伝えることの難しさ
岡本 崇(京都府木津川市)
記録に残る日本最初の震災記録は,599年(飛鳥時代)の推古地震でM7。これは,私の故郷,大和国の地震だとされるが,震央は分からず規模の根拠も不明らしい。
「地震 雷 火事 台風」と云われるが,その後の千数百年間にあった大災害が,どの程度伝承されたであろうか。私が体験し,記憶に残っているのは昭和南海地震(S21年 M8 死者1300人強)と,伊勢湾台風(S34年 死者5000人強)ぐらいである。自分が恐ろしい体験をしない限り,忘れるし,世代が代われば忘れられる。
2011年3月11日に発生した東日本大震災は,宮城県沖130㎞を震源とする。M9で,日本周辺における観測史上最大の地震となった。死者・行方不明者は約1万9000人とされ,福島第一原子力発電所の放射性物質が漏れだす深刻な災害も加わって,戦後日本最悪の大震災だ。資本ストックの被害額は16兆円以上とも云われる。
東北3県では浸水高が10mを超え,最大遡上高は明治29年三陸沖地震を上回る観測史上最大の40メートルとか。震源地から遠く離れた千葉県浦安市でも市域の4分の3で液状化が起き,家屋の傾斜や断水,路面の地割れなどの被害が出た。
一方,将来想定される南海トラフ大地震被害は,死者32万人以上で,経済被害は最悪220兆円という説もある。このことを真剣に考えている人は何人いるだろうか。今朝も,北海道でM6.7の大地震があったが,被災地から少し離れた所に住む人達は,数年経つと被災地への記憶は薄れ,原発事故の反省も無くなって行くであろう。
千葉県と云えば,学友達も多く住むが,我が祖,千葉一族の発祥の地であり,一族の末裔は東日本に多い。織物の産地,福島県川俣町は放射線物質の被害を受けたが,川俣町の方々とは団体で海外視察旅行をした思い出があるので他人事ではない。
過去の経験を伝えて災害を少しでも抑える為には,過去の震災をどのように伝えて行くかを皆で話し合う事が大切。過去に津波が来た地点を石碑に書いてあったが,文字も読みづらく,風景に溶け込んでいて誰も認識していなかったという事例もあった。その為に,すぐ腐る木の表示に変えて,数年毎に建て替えて忘れない様にしようという試みもある。「東松島の復興を支える“おのくん”人形。あなたも1000円で里親になってみませんか」という試みもある。SNSメッセージや,東日本震災アーカイブと云うHP作成もなされてはいる。防災意識を根付かせる為には,継続的な努力が大切。大災害の経験をいつまでも子孫に伝えて行く事が,次の被害を防止し軽減する最大の力となる。その土地が本来持っている災害危険性や脆弱性も熟知して対策を取る必要がある。積極的な「知らせる努力」と,地域住民の「知る努力」の継続が大切。
五条市西吉野町の私の祖は,銀峯山と竜王山の間の尾根の,西の峠(海抜560m)に住んで西を名乗って居た。神功皇后が夜中と命名した地域に海神神社を祀って居た。江戸時代に,西新子(海抜320m)まで降りて来たが,今でも夜中と西新子の住民でお祀りしている。西と云う名前は,和歌山県や鹿児島県に多い名前であるが,海岸沿いに住んでいた先祖が,大震災に懲りて,伊勢~和歌山と熊野~飛鳥を結ぶ間道の交点の西の峠へ居を移したのであろう。ところが,明治28年に,私の祖父が大東市諸富の寝屋川沿いにある大東家(海抜3m)へ養子に入った。縄文時代前期は生駒山の麓まで河内湾だった。弥生時代には河内湖へと変貌し集落がつくられ,江戸時代に治水と新田開発が行われた。昭和初期までは,野崎参りの屋形舟が行き交うような雰囲気が残っており,菜の花畑もあったが河川の氾濫が絶えなかった。千葉一族の大東家の菩提寺の勝福寺にあった,多くの羅漢も流されるほどの水害があった。
昭和51年の水害では,流域の大東市内の広範囲にわたって浸水した47年の洪水で,川幅拡張等の改修工事が進められていた矢先に未改修の支流の狭い区間で溢水した。この時,住民たちが最高裁まで訴え,敗訴したのが有名な「大東水害訴訟」。その結果,最近の寝屋川は高いコンクリート擁壁が聳え立っており,水害は無くなった。
昔は,川沿いは危険なので山の尾根伝いを旅したが,今では川沿いに道が出来,人が住んでいる。先祖が災害に懲りて,海抜560mに転居したのに,海抜320mへ,そして湖跡の海抜3mに住んでしまう。一昨日の台風21号では,関西国際空港が水浸
しになったが,福島原発電事故と重なって見える。災害想定の甘さが酷過ぎる。
阪神大震災以来9・7・5・2年と震度7級の地震の間隔が短くなり憶えきれない。人々の記憶は時が経つにつれて薄れて行き,大きな歴史的な出来事であっても風化してしまう。これを踏まえて,私達は,過去の歴史を正しく伝えると共に,工夫を凝らして,繰り返して後世に語り継ぐ責務がある。私は今,古文書教室で学びながら,隠れた歴史を見つけ,伝えて行く事に生甲斐を感じている。(2018年9月6日記す)
岡本 崇(京都府木津川市)
