正直ホッとした。
実は水道が復旧するまでの数日間,マンションのトイレでわたしは紙を使わずに水だけで処理した。それは,今から40年ほど前,学生時代に一人で旅行したインド,パキスタンでの体験によるものだ。
当時,ヨーロッパからパキスタンの首都イスラマバードにやってきたわたしは,街の安宿に泊まり,市内をうろついていると,同じくらいの若者たちと知り合いになり,そのうちの一人が住んでいるアパートに泊めてもらい,1週間ほど彼らと一緒に楽しく過ごした。そのアパートは土壁で造られた古い建物で,部屋はワンルームで,トイレは共同。そのトイレには,日本の和式便器のようなオマルがあり,その前に水道の蛇口とランプのような水差しが置いてあるが,紙がなかった。使い方を聞いてみると,なんと,水を入れた水差しを右手に持ち,左手で使用後にお尻を洗うのだと言うではないか。物凄いカルチャーショックを受け,とてもじゃないが真似できないと断り,最初は持ってきたティッシュを使って処理していた。でも,次第に紙もなくなり,仕方ない,物は試しと,えいやっとばかりに挑戦してみた。すると,なんと,なんと,快適ではないか。お尻の具合が手の感触でよくわかり,終わった後のお尻の爽快なこと。これでやみつきになり,インドとパキスタンの旅行中は,この方法で通した。日本に帰ってみると,ちょうど,ウォシュレットが出回り始めたころで,この開発者は絶対にインド,パキスタンを旅行し,現地のトイレを使ってわたしと同じようにその良さに気が付いたに違いない,それをベースにしたのだろうと思ったものだ。
だから,今回のマンションのトイレでも,そのやり方を思い出し,紙なしでまったく不自由なく過ごすことができた。本当はみんなに教えてやりたいくらいだったが,それは我慢した。
現在,日本では,たいていの家庭にウォシュレットが普及し,紙はそれほど必要ないと思っていたのだが,今回,新型コロナウイルスの感染拡大によって,トイレットペーパーが買いだめや買い占めに遇い,全国的に一時期なくなるのを見て,正直驚いた。そうしたら,ウォシュレットを使わずに紙を使っている人や,使用後に紙・ウォシュレットの順で使う人などがいることが判明し,需要はあるのだなと少しばかり納得した。でもまあ,紙はなくともなんとかなる,ですよ。
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