「ぶってり」という言葉
鈴木 雅子(東京都国立市)
「ぶってり」という言葉を使う人,聞いたことがあるという人はどの位おられるだろうか。肥えている,太っているのを表す言葉である。私はこのような,いわゆる擬声語,擬態語(最近はオノマトペという方が優勢)をテーマとして,学生時代―昭和20年代前半―から調べていたが,目についた例はカードにとり(パソコンなどというものもまだ無い戦後の貧しい学生時代であった。)そのカードも裏が白い広告などの紙を自分で切って作ったもので,そのカードがいっぱい残っており,このところいわゆる「終活」の為これらを処分することにした。ただ一応面白そうなものは簡単にまとめて,見て頂いてからでもよかろうと思い直し,まずその中の一つをとり上げることにしたのである。
さて,この「ぶってり」の語は『日本語オノマトペ辞典』(小学館)では黒島伝治の「腹はぶってりふくれている」を用例として挙げるのみ。私もはるか昔,若い頃に黒島伝治は大分読んだが,その頃はまだ先輩達を見習いながら勉強への取り組み方を学んでいた頃だったから,カードを取っていたのかもしれないが,今残っているのはすべてその後に取り組んだ多くの作者のカードの中の,水上勉の用例のみなのである。
「百合姉は太っていた。……ぶってり胸のふくらんだ襟もとを、心もちあけ」(父と子)。「箱崎という年輩のぶってり太った警部補が」(吹雪の空白)。「ぶってり肉づきもよく、大尻を左右に振り振り……私の部屋に向ってくる。」(冬の光景)。「ぶってりと(・)固太りした丸顔の女」(流旅の花)。「ぶってりと(・)肥った、臼のような腹を前へつき出して歩く」(くるま椅子の歌)。「和尚はぶってりした(・・)軀で、顔はむくんで青かった。」(冬の光景)。「その紳士風の男は四十七、八でぶってりした(・・)赧ら顔だった。」(金の砂)。「四十五、六のぶってりした(・・)男であった。脂ぎった顔に、初老のシミの出た肌は、いかにも、この男が精力的であるのを物語っているようだった。」(鼻)。等々。これらの描写から想像される「ぶってり」という状態は,太っている,脂ぎった,赧ら顔,という,ややマイナス的な感じのものだが,一方「ぶってりした(・・)とても親切な人」(冬の光景)。「ぶってりした(・・)紳士然とした男」(流旅の花)の例もあり,これからは余りマイナスイメージは感じとれない。
なお「三十七、八のふってり肥った小山咲子というその女は」(くるま椅子の歌)の例は一例のみで,印刷上のミスか校正ミスかとも思われ,又「顔が黒くて、でっぷりした人なんです。」(鼻)も一例あり,同じミスかもしれないが,或いは例外的に用いられたものかもしれず,疑問としておく。
これら「ぶってり」の語は一般には「でっぷり」というのに当たると思うが「でっぷり」が標準語的とすると「ぶってり」は方言的要素が多いとでも言えようか。(ちなみに『日本方言大辞典」』をみると「ぶってり」は太っているさま。でっぷり。大分県北海部郡 とあるのみ。水上勉は大分県出身ではない。)
それから水上勉の例では,他に世間一般に用いられていると同じ「ぼってり」が六例ある。「ぼってりした大男で、見るからに押しだしのある風貌」(吹雪の空白)。「ぼってりした人の好い顔」(野の鈴)。また「ぽってり」も三例あり「色白で、ぽってりした男好きのする顔」(眼)。「上唇がややうすく、下唇が、ぽってりと形のよいしまりをみせている」(吹雪の空白)等は,濁音の「ぼ」や「ぶ」に比し,半濁音の軽やかさなどの印象がプラスに働いて「ぶってり」とは対称的に用いられている。
以上のように,「ぶってり」の他に「ぼってり」と表現した例もあり,その対称的な用語として「ぽってり」も見られることなどから,水上勉は,その文章中に用いるべき語として「ぶってり」を用いたのであり,彼にとって,そこは「ぼってり」や「でっぷり」ではなく,どうしても「ぶってり」でなくてはならなかったのではないかと思われる。寡聞にして今のところ水上例以外の用例を見ないが,この語を使われる方,或いは聞いたことがあるという方がおられたら伺ってみたいと思う。
オノマトペを主とする観点から幾つかの水上例を見ると,違和感なくその情景が分かるので(『オノマトペ辞典』に解説を頼まれて書いたのは実は私なのだが)こういう言葉はやはり面白いと思う。この種の各地の方言もユニークなのが多くて楽しいし,これらの語群を上手に使っている作者に出会うと嬉しくなる。例えば,幸田文とか,椎名誠とかがあるが,早目にカードを整理してしまったのが一寸残念。また昔話の語りでは珍しく面白い言葉がうまく使われていて楽しい。「婆さ(ばばさ)は両手に大根一本ずつたがいて……大根をトチンとおろした(屁っこき嫁・越後)」。思い返すと楽しく研究を続ける事ができてよい一生だったと感謝して残りの人生を歩んでいける事を改めて有難く思う。
鈴木 雅子(東京都国立市)
