☆東日本大震災私は忘れない
放射能そして除染作業所 その①
水澤 葉子(福島県福島市)
自室の窓をすべてガムテープで完全に目張りされたとき,この家を出ようと決心した。原因は間違いなく自分が作ったのである。6年前の初秋であった。
2011.3.11の被害状況のTV映像に胸を抉られていた時点で,「放射能」という言葉は福島での生活圏内に存在しなかった。数日後には部屋に隔離するように扱い出した小学3年の孫を,翌12日から始まった飲料水配布のタンク車の列に,ペットボトルを持たせて順番待ちさせていたのが脳裏を掠める。
放射能被害に対する反応は,子をもつ親ほど,とくに母親が烈しかった。我が家の孫の母親はその先端に位置していた。マスクや手洗いなどという次元の話ではない。外出時は,帰宅時の着替えの一式を下駄箱の上に整えてから出掛ける。不急の外出は自然とおっくうになる。家の中の雰囲気も神経質そのものの感が強くなっていた。
雑用を作ってはひょこひょこと出歩いていた高齢者の私は,日に日に暖かくなっていく外を 窓越しに眺めては,手帳に書き込んだ然(さ)もない集まりごとが気にかかる。それにしても 部屋の空気も淀んで塵っぽい。私は絶対禁止と念押しされていた窓を,娘の留守を幸いとそっと開けてみた。私の部屋は二階でもあり,普通のことをこんなにびくびくするなんてと, 解放感と抱き合わせに馬鹿馬鹿しさの感慨も抱いたのを 覚えている。
厳禁を破った行為を告発した犯人は,誰彼とかではなく自分の粗忽さであった。内緒で開けた窓を閉め忘れたまま,趣味の会へとルンルン出掛けたのである。自他ともに認める粗忽人間ここに在りだった。
「どういうこと?」
娘の目が据わっていた。
「ごめん……」
「そういう 話じゃないよね」
私に 次の言葉はありえなかった。娘は何も言わない。どういう納まり方があるのだろうと無責任な発想が頭をよぎる。やがて 娘の体が浮いて部屋を出て行った。が,ものの数分で階段を上ってきた。手に何か持っている。
「これしかないよね。開けないでと頼んでも聞いてもらえないんだもの」
特殊技術を持っている職人さんのように,窓枠という窓枠に丁寧に,娘は時間も思いも込めてガムテープを密着させていた。
[窓の開かない部屋]は,居心地の悪さを強調し,何か方策を立てねばとの焦りが私の胸に烙印され始めていた。放射能への怖さには個人差もさることながら,年齢層による差異も大きかった。年配者は,もうこの先何年も……と寿命を前面に捉える人が少なくない。私もその中に入っていた。
出たい。出よう。その思いは日ごとに募っていく。私は新聞折り込みの求人募集にメガネをかけ替えて顔を近づけていた。
思えば 願いは叶うとか。 結果的に私は現実にそれを果たしたことになる。一番のネックだった年齢が不問。経験不要。運転免許・資格不要。まるで私のための条件だったと今にして思う。
「私,部屋にいたくないから仕事に出る」
「しごと? 年齢的に無理じゃない? 運転もできないし……」
「でも,あるのよ」
「どこかは知らないけど,どうやって通うの?」
「部屋を与えるって」
「はあ?」
そう,私は住み込みの仕事にありついたのだった。
場所は 二本松市の在。震災前は ゴルフ場だったという。御年75歳の私は,そこに俄か造りされたコンテナハウスに居住する「除染作業員」のための食堂の調理師補助員に雇用されたのである。
「放射能除染作業員」……こんな職業を誰が 予測しただろう。東日本大震災の 余波として派生した原子力発電による 放射能災害。歴史に[もし]はないけれど,東京電力の発電所が福島のあの場にではなく,名称そのまま東京にあったなら,事後の形相は全く異なっていたに違いない。 事故とは, そこにいたことが運命だとも言えるだろう。 (以下次号)
放射能そして除染作業所 その①
