☆ふるさと紹 介
俳 人 の 一 文 ~岩手県和賀郡西和賀町
小西 忠人(岩手県北上市)
屋根にまで犬の来てゐる雪卸し
俳人山崎和賀流(わがる)(本名・孝)は,昭和13年岩手県和賀郡湯田村湯本,現在の和賀郡西和賀町(旧湯田村は昭和39年に町制施行により湯田町,平成17年旧沢内村と合併)に生まれた。
和賀流が生まれ育ったこの西和賀町は県の中西部に位置し,三方を1000メートル級の山々が連なる奥羽山脈に囲まれ,残りの一方は秋田県横手盆地に向かって開かれている。こうした山岳地形に広がる同町は特別豪雪地帯に指定され,平均年間降雪量10メートルを超える豪雪を相手にしなければならない。が,雪解けとともに山野を覆)い尽くすカタクリや四季を彩る濃密な景観,山あいに点在する湖沼や温泉群など計り知れない自然の魅力を宿しているのも事実である。
その温泉群の一つである湯本温泉界隈は,正岡子規曽遊の所縁から俳句の盛んな土地柄で,和賀流をはじめ幾多の俳人が輩出し,句を楽しむ愛好者らが静かに集う地にもなっている。昭和25年に造られた湯本温泉句碑公園には子規の「山の温泉(ゆや裸の上の天の河」や高浜虚子,和賀流の「屋根にまで…」などの句碑が並んで立ち,湯けむり“俳句の里”を色濃く醸し出している。
昭和48年,和賀流にとってこの年は挑戦3度目にして掌中にしている。いわゆる「屋根にまで…」などの句を収めた句集「奥羽山系」(50句)が,俳壇の“芥川賞”と称される第19回角川俳句賞を受賞したからである。しかし翌49年3月16日午前6時,脳出血により35歳で急逝。遺作は3千句にも及んでいたという。
俳句には門外の私であるが,和賀流が記された一文,それはコピーなのだが手にしていた。コピーは10数年前に仕事柄,西和賀へ足を運んでいた時分だった。 A5サイズ1枚に字数にしておよそ1200字のものである。コピーするという衝動に駆られたのは,これまで私自身「自分の風土とは?」と考えたこともなかった「風土観」を,“寸言人を導く”のごとく和賀流が語っていたからである。以来,私は俳人山崎和賀流を意識し,西和賀の風土を思うようになっていた。
奥羽山系襞の深雪を終の地に
一文は「湯田町讃歌」と題されている。「終の地と決めているふるさとの、歴史、風俗、あるいは自然など、とうりいっぺんのことは知っておく必要があると思ったからである」と和賀流は稿を進めながら,俳句仲間の「民具みな飢饉のはての寒き知恵」という句を差し挟んでいる。このことは凶作,飢饉の歴史をたどる中で先人の労苦を見つめ,そして生きる知恵とは何だったのか,それを考えるものとして敢えてその句を挿入せざるを得なかったのではないかと私は受け止めている。
「高所冷地という地理的なことから、一年の半分は雪の中の生活、つまり雪が人々の生活を支配していたと言っても過言ではない。(略)山、川、温泉、湖、四季折々の美しさは金銭では買えないものである。(略)今まで人々を支配してきた『雪』を、今度は我々が支配して雪と観光を結びつけることも可能である。 『雪』が観光湯田の主役になる日を考えただけでも楽しいことではないか」
「今度は我々が主役だ」と和賀流が言う。西和賀の歴史が雪に支配されていたというのは既に触れた通りであるが,「白い現実」を背負い,命を張り,「知恵」を武器にひたすら春を待つ西和賀の人たちの不撓のエネルギーが,「雪」という宿命に挑戦し続けてきた風土でもあると思うのである。こうした西和賀に和賀流は,-私らには「結い」の心に打てば響く「人情」があり、自慢できる「自然」がある。これは決してカネなどでは買えない「宝」であって、堂々と私らが次代に引き継がなければならない。高所冷地であるがゆえに西和賀の雪は言うに尽くせぬ厳しいものであるにせよ、しかし雪に代わってこれからは、私らが持ち続けているこの「宝」で堂々と主役を担おう―。そう賛歌して止まない和賀流の柔らかくて熱い思いがどこまでも駆け巡るのだ。
あまりにも早すぎる旅立ちから45年の時間が流れているが,俳句の母体を「沢内盆地」とされ,「終の地」として詠い続けた“夭折の俳人”の風土性俳句は,今なおその奥羽の山容に響き渡っていると言っても言い過ぎではあるまい。今年1月中旬,この一文の発行先を確認するため私は日本現代詩歌文学館(北上市)を訪ね,聞いた。発行先は,俳誌「北鈴」74号(昭和48年11月発行)に寄せたものだった。同号は,実は「山崎和賀流角川俳句賞受賞特集号」として発行されていたのである。しかしその4ヵ月後,とわの別れを告げようとは…。私には貴重過ぎる一文のコピーを,改めて感じるものとなっている。
俳 人 の 一 文 ~岩手県和賀郡西和賀町
