MiniミニJIBUNSHI 我が青春の放浪記 さまざまなご縁に感謝して
三浦 敏正(千葉県柏市)
私は岩手県の現・奥州市出身で,現在,下総柏市に在住する古希超えの隠居です。
私の少年時代は,同級生の50%は中学卒業と同時に金の卵と言われながら就職列車に乗って東京へ向かい,高校進学者の80%(全体の40%)は就職し,大学へ進学する者は全体の10%程度という,ようやく戦後を脱する時期にあたります。
私は,中学1年の時に父母が離婚し,以後,父との音信が途絶えたため母一人子一人の赤貧の母子家庭で育ち,育英会奨学金と家庭教師などのアルバイトを続け,何とか地域の進学高校を卒業できました。高校3年の進路決定に際しては,親からの仕送りゼロでの大学進学は経済的に無理かと,内心諦めかけておりましたところ,幸運にも友人のご両親様から,学資の一部を貸与するので進学したらとのご厚情を頂戴,奮起して東北大学法学部に合格。学資貸与金,育英会奨学金と種々のアルバイト収入によりギリギリの条件下で何とか卒業できました。そんな環境の中では余裕もなく中学から大学卒業まで修学旅行というものに参加した経験は一切ありませんでした。
就職1年後には郷里から東京に母を引き取り同居し,後年,柏市に建てた持ち家にも住んでもらい,最期を看取ることもできました。従って親戚の紹介で家内と結婚する時は,申し訳ないが「家なし,カーなし,ばば付」の事前了解つきでした。
お世話になった学資貸与金と奨学金も8年間で完済できました。
大学4年間は割安な学生寮にお世話になりました。月々お借りする学資は生活費で消えるため,年2回の授業料や教科書等の書籍代,ささやかなリクレーション代はアルバイトで稼ぐ必要があり,種々の肉体労働や家庭教師等を重ねましたが,3・4年次の1年半程は稼ぎの良い洋酒バーの皿洗い兼バーテンダーを続けました。
4年次の秋,仙台バーテンダー協会の会長を名乗る人物が客として店に訪れ,卒業したら学士バーテンダーとして東京の本部に推薦するので本格的なバーテンダー修行をする意思はないかと真剣に勧誘されたが,お断りした記憶が鮮明に残っております。
ご縁があれば,人生には思いがけない選択もあるものだと実感した次第です。
このような背景から,大学の講義に必要な書籍も揃えられず,まともに受講もしてこなかった付けがたまり,4年次の11月からは卒業単位取得のため,不眠不休で万巻の書籍を読み漁ることとなりました。卒業試験までの数ヶ月間は我が人生最大の勉学を重ね,ギリギリの最小限単位取得で卒業させていただきました。
この時の体験がトラウマとなってか,40代後半までは,仕事疲れで寝た時には,時折,大学を正規に卒業できず1年落第したのではないかと,うなされて目覚めることがありました。会社の超一流大学卒の優秀な先輩の中にも,同様の体験をして50代になってなお,時折夢を見てはうなされ続けているという人もおり,世の中には同じような仲間もいるものだと安堵した経験があります。
学生時代のもう一つの不可思議な体験をご紹介いたしましょう。あれは大学3年次のアルバイト帰りの夜半,大学本部の芝生の上で星空を仰いで休憩した時のことでした。友人達と比べ自分だけが何でこんなに苦しいのでしょうか,神様仏様,もう少し楽になるよう助けてくださいと手を合わせた時のことです。
この時,突然,星空から光線の束が次々と私の脊椎を貫くが如く降り注ぎました。そして,その遥か遠くの荘厳な宮殿には,微笑みながら手招きしておわす聖人のお姿が見え,何とも表現できない,うっとりとした安楽な救われた気分にさせていただきました。あの当時は『善の研究』『出家とその弟子』『歎異抄』等を耽読していた時期なのでその影響もあったのでしょうが,自分中心の人生の価値尺度を180度変える,いわゆる「コペルニクス的転回」を体験しました。
将来,会社人生を引退し暇になったら,あの時の不可思議な体験は一体何であったのかを探求する日々を送ろうと決心した次第です。そういう訳で,今では次のような先哲の言葉が素直に口から出せるようになりました。
「いかされている このいのち」「ともいき」「おかげさま,ありがとう」
「忘己利他」「一期一会」「諸行無常 諸法無我 一切皆苦 涅槃寂静」
「我昔所造語悪行 皆由無始貪瞋痴 従身口意之所生 一切我今皆懺悔」
親鸞聖人は,自らのことを「愛欲の広海に沈没し 名利の大山に迷惑する 煩悩具足の凡夫 愚禿鸞」などと,自己反省されておられます。小生の如き無知蒙昧の輩はもっともっと頭を低くして猛省しなくちゃ,と思う今日この頃です。
三浦 敏正(千葉県柏市)