水澤 葉子(福島県福島市)
自室の窓をすべてガムテープで完全に目張りされたとき,この家を出ようと決心した。原因は間違いなく自分が作ったのである。6年前の初秋であった。
2011.3.11の被害状況のTV映像に胸を抉られていた時点で,「放射能」という言葉は福島での生活圏内に存在しなかった。数日後には部屋に隔離するように扱い出した小学3年の孫を,翌12日から始まった飲料水配布のタンク車の列に,ペットボトルを持たせて順番待ちさせていたのが脳裏を掠める。
放射能被害に対する反応は,子をもつ親ほど,とくに母親が烈しかった。我が家の孫の母親はその先端に位置していた。マスクや手洗いなどという次元の話ではない。外出時は,帰宅時の着替えの一式を下駄箱の上に整えてから出掛ける。不急の外出は自然とおっくうになる。家の中の雰囲気も神経質そのものの感が強くなっていた。
雑用を作ってはひょこひょこと出歩いていた高齢者の私は,日に日に暖かくなっていく外を 窓越しに眺めては,手帳に書き込んだ然(さ)もない集まりごとが気にかかる。それにしても 部屋の空気も淀んで塵っぽい。私は絶対禁止と念押しされていた窓を,娘の留守を幸いとそっと開けてみた。私の部屋は二階でもあり,普通のことをこんなにびくびくするなんてと, 解放感と抱き合わせに馬鹿馬鹿しさの感慨も抱いたのを 覚えている。
厳禁を破った行為を告発した犯人は,誰彼とかではなく自分の粗忽さであった。内緒で開けた窓を閉め忘れたまま,趣味の会へとルンルン出掛けたのである。自他ともに認める粗忽人間ここに在りだった。
「どういうこと?」
娘の目が据わっていた。
「ごめん……」
「そういう 話じゃないよね」
私に 次の言葉はありえなかった。娘は何も言わない。どういう納まり方があるのだろうと無責任な発想が頭をよぎる。やがて 娘の体が浮いて部屋を出て行った。が,ものの数分で階段を上ってきた。手に何か持っている。
「これしかないよね。開けないでと頼んでも聞いてもらえないんだもの」
特殊技術を持っている職人さんのように,窓枠という窓枠に丁寧に,娘は時間も思いも込めてガムテープを密着させていた。
[窓の開かない部屋]は,居心地の悪さを強調し,何か方策を立てねばとの焦りが私の胸に烙印され始めていた。放射能への怖さには個人差もさることながら,年齢層による差異も大きかった。年配者は,もうこの先何年も……と寿命を前面に捉える人が少なくない。私もその中に入っていた。
出たい。出よう。その思いは日ごとに募っていく。私は新聞折り込みの求人募集にメガネをかけ替えて顔を近づけていた。
思えば 願いは叶うとか。 結果的に私は現実にそれを果たしたことになる。一番のネックだった年齢が不問。経験不要。運転免許・資格不要。まるで私のための条件だったと今にして思う。
「私,部屋にいたくないから仕事に出る」
「しごと? 年齢的に無理じゃない? 運転もできないし……」
「でも,あるのよ」
「どこかは知らないけど,どうやって通うの?」
「部屋を与えるって」
「はあ?」
そう,私は住み込みの仕事にありついたのだった。
場所は 二本松市の在。震災前は ゴルフ場だったという。御年75歳の私は,そこに俄か造りされたコンテナハウスに居住する「除染作業員」のための食堂の調理師補助員に雇用されたのである。
「放射能除染作業員」……こんな職業を誰が 予測しただろう。東日本大震災の 余波として派生した原子力発電による 放射能災害。歴史に[もし]はないけれど,東京電力の発電所が福島のあの場にではなく,名称そのまま東京にあったなら,事後の形相は全く異なっていたに違いない。 事故とは, そこにいたことが運命だとも言えるだろう。 (以下次号)
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