「ぶってり」という言葉を使う人,聞いたことがあるという人はどの位おられるだろうか。肥えている,太っているのを表す言葉である。私はこのような,いわゆる擬声語,擬態語(最近はオノマトペという方が優勢)をテーマとして,学生時代―昭和20年代前半―から調べていたが,目についた例はカードにとり(パソコンなどというものもまだ無い戦後の貧しい学生時代であった。)そのカードも裏が白い広告などの紙を自分で切って作ったもので,そのカードがいっぱい残っており,このところいわゆる「終活」の為これらを処分することにした。ただ一応面白そうなものは簡単にまとめて,見て頂いてからでもよかろうと思い直し,まずその中の一つをとり上げることにしたのである。
さて,この「ぶってり」の語は『日本語オノマトペ辞典』(小学館)では黒島伝治の「腹はぶってりふくれている」を用例として挙げるのみ。私もはるか昔,若い頃に黒島伝治は大分読んだが,その頃はまだ先輩達を見習いながら勉強への取り組み方を学んでいた頃だったから,カードを取っていたのかもしれないが,今残っているのはすべてその後に取り組んだ多くの作者のカードの中の,水上勉の用例のみなのである。
「百合姉は太っていた。……ぶってり胸のふくらんだ襟もとを、心もちあけ」(父と子)。「箱崎という年輩のぶってり太った警部補が」(吹雪の空白)。「ぶってり肉づきもよく、大尻を左右に振り振り……私の部屋に向ってくる。」(冬の光景)。「ぶってりと(・)固太りした丸顔の女」(流旅の花)。「ぶってりと(・)肥った、臼のような腹を前へつき出して歩く」(くるま椅子の歌)。「和尚はぶってりした(・・)軀で、顔はむくんで青かった。」(冬の光景)。「その紳士風の男は四十七、八でぶってりした(・・)赧ら顔だった。」(金の砂)。「四十五、六のぶってりした(・・)男であった。脂ぎった顔に、初老のシミの出た肌は、いかにも、この男が精力的であるのを物語っているようだった。」(鼻)。等々。これらの描写から想像される「ぶってり」という状態は,太っている,脂ぎった,赧ら顔,という,ややマイナス的な感じのものだが,一方「ぶってりした(・・)とても親切な人」(冬の光景)。「ぶってりした(・・)紳士然とした男」(流旅の花)の例もあり,これからは余りマイナスイメージは感じとれない。
なお「三十七、八のふってり肥った小山咲子というその女は」(くるま椅子の歌)の例は一例のみで,印刷上のミスか校正ミスかとも思われ,又「顔が黒くて、でっぷりした人なんです。」(鼻)も一例あり,同じミスかもしれないが,或いは例外的に用いられたものかもしれず,疑問としておく。
これら「ぶってり」の語は一般には「でっぷり」というのに当たると思うが「でっぷり」が標準語的とすると「ぶってり」は方言的要素が多いとでも言えようか。(ちなみに『日本方言大辞典」』をみると「ぶってり」は太っているさま。でっぷり。大分県北海部郡 とあるのみ。水上勉は大分県出身ではない。)
それから水上勉の例では,他に世間一般に用いられていると同じ「ぼってり」が六例ある。「ぼってりした大男で、見るからに押しだしのある風貌」(吹雪の空白)。「ぼってりした人の好い顔」(野の鈴)。また「ぽってり」も三例あり「色白で、ぽってりした男好きのする顔」(眼)。「上唇がややうすく、下唇が、ぽってりと形のよいしまりをみせている」(吹雪の空白)等は,濁音の「ぼ」や「ぶ」に比し,半濁音の軽やかさなどの印象がプラスに働いて「ぶってり」とは対称的に用いられている。
以上のように,「ぶってり」の他に「ぼってり」と表現した例もあり,その対称的な用語として「ぽってり」も見られることなどから,水上勉は,その文章中に用いるべき語として「ぶってり」を用いたのであり,彼にとって,そこは「ぼってり」や「でっぷり」ではなく,どうしても「ぶってり」でなくてはならなかったのではないかと思われる。寡聞にして今のところ水上例以外の用例を見ないが,この語を使われる方,或いは聞いたことがあるという方がおられたら伺ってみたいと思う。
オノマトペを主とする観点から幾つかの水上例を見ると,違和感なくその情景が分かるので(『オノマトペ辞典』に解説を頼まれて書いたのは実は私なのだが)こういう言葉はやはり面白いと思う。この種の各地の方言もユニークなのが多くて楽しいし,これらの語群を上手に使っている作者に出会うと嬉しくなる。例えば,幸田文とか,椎名誠とかがあるが,早目にカードを整理してしまったのが一寸残念。また昔話の語りでは珍しく面白い言葉がうまく使われていて楽しい。「婆さ(ばばさ)は両手に大根一本ずつたがいて……大根をトチンとおろした(屁っこき嫁・越後)」。思い返すと楽しく研究を続ける事ができてよい一生だったと感謝して残りの人生を歩んでいける事を改めて有難く思う。
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