小西 忠人(岩手県北上市)
屋根にまで犬の来てゐる雪卸し
俳人山崎和賀流(わがる)(本名・孝)は,昭和13年岩手県和賀郡湯田村湯本,現在の和賀郡西和賀町(旧湯田村は昭和39年に町制施行により湯田町,平成17年旧沢内村と合併)に生まれた。
和賀流が生まれ育ったこの西和賀町は県の中西部に位置し,三方を1000メートル級の山々が連なる奥羽山脈に囲まれ,残りの一方は秋田県横手盆地に向かって開かれている。こうした山岳地形に広がる同町は特別豪雪地帯に指定され,平均年間降雪量10メートルを超える豪雪を相手にしなければならない。が,雪解けとともに山野を覆)い尽くすカタクリや四季を彩る濃密な景観,山あいに点在する湖沼や温泉群など計り知れない自然の魅力を宿しているのも事実である。
その温泉群の一つである湯本温泉界隈は,正岡子規曽遊の所縁から俳句の盛んな土地柄で,和賀流をはじめ幾多の俳人が輩出し,句を楽しむ愛好者らが静かに集う地にもなっている。昭和25年に造られた湯本温泉句碑公園には子規の「山の温泉(ゆや裸の上の天の河」や高浜虚子,和賀流の「屋根にまで…」などの句碑が並んで立ち,湯けむり“俳句の里”を色濃く醸し出している。
昭和48年,和賀流にとってこの年は挑戦3度目にして掌中にしている。いわゆる「屋根にまで…」などの句を収めた句集「奥羽山系」(50句)が,俳壇の“芥川賞”と称される第19回角川俳句賞を受賞したからである。しかし翌49年3月16日午前6時,脳出血により35歳で急逝。遺作は3千句にも及んでいたという。
俳句には門外の私であるが,和賀流が記された一文,それはコピーなのだが手にしていた。コピーは10数年前に仕事柄,西和賀へ足を運んでいた時分だった。 A5サイズ1枚に字数にしておよそ1200字のものである。コピーするという衝動に駆られたのは,これまで私自身「自分の風土とは?」と考えたこともなかった「風土観」を,“寸言人を導く”のごとく和賀流が語っていたからである。以来,私は俳人山崎和賀流を意識し,西和賀の風土を思うようになっていた。
奥羽山系襞の深雪を終の地に
一文は「湯田町讃歌」と題されている。「終の地と決めているふるさとの、歴史、風俗、あるいは自然など、とうりいっぺんのことは知っておく必要があると思ったからである」と和賀流は稿を進めながら,俳句仲間の「民具みな飢饉のはての寒き知恵」という句を差し挟んでいる。このことは凶作,飢饉の歴史をたどる中で先人の労苦を見つめ,そして生きる知恵とは何だったのか,それを考えるものとして敢えてその句を挿入せざるを得なかったのではないかと私は受け止めている。
「高所冷地という地理的なことから、一年の半分は雪の中の生活、つまり雪が人々の生活を支配していたと言っても過言ではない。(略)山、川、温泉、湖、四季折々の美しさは金銭では買えないものである。(略)今まで人々を支配してきた『雪』を、今度は我々が支配して雪と観光を結びつけることも可能である。 『雪』が観光湯田の主役になる日を考えただけでも楽しいことではないか」
「今度は我々が主役だ」と和賀流が言う。西和賀の歴史が雪に支配されていたというのは既に触れた通りであるが,「白い現実」を背負い,命を張り,「知恵」を武器にひたすら春を待つ西和賀の人たちの不撓のエネルギーが,「雪」という宿命に挑戦し続けてきた風土でもあると思うのである。こうした西和賀に和賀流は,-私らには「結い」の心に打てば響く「人情」があり、自慢できる「自然」がある。これは決してカネなどでは買えない「宝」であって、堂々と私らが次代に引き継がなければならない。高所冷地であるがゆえに西和賀の雪は言うに尽くせぬ厳しいものであるにせよ、しかし雪に代わってこれからは、私らが持ち続けているこの「宝」で堂々と主役を担おう―。そう賛歌して止まない和賀流の柔らかくて熱い思いがどこまでも駆け巡るのだ。
あまりにも早すぎる旅立ちから45年の時間が流れているが,俳句の母体を「沢内盆地」とされ,「終の地」として詠い続けた“夭折の俳人”の風土性俳句は,今なおその奥羽の山容に響き渡っていると言っても言い過ぎではあるまい。今年1月中旬,この一文の発行先を確認するため私は日本現代詩歌文学館(北上市)を訪ね,聞いた。発行先は,俳誌「北鈴」74号(昭和48年11月発行)に寄せたものだった。同号は,実は「山崎和賀流角川俳句賞受賞特集号」として発行されていたのである。しかしその4ヵ月後,とわの別れを告げようとは…。私には貴重過ぎる一文のコピーを,改めて感じるものとなっている。
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