有限会社 三九出版 - 初めての涙の種類


















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☆東日本大震災私は忘れない 
             初めての涙の種類 

             渡辺 生子(宮城県南栗原市) 

 2011年3月11日,その日私は東京の某市の図書館で勤務していた。 大きな揺れで,とにかく利用者の安全を確保するというマニュアル通りの行動を実践に移していた。その後の惨状を知るのは夕方自宅に帰ってからになる。
 以前より東北地方の自然と歴史の大きさに憬れを抱き,小さな小屋を宮城県栗原市に建て,幾度となく足を運んでいた。そして釣りが大好きな夫は南三陸の志津川へしばしば遊びに行っていた。ある時は子供を連れて栗駒山へ,ある時は田野畑へと。休日のほとんどの時間を使って東北を訪れた。そんなことからこの大震災はじっとしていられなかった。何かをせねば,強い意思が私を突き動かした。そしてこの二日後には某市のある中央線の駅頭でカンパの呼びかけに立った。驚いたことに小さなカンパ箱はすぐに紙幣で埋め尽くされ,ほんの数時間で数十万円という金額が託された。財布ごと入れる人,わざわざ自宅まで取りに帰って,数万円を入れてくれた人。こんなに大勢の人が何かをしなければという思いに駆られていたことを知った。このカンパは即市役所を通して東北へ届けることができた。そして私たちが現地を訪れるのは,2011年4月道路が開通した連休近くなってからである。波打つ高速道路をいつもの倍ほどの時間をかけて,ガソリンを携行しての通行だった。
 初めての涙の種類……。南三陸志津川で車を降り立った時の,情景を忘れることができない。涙が勝手に目から溢れ出した。これまでに経験したことがない涙だった。涙とは,悲しい,つらい,苦しいなどの感情が胸に刺さり,その思いが涙を作るものだと経験上思っていた。だがこの時はそうではなかった。感情が湧き上がる前に涙が独りでに出てくるのだ。まるで目そのものに感情があるのだといわんばかりに。こんな涙の種類があるということを知ったのは後にも先にも初めてだった。
 この日から休日ごとのボランティア活動を始めていった。気仙沼,石巻と通うこととなった。泥出し,片付け,支援物資の仕分けと配布,御用聞きとできることから始めた。中でも泥出しはつらい出来事を直接味わうことになった。溝の泥を掻き出している仲間が重い長靴を掘り上げてみると,中は泥ではなかった。どの瓦礫も泥もゴミではなかったのだ。そこにはさっきまであった生活そのもの,まさに生と死が同居しているのだ。ある時は子供がずっと向こうのほうを指して,あそこにある壊れたピアノを戻してほしいと言うので,重機などで引っ張り上げた。しかし,どこに置けばよいのだろう。その子の自宅は流されていた。
 支援物資の仕分けは大変な労力と時間を必要とした。多くは子供用の服と靴。男女別,サイズ別に仕分けし,集落ごとに持っていくのだが,実際にはほとんど子供のいない集落だったりして,現地を知らない私たちではどうにもならないことが多々あった。支援物資の中には,本当に数多くのいろいろなものが含まれていた。女性の化粧道具,これもさっきまで使用していたと思われる口紅などがあり,私は何でこんなものを送ってくるのか理解に苦しむものの一つであった。だがその答えは後日被災者との会話の中にあった。「市から楽天球場への招待状が届いたが,着るものも普段着がやっと,化粧しようにも道具がない。」と言っていたのを耳にした。日数が経つほど,ちょっとおしゃれしてお出かけしてみたいという要求が起こる。支援に必要なものも日に日に変わっていく。そして送ってくる人の気持ちもきっと,自分が普通にしているそんな事も出来ていない現実を想像してのことだったのかと思うと自分の浅はかさを感じた。同時にもっと多くの人の力の必要性を感じた私たちは,栗原市にある家をボランティアセンターとして利用してもらうことにした。東京ではたくさんの人がボランティアに行こうとしていたが,現地には泊まるところも無い、水も食料も,ガソリンも無い。一足先に定年になっていた夫は全面的に栗原市の家に常駐して,ボランティアの受け入れ,送り出しを始めることにした。毎日何十個ものおにぎりを作り,水を持たせての送り出し。我が家から被災地までは往復3時間かかる。半年間に約400名のボランティアが東京からやってきて我が家に泊っていった。その中で私たちはいろんな人と出会い,たくさんの善意を学ぶ機会となった。ボランティアから帰ってきた20代の若者の中に,ショックで嘔吐していた女性がいた。その女性は彫刻家で後日,生と死の境界線の作品を生み高い評価を与えられていると聞いている。
私たち人間には生きようとする力が与えられている。自分だけでなくみんなとなら生きていける。あの時の涙は,私だけではなく,どんな人も流した涙だった。あれから間もなく8年となる。わが国にはこれから先も大きな災害がやってくる。そのための防災も進んでいる。でも人は人のつながりの中でこそ,人としての役割を発揮できる。人はいろんなシーンで涙を流す。その涙を私は決して忘れない。 
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