記録に残る日本最初の震災記録は,599年(飛鳥時代)の推古地震でM7。これは,私の故郷,大和国の地震だとされるが,震央は分からず規模の根拠も不明らしい。
「地震 雷 火事 台風」と云われるが,その後の千数百年間にあった大災害が,どの程度伝承されたであろうか。私が体験し,記憶に残っているのは昭和南海地震(S21年 M8 死者1300人強)と,伊勢湾台風(S34年 死者5000人強)ぐらいである。自分が恐ろしい体験をしない限り,忘れるし,世代が代われば忘れられる。
2011年3月11日に発生した東日本大震災は,宮城県沖130㎞を震源とする。M9で,日本周辺における観測史上最大の地震となった。死者・行方不明者は約1万9000人とされ,福島第一原子力発電所の放射性物質が漏れだす深刻な災害も加わって,戦後日本最悪の大震災だ。資本ストックの被害額は16兆円以上とも云われる。
東北3県では浸水高が10mを超え,最大遡上高は明治29年三陸沖地震を上回る観測史上最大の40メートルとか。震源地から遠く離れた千葉県浦安市でも市域の4分の3で液状化が起き,家屋の傾斜や断水,路面の地割れなどの被害が出た。
一方,将来想定される南海トラフ大地震被害は,死者32万人以上で,経済被害は最悪220兆円という説もある。このことを真剣に考えている人は何人いるだろうか。今朝も,北海道でM6.7の大地震があったが,被災地から少し離れた所に住む人達は,数年経つと被災地への記憶は薄れ,原発事故の反省も無くなって行くであろう。
千葉県と云えば,学友達も多く住むが,我が祖,千葉一族の発祥の地であり,一族の末裔は東日本に多い。織物の産地,福島県川俣町は放射線物質の被害を受けたが,川俣町の方々とは団体で海外視察旅行をした思い出があるので他人事ではない。
過去の経験を伝えて災害を少しでも抑える為には,過去の震災をどのように伝えて行くかを皆で話し合う事が大切。過去に津波が来た地点を石碑に書いてあったが,文字も読みづらく,風景に溶け込んでいて誰も認識していなかったという事例もあった。その為に,すぐ腐る木の表示に変えて,数年毎に建て替えて忘れない様にしようという試みもある。「東松島の復興を支える“おのくん”人形。あなたも1000円で里親になってみませんか」という試みもある。SNSメッセージや,東日本震災アーカイブと云うHP作成もなされてはいる。防災意識を根付かせる為には,継続的な努力が大切。大災害の経験をいつまでも子孫に伝えて行く事が,次の被害を防止し軽減する最大の力となる。その土地が本来持っている災害危険性や脆弱性も熟知して対策を取る必要がある。積極的な「知らせる努力」と,地域住民の「知る努力」の継続が大切。
五条市西吉野町の私の祖は,銀峯山と竜王山の間の尾根の,西の峠(海抜560m)に住んで西を名乗って居た。神功皇后が夜中と命名した地域に海神神社を祀って居た。江戸時代に,西新子(海抜320m)まで降りて来たが,今でも夜中と西新子の住民でお祀りしている。西と云う名前は,和歌山県や鹿児島県に多い名前であるが,海岸沿いに住んでいた先祖が,大震災に懲りて,伊勢~和歌山と熊野~飛鳥を結ぶ間道の交点の西の峠へ居を移したのであろう。ところが,明治28年に,私の祖父が大東市諸富の寝屋川沿いにある大東家(海抜3m)へ養子に入った。縄文時代前期は生駒山の麓まで河内湾だった。弥生時代には河内湖へと変貌し集落がつくられ,江戸時代に治水と新田開発が行われた。昭和初期までは,野崎参りの屋形舟が行き交うような雰囲気が残っており,菜の花畑もあったが河川の氾濫が絶えなかった。千葉一族の大東家の菩提寺の勝福寺にあった,多くの羅漢も流されるほどの水害があった。
昭和51年の水害では,流域の大東市内の広範囲にわたって浸水した47年の洪水で,川幅拡張等の改修工事が進められていた矢先に未改修の支流の狭い区間で溢水した。この時,住民たちが最高裁まで訴え,敗訴したのが有名な「大東水害訴訟」。その結果,最近の寝屋川は高いコンクリート擁壁が聳え立っており,水害は無くなった。
昔は,川沿いは危険なので山の尾根伝いを旅したが,今では川沿いに道が出来,人が住んでいる。先祖が災害に懲りて,海抜560mに転居したのに,海抜320mへ,そして湖跡の海抜3mに住んでしまう。一昨日の台風21号では,関西国際空港が水浸
しになったが,福島原発電事故と重なって見える。災害想定の甘さが酷過ぎる。
阪神大震災以来9・7・5・2年と震度7級の地震の間隔が短くなり憶えきれない。人々の記憶は時が経つにつれて薄れて行き,大きな歴史的な出来事であっても風化してしまう。これを踏まえて,私達は,過去の歴史を正しく伝えると共に,工夫を凝らして,繰り返して後世に語り継ぐ責務がある。私は今,古文書教室で学びながら,隠れた歴史を見つけ,伝えて行く事に生甲斐を感じている。(2018年9月6日記す)
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