有限会社 三九出版 - 〔新作●現代ことわざ〕 まずは,行動せよ


















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             まずは,行動せよ

             廣澤 千秋(茨城県取手市)

 定年後15年の歳月が流れた。早いものである。日々をどうやって過ごすかについて考えていた。健康のため,スポーツセンターに通い,もう一つはピアノを習うことにした。無論,老人の手すさびに過ぎない。スポーツは問題ないが,ピアノレッスンは,高齢の男性なので,心理的に抵抗感があった。音楽を聴くのは若いころから好きだった。ジャンルにはこだわらない。歌謡曲,童謡までも含む。クラシックのピアノ曲ではベートーヴェンの23番「熱情ソナタ」や,モーツアルトの「協奏曲20番」に親しんできた。歌謡曲も昔はやった「有楽町で逢いましょう」などは名曲であろう。
 この歌はわが青春時代と重なり,あの頃の有楽町駅界隈のたたずまいが思い出されて,とても懐かしい。読売そごうデパート,日劇ビル,朝日新聞社屋,数寄屋橋など。
 話をピアノレッスンに戻そう。レッスン申込みに際して,不安があった。楽譜がまったく読めないのである。果たして65歳の老身に両手で旋律を奏でることなど出来るのか,早々に挫折しないだろうか,などと心配であった。すっかり気弱になり,自宅でぼんやりしていると,昔,目にしたある新聞記事を思い出した。社会面には,「田中さん70の手習い」と大きな活字が躍っており,顔写真も添えられていた。
 昭和35年ごろだろうか?最高裁判所長官だった田中耕太郎氏の定年退官後のピアノに向かう紹介記事だった。市井の片隅に生きる凡夫が著名な高官の顰(ひそみ)に倣うつもりはないが,こんな人もいたのだ,と鬱屈した心から解放された気がした。
 躊躇逡巡していては時間の浪費だと決心し,思い切ってピアノ教室の門を叩いた。
 レッスンは隔週,女の先生である。懇切丁寧に教えてくれるので,数年を経て楽譜もあらかた読めるようになった。不安は杞憂であった。老眼が進み,お玉杓子を追う視力の低下はどうしようもない。時折,「先生,いまどこでしたっけ?」と尋ねる始末である。入門・初級・中級と進み,今は映画「戦場のピアニスト」の主題曲に使われたショパンのノクターン「遺作」に取り組んでいる。蝸牛の歩みのように遅々として進まず「日暮れて途遠し」ではあるが,半ば楽しみながら続けている。
 入門時を振り返り,得た教訓は,思い悩み,不確かな思考を続けるよりも,「まずは行動せよ!」であった。
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