☆《自由広場》
「日本語」って不思議な言葉ですね!(その7)
松井 洋治(東京都府中市)
「私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」…いきなり「寅さんの口上」で驚かれたかもしれないが,当「本物語」の読者の多く,いや殆どが,私同様「昭和に生まれ,育ち,生き,そして平成どころか,令和になっても,まだ頑張っている方々」に違いない。
先日,「平成」が終わるに当たり,友人と飲みながら「昭和・平成を通じて,“邦画”(日本映画のこと。今や死語か)のトップ俳優は誰だろう?」という話になった。彼は迷わず「石原裕次郎」を挙げ,私は一瞬「三船(敏郎)」と言いかけたが,口をついて出たのは,やはり「渥美清」であった。
当コラムも新時代「令和」を迎えた記念の今回(その7)は,私が敬愛してやまずに,「これぞ日本語!」と思い,長年書き溜めた「寅さん語録」(山田洋次監督の脚本)を取り上げることをお許し願いたいと同時に,是非、笑いながらお読みいただきたい。
決して上品ではないし,本当は最後に書くべきかもしれないが,私が最も好きで,何度も使わせていただいた言葉は「俺とお前は違うに決まってるじゃねぇか。早ぇ話が、お前がイモ食って俺のケツから屁がでるか?」である。これほど端的に「夫婦は一心同体」などという道徳的教え(?)を,せせら笑った言葉はない。渥美清が子供の頃から上野や浅草で見聞きした「テキ屋の啖呵売の名調子」を覚えていることを知った山田監督が,「これぞ、残すべき日本語!」と思って,寅さんのイメージを固めたらしい。(「テキ屋,啖呵売」これらの言葉も,「死語」として消えて行くのかなあ?)
「見上げたもんだよ屋根屋のフンドシ」,「けっこう毛だらけネコ灰だらけ」,そしてあの「モノの始まりが一(いち)なら国の始まりは大和の国、泥棒の始まりが石川五右衛門なら人殺しの始まりは熊坂の長範、スケベェの始まりは隣のオジサンってぇぐらいのものだ」は今でも覚えている。まだある。「インテリというのは、自分で考え過ぎますからね。このテレビの裏っ方で言いますと、配線がガチャガチャに込み入っている訳なんですよね。ええ、私なんか線が一本だけですから、まぁ、いってみりゃ空っぽといいますか、たたけばコーンと澄んだ音がしますよ」とか,「日光、ケッコ
ウ、東照宮。三で死んだか三島のお六。お千ばかりが女子(おなご)じゃないよ。四谷、赤坂、麹町、チャラチャラ流れるお茶の水。イキな姐(ねえ)ちゃん立ちションベン」
などなど。これ以上書くと,自称上品な読者やインテリは,本気で怒り始めるかもしれないので,少し軌道修正しよう。
渥美清(本名:田所康雄さん)は1996年(平成8年)8月4日,転移性肺ガンで,68歳で亡くなったが,遺言により家族だけで密葬を済ませた後に,初めて公表された。そして,8月13日に鎌倉の松竹大船撮影所で「渥美清さんとお別れする会」が開かれ,手元の当時の新聞によれば,早朝から4万人を超える熱烈なファンらが詰めかけたという。その会での弔辞を紹介しよう。「何百回、何千回、おにいちゃんって呼んだか分からない。おにいちゃんに会えたこと、ほんとによかったと思ってる。おにいちゃん、ありがとう」(妹さくらの倍賞千恵子さん),「僕のスタッフはあなたに会えて幸せでした。27年間、本当にありがとう」(山田洋次監督)など,こうして書きながらも泣けてくる。
48作までも続いた「男はつらいよ」シリーズは「16歳で家出をした後,旅暮らしのテキ屋稼業の寅さんが,ふらりと故郷柴又のだんご屋に戻り,妹のさくら,おいちゃん,おばちゃんらに温かく迎えられる一方,旅先では,マドンナ役の女性に一目惚れして騒ぎを起こす」という毎度おなじみパターンの人情喜劇だが,それがなぜ48作までも続いたのであろうか? 確かに「寅さんの勝手気ままな旅をする自由人への憧れ」は,見逃せないが,私は,落語大好き人間で,我田引水かもしれないが,「男はつらいよ」の根底には,長年庶民に愛されてきた伝統芸「落語」の世界があったからだと思っている。
だんご屋一家に「古きよき日本の家族」を思い出し,そして,何といっても「あの歯切れのいい,懐かしい日本語(のセリフ)を,よどみなく聞かせる渥美さんの名人芸」こそが,全ての作品に共通していると思えてならない。山田洋次監督の言葉(彼の著書より)を借りれば「人間をリアルに描いた時に起きる共感の喜びのようなもの」であるに違いない。亡くなられた後,ご遺族の同意が得られたからと,9月3日に渥美清(田所康雄)さんは「国民栄誉賞」を受賞されたが,もしご存命中だったら「あっしゃあ、そんなもの似合わねぇよ。貰うなら日本語を大事にしながら、あっしに喋らせてくれた山田監督でしょう」と言った気がする。
「日本語」って不思議な言葉ですね!(その7)
