☆ふるさと紹 介
大義に殉じた水戸天狗党
廣澤 千秋(茨城県取手市)
ふるさとの山は懐かし母の背に 昔ながめし野火のもゆるも
高田保馬
戦前の経済学者で歌人でもあった高田保馬博士の歌である。博士は九州・佐賀平野で幼少期を過ごしたとされる。夕暮れ時の美しい農村の風景は母の想い出と重なり,生涯忘れられない郷愁を誘ったのだろう。ふるさとという言葉には傷ついた心を優しく癒してくれる温かさと懐かしさが交錯する響きがある。
私は太平洋戦争(1941年)が始まる直前に東京で生まれた。戦火が激しさを増し,浦和(さいたま市)盛岡へと疎開を余儀なくされた。幼い日の記憶は断片的だ。
東京では看護婦さんに抱かれて病院の2階の窓から兵士の行軍する姿を見ている。
浦和では時折,戦車が走り,夜空に敵機を探すサーチライト(探照灯と称した)の光の帯が幾筋も交差していた。最後の盛岡郊外の雫石町では黄金色に染まった稲田が一面に広がっていた。冒頭の高田博士の歌をほうふつさせるものがあった。もの心がついたころは戦争も終結し,水戸で暮らしていた。家のすぐ近くには旧制水戸高等学校の広大な跡地があった。空襲で屋根が抜け落ち,赤茶けた鉄骨を残すのみとなった大講堂が無残な姿をさらし,戦争の傷跡を残していた。
「あなたのふるさとは?」と問われれば,青春時代を過ごした水戸と答えるのがふさわしいようだ。この街の歴史を中心にあらましを語ろうと思う。水戸は都心から北東へ100キロ余の地点に位置する茨城県の県庁所在地である。JR常磐線と国道6号が街を南北に貫いている。徳川御三家35万石の城下町として栄えてきた。徳川幕府がこの地に御三家を置いたのは地政学的に東北の雄,伊達藩(仙台)を牽制する意図もあったのだろう。市内には日本三名園のひとつである偕楽園や藩校の弘道館がある。いずれも9代藩主徳川斉昭の時代に造られている。弘道館では斉昭の七男で最後の将軍となった徳川慶喜も幼少期にここで学んでいる。聡明であったと伝えられる。
茨城県人の気質を語る場合,昔から言われてきたのが水戸の三ぽいである。「骨っぽい」「怒りっぽい」「理屈っぽい」の三ぽいである。果たして,人の交流・移動の激しい今もこうしたキャラクターが受け継がれているのだろうか?
水戸藩を代表するヒーローは,2代藩主徳川光圀である。水戸黄門として古くから講談・映画,テレビドラマなどで取り上げられてきた。「大日本史」を編纂し,皇室を貴ぶ尊王思想を基本とする「水戸学」を興した。幕末に至り,9代藩主斉昭の時代になると夷狄(いてき=外国)からの侵略という危機意識が高まる。尊王と攘夷が結び付き後期水戸学は現実味を帯び,指導理念として政治運動化してゆく。藤田東湖,会沢正志斎らの儒学者が志士たちの信望を集め,吉田松陰も水戸を訪れている。水戸は尊王攘夷の総本山として,存在感を高めて行った。
桜田門外の変の詳細は割愛し,エピソードを記すに留めたい。安政7年(1860年)江戸・桜田門外で登城中の井伊直弼の行列を水戸脱藩の浪士17名と薩摩藩士1名が襲撃し,大老を暗殺した事件である。井伊が断行した安政の大獄への反発が招いたものだった。これが水戸藩と彦根藩の関係悪化を決定的なものとした。維新が成立し世の中が一変しても両者間の和解とはならなかった。大正時代(1912年~1926年)に東京の有名劇場でこの事件をテーマとした芝居を上演した。水戸と彦根との間に不穏な空気が漂ったという。半世紀余の時間が過ぎても胸にわだかまりを持ち続けていた人たちが存命していたのだ。私が高校生のころ,教育学の碩学で,海後宗臣(かいご・ときおみ)という人がいた。東京大学教授として著名人であった。この人は桜田事変に加わった17名の水戸浪士の一人,海後磋磯之介(さきのすけ)のお孫さんだというのが専らの噂だった。事実らしかった。これを聞いた私は,歴史を揺るがした大事件もそんなに遠い日の出来事ではなかったのだ,との思いを深くした。
事件から160年近い歳月が流れ,今の両市の関係はどうであろうか? 長年の恩讐を超えて明治100年に当たる昭和43年(1968年),両市は親善都市の契約を結び,友好関係を築いて現在に至っている。彦根から贈られた白鳥が水戸の仙波湖でゆったりと泳ぎ,水戸の梅の苗木が彦根の大地に根付き,美しい花を咲かせている。
水戸藩は天狗党の乱など藩内の内部抗争により人材を失い,維新の夜明けに新政府で活躍する要人の姿を見なかった。尊王攘夷を旗印に千余名の隊を組み,京都の徳川慶喜をよすがに,粛然と信濃,美濃路を進んだ末,越前・敦賀の地に散った水戸天狗党の末路は哀切である。高い志を抱きながら,時代の波に翻弄され,大義に殉じたのである。
大義に殉じた水戸天狗党
廣澤 千秋(茨城県取手市)