私は岩手県の現・奥州市出身で,現在,下総柏市に在住する古希超えの隠居です。
私の少年時代は,同級生の50%は中学卒業と同時に金の卵と言われながら就職列車に乗って東京へ向かい,高校進学者の80%(全体の40%)は就職し,大学へ進学する者は全体の10%程度という,ようやく戦後を脱する時期にあたります。
私は,中学1年の時に父母が離婚し,以後,父との音信が途絶えたため母一人子一人の赤貧の母子家庭で育ち,育英会奨学金と家庭教師などのアルバイトを続け,何とか地域の進学高校を卒業できました。高校3年の進路決定に際しては,親からの仕送りゼロでの大学進学は経済的に無理かと,内心諦めかけておりましたところ,幸運にも友人のご両親様から,学資の一部を貸与するので進学したらとのご厚情を頂戴,奮起して東北大学法学部に合格。学資貸与金,育英会奨学金と種々のアルバイト収入によりギリギリの条件下で何とか卒業できました。そんな環境の中では余裕もなく中学から大学卒業まで修学旅行というものに参加した経験は一切ありませんでした。
就職1年後には郷里から東京に母を引き取り同居し,後年,柏市に建てた持ち家にも住んでもらい,最期を看取ることもできました。従って親戚の紹介で家内と結婚する時は,申し訳ないが「家なし,カーなし,ばば付」の事前了解つきでした。
お世話になった学資貸与金と奨学金も8年間で完済できました。
大学4年間は割安な学生寮にお世話になりました。月々お借りする学資は生活費で消えるため,年2回の授業料や教科書等の書籍代,ささやかなリクレーション代はアルバイトで稼ぐ必要があり,種々の肉体労働や家庭教師等を重ねましたが,3・4年次の1年半程は稼ぎの良い洋酒バーの皿洗い兼バーテンダーを続けました。
4年次の秋,仙台バーテンダー協会の会長を名乗る人物が客として店に訪れ,卒業したら学士バーテンダーとして東京の本部に推薦するので本格的なバーテンダー修行をする意思はないかと真剣に勧誘されたが,お断りした記憶が鮮明に残っております。
ご縁があれば,人生には思いがけない選択もあるものだと実感した次第です。
このような背景から,大学の講義に必要な書籍も揃えられず,まともに受講もしてこなかった付けがたまり,4年次の11月からは卒業単位取得のため,不眠不休で万巻の書籍を読み漁ることとなりました。卒業試験までの数ヶ月間は我が人生最大の勉学を重ね,ギリギリの最小限単位取得で卒業させていただきました。
この時の体験がトラウマとなってか,40代後半までは,仕事疲れで寝た時には,時折,大学を正規に卒業できず1年落第したのではないかと,うなされて目覚めることがありました。会社の超一流大学卒の優秀な先輩の中にも,同様の体験をして50代になってなお,時折夢を見てはうなされ続けているという人もおり,世の中には同じような仲間もいるものだと安堵した経験があります。
学生時代のもう一つの不可思議な体験をご紹介いたしましょう。あれは大学3年次のアルバイト帰りの夜半,大学本部の芝生の上で星空を仰いで休憩した時のことでした。友人達と比べ自分だけが何でこんなに苦しいのでしょうか,神様仏様,もう少し楽になるよう助けてくださいと手を合わせた時のことです。
この時,突然,星空から光線の束が次々と私の脊椎を貫くが如く降り注ぎました。そして,その遥か遠くの荘厳な宮殿には,微笑みながら手招きしておわす聖人のお姿が見え,何とも表現できない,うっとりとした安楽な救われた気分にさせていただきました。あの当時は『善の研究』『出家とその弟子』『歎異抄』等を耽読していた時期なのでその影響もあったのでしょうが,自分中心の人生の価値尺度を180度変える,いわゆる「コペルニクス的転回」を体験しました。
将来,会社人生を引退し暇になったら,あの時の不可思議な体験は一体何であったのかを探求する日々を送ろうと決心した次第です。そういう訳で,今では次のような先哲の言葉が素直に口から出せるようになりました。
「いかされている このいのち」「ともいき」「おかげさま,ありがとう」
「忘己利他」「一期一会」「諸行無常 諸法無我 一切皆苦 涅槃寂静」
「我昔所造語悪行 皆由無始貪瞋痴 従身口意之所生 一切我今皆懺悔」
親鸞聖人は,自らのことを「愛欲の広海に沈没し 名利の大山に迷惑する 煩悩具足の凡夫 愚禿鸞」などと,自己反省されておられます。小生の如き無知蒙昧の輩はもっともっと頭を低くして猛省しなくちゃ,と思う今日この頃です。
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