明智光秀の家臣,東行澄の末裔(3)
岡本 崇(京都府木津川市)
6.愛宕百韻連歌会を鑑賞
平成23年5月28日、「高城修三連歌会」主催の,「愛宕百韻連歌会」を小学校に入ったばかりの孫娘と二人で見学に行く。
当初は,愛宕山山頂の愛宕神社境内の,石段下休憩小屋で開催される予定であったので,登山の覚悟もして行ったが,台風接近の降雨で,会場を嵯峨清滝町の料理旅館,「ますや」に変更して行われた。
高城修三さんの講演会もあったのだが,修三さんは芥川賞作家でも有名な方である。
私の14代前の祖、東六郎兵衛行澄の役を演ずる役者(女性)は,明智光秀と,その嫡男,光慶(みつよし)との間に座り,執筆(しゅひつ=書記役)を務めていた。執筆は,連衆(連歌会に出て詠みあう人々)の句を読み上げ,それを書き留めてゆく係だが,行澄も,「表八句」の八句目に一句だけ詠んで,自分で書き留めていた。
愛宕百韻(初表と挙句)
発句「時は今 雨が下なる 五月かな」光秀 明智光秀(ときは今天が下しる五月哉)
二句「水上まさる庭の夏山」行祐 威徳院行祐(愛宕山西の坊威徳院住職)
三句「花落つる 池の流れを せきとめて」紹巴 里村紹巴連歌師
四句「風に霞を吹き送るくれ」宥源 (愛宕山上之坊大善院住職)
五句「春も猶鐘のひびきや冴えぬらん」昌叱 里村昌叱(里村紹巴門の連歌師)
六句「かたしく袖は有明の霜」心前 里村心前(里村紹巴門の連歌師)
七区「うらがれになりぬる草の枕して」兼如 (猪苗代家の連歌師)
八句「聞きなれにたる 野辺の松虫」行澄 (光秀家臣 東六郎兵衛行澄)
挙句「国々は猶 のどかなるころ」光慶 (明智光秀長男)100句目(最後の句)
東行澄は藤原定家の血を引き,宗祇に古今伝授(古今和歌集の解釈伝授)をした歌人でもあった武将の,東常縁(とうのつねより=美濃篠脇城城主・私の17代前の祖)を曽祖父とした。東行澄の10代前の東重胤が藤原定家に歌を学び,9代前の東胤行の妻は,藤原定家の孫であった。8代前の東行氏も歌人であったが,7代前の東時常は,「素阿弥」と称した歌人で,鎌倉に出仕して6代目と7代目将軍に仕えていた。
●東常縁↓連歌師宗祇↓三条西実隆↓細川幽斎(嫡男・忠興の妻は光秀の娘・玉で
明治期にガラシャと云われた)。「御所伝授」と云われる。
●東常縁→宗祇→宗碩→周柱→紹巴(奈良生まれの連歌師)という伝授ルートもある。
●京都の松永貞徳(1571-1654)は,細川幽斎から和歌を。里村紹巴から連歌を学び貞門俳諧(言葉遊びが特色)の祖と呼ばれる。
私達が今,山城郷土資料館友の会「古文書サークル」で解読している,「木津乗会船」は,1677年(江戸前期)に刊行された,連歌から派生した貞門俳諧選集である。
松永貞徳(京都の歌人・俳人)の弟子,北村季吟(近江の歌人・俳人・芭蕉の師)や安原貞室(京都の俳人)も登場する。木津川に船を浮かべたりして,京都や地元の名士たちが参加して,俳諧作品を中心とした名所案内記を作ったようである。
明智光秀は本能寺の変の二年前から,郡山城の普請目付をしているが,この俳諧集には郡山藩家老の子孫も登場する。六百年も前から脈々と繋がっているのに驚く。
俳諧とは直接関係無いが,木津川市賀茂惣中宛の光秀の書状などが散見される。
7.明智憲三郎氏との出会い
平成27年4月4日,大阪で開催された明智憲三郎氏の講演会に坂東史朗氏と参加。
その時,二人で控室へ行って明智憲三郎氏と名刺交換をしたのが最初の出会いだった。
坂東氏は半世紀前,東京の取引先(ユニチカ)の課長であったが,不思議なことに退職後も,最近まで毎週,西吉野の畑へ富有柿作りに一緒に通っていた。坂東氏は,岐阜県関ヶ原の出身だし,名前に「東」が付いているので,何か深いご縁を感じる。
私が勤務していた,伊藤忠商事東京本社の,永田課長は岐阜県郡上八幡出身であった。私の祖も,岐阜県郡上郡大和町の篠脇城を根城にして居た。
この三人だけで,私がホールインワンを出した,大厚木CCへ行ったのも懐かしい。見えない糸に結ばれた岐阜県人会の様であったなあと,不思議なご縁を感じる。
平成28年9月21日,美濃源氏土岐氏支流,明智光秀の末裔の,明智憲三郎氏から,「明智一族伝承の会」へ入会しないかという,お誘いを受けて入会させて頂き現在に至っている。(続く)
岡本 崇(京都府木津川市)