松井 洋治(東京都府中市)
「私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」…いきなり「寅さんの口上」で驚かれたかもしれないが,当「本物語」の読者の多く,いや殆どが,私同様「昭和に生まれ,育ち,生き,そして平成どころか,令和になっても,まだ頑張っている方々」に違いない。
先日,「平成」が終わるに当たり,友人と飲みながら「昭和・平成を通じて,“邦画”(日本映画のこと。今や死語か)のトップ俳優は誰だろう?」という話になった。彼は迷わず「石原裕次郎」を挙げ,私は一瞬「三船(敏郎)」と言いかけたが,口をついて出たのは,やはり「渥美清」であった。
当コラムも新時代「令和」を迎えた記念の今回(その7)は,私が敬愛してやまずに,「これぞ日本語!」と思い,長年書き溜めた「寅さん語録」(山田洋次監督の脚本)を取り上げることをお許し願いたいと同時に,是非、笑いながらお読みいただきたい。
決して上品ではないし,本当は最後に書くべきかもしれないが,私が最も好きで,何度も使わせていただいた言葉は「俺とお前は違うに決まってるじゃねぇか。早ぇ話が、お前がイモ食って俺のケツから屁がでるか?」である。これほど端的に「夫婦は一心同体」などという道徳的教え(?)を,せせら笑った言葉はない。渥美清が子供の頃から上野や浅草で見聞きした「テキ屋の啖呵売の名調子」を覚えていることを知った山田監督が,「これぞ、残すべき日本語!」と思って,寅さんのイメージを固めたらしい。(「テキ屋,啖呵売」これらの言葉も,「死語」として消えて行くのかなあ?)
「見上げたもんだよ屋根屋のフンドシ」,「けっこう毛だらけネコ灰だらけ」,そしてあの「モノの始まりが一(いち)なら国の始まりは大和の国、泥棒の始まりが石川五右衛門なら人殺しの始まりは熊坂の長範、スケベェの始まりは隣のオジサンってぇぐらいのものだ」は今でも覚えている。まだある。「インテリというのは、自分で考え過ぎますからね。このテレビの裏っ方で言いますと、配線がガチャガチャに込み入っている訳なんですよね。ええ、私なんか線が一本だけですから、まぁ、いってみりゃ空っぽといいますか、たたけばコーンと澄んだ音がしますよ」とか,「日光、ケッコ
ウ、東照宮。三で死んだか三島のお六。お千ばかりが女子(おなご)じゃないよ。四谷、赤坂、麹町、チャラチャラ流れるお茶の水。イキな姐(ねえ)ちゃん立ちションベン」
などなど。これ以上書くと,自称上品な読者やインテリは,本気で怒り始めるかもしれないので,少し軌道修正しよう。
渥美清(本名:田所康雄さん)は1996年(平成8年)8月4日,転移性肺ガンで,68歳で亡くなったが,遺言により家族だけで密葬を済ませた後に,初めて公表された。そして,8月13日に鎌倉の松竹大船撮影所で「渥美清さんとお別れする会」が開かれ,手元の当時の新聞によれば,早朝から4万人を超える熱烈なファンらが詰めかけたという。その会での弔辞を紹介しよう。「何百回、何千回、おにいちゃんって呼んだか分からない。おにいちゃんに会えたこと、ほんとによかったと思ってる。おにいちゃん、ありがとう」(妹さくらの倍賞千恵子さん),「僕のスタッフはあなたに会えて幸せでした。27年間、本当にありがとう」(山田洋次監督)など,こうして書きながらも泣けてくる。
48作までも続いた「男はつらいよ」シリーズは「16歳で家出をした後,旅暮らしのテキ屋稼業の寅さんが,ふらりと故郷柴又のだんご屋に戻り,妹のさくら,おいちゃん,おばちゃんらに温かく迎えられる一方,旅先では,マドンナ役の女性に一目惚れして騒ぎを起こす」という毎度おなじみパターンの人情喜劇だが,それがなぜ48作までも続いたのであろうか? 確かに「寅さんの勝手気ままな旅をする自由人への憧れ」は,見逃せないが,私は,落語大好き人間で,我田引水かもしれないが,「男はつらいよ」の根底には,長年庶民に愛されてきた伝統芸「落語」の世界があったからだと思っている。
だんご屋一家に「古きよき日本の家族」を思い出し,そして,何といっても「あの歯切れのいい,懐かしい日本語(のセリフ)を,よどみなく聞かせる渥美さんの名人芸」こそが,全ての作品に共通していると思えてならない。山田洋次監督の言葉(彼の著書より)を借りれば「人間をリアルに描いた時に起きる共感の喜びのようなもの」であるに違いない。亡くなられた後,ご遺族の同意が得られたからと,9月3日に渥美清(田所康雄)さんは「国民栄誉賞」を受賞されたが,もしご存命中だったら「あっしゃあ、そんなもの似合わねぇよ。貰うなら日本語を大事にしながら、あっしに喋らせてくれた山田監督でしょう」と言った気がする。
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