ふるさとの山は懐かし母の背に 昔ながめし野火のもゆるも
高田保馬
戦前の経済学者で歌人でもあった高田保馬博士の歌である。博士は九州・佐賀平野で幼少期を過ごしたとされる。夕暮れ時の美しい農村の風景は母の想い出と重なり,生涯忘れられない郷愁を誘ったのだろう。ふるさとという言葉には傷ついた心を優しく癒してくれる温かさと懐かしさが交錯する響きがある。
私は太平洋戦争(1941年)が始まる直前に東京で生まれた。戦火が激しさを増し,浦和(さいたま市)盛岡へと疎開を余儀なくされた。幼い日の記憶は断片的だ。
東京では看護婦さんに抱かれて病院の2階の窓から兵士の行軍する姿を見ている。
浦和では時折,戦車が走り,夜空に敵機を探すサーチライト(探照灯と称した)の光の帯が幾筋も交差していた。最後の盛岡郊外の雫石町では黄金色に染まった稲田が一面に広がっていた。冒頭の高田博士の歌をほうふつさせるものがあった。もの心がついたころは戦争も終結し,水戸で暮らしていた。家のすぐ近くには旧制水戸高等学校の広大な跡地があった。空襲で屋根が抜け落ち,赤茶けた鉄骨を残すのみとなった大講堂が無残な姿をさらし,戦争の傷跡を残していた。
「あなたのふるさとは?」と問われれば,青春時代を過ごした水戸と答えるのがふさわしいようだ。この街の歴史を中心にあらましを語ろうと思う。水戸は都心から北東へ100キロ余の地点に位置する茨城県の県庁所在地である。JR常磐線と国道6号が街を南北に貫いている。徳川御三家35万石の城下町として栄えてきた。徳川幕府がこの地に御三家を置いたのは地政学的に東北の雄,伊達藩(仙台)を牽制する意図もあったのだろう。市内には日本三名園のひとつである偕楽園や藩校の弘道館がある。いずれも9代藩主徳川斉昭の時代に造られている。弘道館では斉昭の七男で最後の将軍となった徳川慶喜も幼少期にここで学んでいる。聡明であったと伝えられる。
茨城県人の気質を語る場合,昔から言われてきたのが水戸の三ぽいである。「骨っぽい」「怒りっぽい」「理屈っぽい」の三ぽいである。果たして,人の交流・移動の激しい今もこうしたキャラクターが受け継がれているのだろうか?
水戸藩を代表するヒーローは,2代藩主徳川光圀である。水戸黄門として古くから講談・映画,テレビドラマなどで取り上げられてきた。「大日本史」を編纂し,皇室を貴ぶ尊王思想を基本とする「水戸学」を興した。幕末に至り,9代藩主斉昭の時代になると夷狄(いてき=外国)からの侵略という危機意識が高まる。尊王と攘夷が結び付き後期水戸学は現実味を帯び,指導理念として政治運動化してゆく。藤田東湖,会沢正志斎らの儒学者が志士たちの信望を集め,吉田松陰も水戸を訪れている。水戸は尊王攘夷の総本山として,存在感を高めて行った。
桜田門外の変の詳細は割愛し,エピソードを記すに留めたい。安政7年(1860年)江戸・桜田門外で登城中の井伊直弼の行列を水戸脱藩の浪士17名と薩摩藩士1名が襲撃し,大老を暗殺した事件である。井伊が断行した安政の大獄への反発が招いたものだった。これが水戸藩と彦根藩の関係悪化を決定的なものとした。維新が成立し世の中が一変しても両者間の和解とはならなかった。大正時代(1912年~1926年)に東京の有名劇場でこの事件をテーマとした芝居を上演した。水戸と彦根との間に不穏な空気が漂ったという。半世紀余の時間が過ぎても胸にわだかまりを持ち続けていた人たちが存命していたのだ。私が高校生のころ,教育学の碩学で,海後宗臣(かいご・ときおみ)という人がいた。東京大学教授として著名人であった。この人は桜田事変に加わった17名の水戸浪士の一人,海後磋磯之介(さきのすけ)のお孫さんだというのが専らの噂だった。事実らしかった。これを聞いた私は,歴史を揺るがした大事件もそんなに遠い日の出来事ではなかったのだ,との思いを深くした。
事件から160年近い歳月が流れ,今の両市の関係はどうであろうか? 長年の恩讐を超えて明治100年に当たる昭和43年(1968年),両市は親善都市の契約を結び,友好関係を築いて現在に至っている。彦根から贈られた白鳥が水戸の仙波湖でゆったりと泳ぎ,水戸の梅の苗木が彦根の大地に根付き,美しい花を咲かせている。
水戸藩は天狗党の乱など藩内の内部抗争により人材を失い,維新の夜明けに新政府で活躍する要人の姿を見なかった。尊王攘夷を旗印に千余名の隊を組み,京都の徳川慶喜をよすがに,粛然と信濃,美濃路を進んだ末,越前・敦賀の地に散った水戸天狗党の末路は哀切である。高い志を抱きながら,時代の波に翻弄され,大義に殉じたのである。
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