6.愛宕百韻連歌会を鑑賞
平成23年5月28日、「高城修三連歌会」主催の,「愛宕百韻連歌会」を小学校に入ったばかりの孫娘と二人で見学に行く。
当初は,愛宕山山頂の愛宕神社境内の,石段下休憩小屋で開催される予定であったので,登山の覚悟もして行ったが,台風接近の降雨で,会場を嵯峨清滝町の料理旅館,「ますや」に変更して行われた。
高城修三さんの講演会もあったのだが,修三さんは芥川賞作家でも有名な方である。
私の14代前の祖、東六郎兵衛行澄の役を演ずる役者(女性)は,明智光秀と,その嫡男,光慶(みつよし)との間に座り,執筆(しゅひつ=書記役)を務めていた。執筆は,連衆(連歌会に出て詠みあう人々)の句を読み上げ,それを書き留めてゆく係だが,行澄も,「表八句」の八句目に一句だけ詠んで,自分で書き留めていた。
愛宕百韻(初表と挙句)
発句「時は今 雨が下なる 五月かな」光秀 明智光秀(ときは今天が下しる五月哉)
二句「水上まさる庭の夏山」行祐 威徳院行祐(愛宕山西の坊威徳院住職)
三句「花落つる 池の流れを せきとめて」紹巴 里村紹巴連歌師
四句「風に霞を吹き送るくれ」宥源 (愛宕山上之坊大善院住職)
五句「春も猶鐘のひびきや冴えぬらん」昌叱 里村昌叱(里村紹巴門の連歌師)
六句「かたしく袖は有明の霜」心前 里村心前(里村紹巴門の連歌師)
七区「うらがれになりぬる草の枕して」兼如 (猪苗代家の連歌師)
八句「聞きなれにたる 野辺の松虫」行澄 (光秀家臣 東六郎兵衛行澄)
挙句「国々は猶 のどかなるころ」光慶 (明智光秀長男)100句目(最後の句)
東行澄は藤原定家の血を引き,宗祇に古今伝授(古今和歌集の解釈伝授)をした歌人でもあった武将の,東常縁(とうのつねより=美濃篠脇城城主・私の17代前の祖)を曽祖父とした。東行澄の10代前の東重胤が藤原定家に歌を学び,9代前の東胤行の妻は,藤原定家の孫であった。8代前の東行氏も歌人であったが,7代前の東時常は,「素阿弥」と称した歌人で,鎌倉に出仕して6代目と7代目将軍に仕えていた。
●東常縁↓連歌師宗祇↓三条西実隆↓細川幽斎(嫡男・忠興の妻は光秀の娘・玉で
明治期にガラシャと云われた)。「御所伝授」と云われる。
●東常縁→宗祇→宗碩→周柱→紹巴(奈良生まれの連歌師)という伝授ルートもある。
●京都の松永貞徳(1571-1654)は,細川幽斎から和歌を。里村紹巴から連歌を学び貞門俳諧(言葉遊びが特色)の祖と呼ばれる。
私達が今,山城郷土資料館友の会「古文書サークル」で解読している,「木津乗会船」は,1677年(江戸前期)に刊行された,連歌から派生した貞門俳諧選集である。
松永貞徳(京都の歌人・俳人)の弟子,北村季吟(近江の歌人・俳人・芭蕉の師)や安原貞室(京都の俳人)も登場する。木津川に船を浮かべたりして,京都や地元の名士たちが参加して,俳諧作品を中心とした名所案内記を作ったようである。
明智光秀は本能寺の変の二年前から,郡山城の普請目付をしているが,この俳諧集には郡山藩家老の子孫も登場する。六百年も前から脈々と繋がっているのに驚く。
俳諧とは直接関係無いが,木津川市賀茂惣中宛の光秀の書状などが散見される。
7.明智憲三郎氏との出会い
平成27年4月4日,大阪で開催された明智憲三郎氏の講演会に坂東史朗氏と参加。
その時,二人で控室へ行って明智憲三郎氏と名刺交換をしたのが最初の出会いだった。
坂東氏は半世紀前,東京の取引先(ユニチカ)の課長であったが,不思議なことに退職後も,最近まで毎週,西吉野の畑へ富有柿作りに一緒に通っていた。坂東氏は,岐阜県関ヶ原の出身だし,名前に「東」が付いているので,何か深いご縁を感じる。
私が勤務していた,伊藤忠商事東京本社の,永田課長は岐阜県郡上八幡出身であった。私の祖も,岐阜県郡上郡大和町の篠脇城を根城にして居た。
この三人だけで,私がホールインワンを出した,大厚木CCへ行ったのも懐かしい。見えない糸に結ばれた岐阜県人会の様であったなあと,不思議なご縁を感じる。
平成28年9月21日,美濃源氏土岐氏支流,明智光秀の末裔の,明智憲三郎氏から,「明智一族伝承の会」へ入会しないかという,お誘いを受けて入会させて頂き現在に至っている。(続く)
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