95歳元気の源〜皇居を走り続けた18年
福永 久子(東京都目黒区)
国立劇場を右手に,太陽の反射で水面がギラギラ光る皇居内堀を左眼下に見ながら800メートル程なだらかな坂を下るとゴールの桜田門がどんどん迫ってくる。真冬なのに額に薄(うっす)ら汗が滲み出た。初めて走る5.3キロを目前にして足は否応無しに前に伸びた。疲れは殆ど感じられない,この年になるまで経験したことのない壮快感を全身で味わいながら……。
昭和59年1月第一週目の日曜日,皇居一周「新春願掛けマラソン大会」に初参加したのは70歳の3日前でした。主催者は息子と孫がお世話になっている日比谷国際クリニックの医院長・鴨下一郎先生。参加者は50〜60名だったように記憶しています。出発前に鴨下先生から大会の主旨の説明と“一年の健康と抱負を念じて走ってください”というご挨拶があり,突然私に近づいてこられ,「失礼ですがお幾つですか」と尋ねられました。「あと3日で70歳になります。」と返事をしますと,「お婆ちゃん,無理はしないでください。しんどかったら歩いてもいいですよ。私も歩くことがあります。要は最後まで完走(歩)することです。」と優しく微笑んで激励してくださいました。
桜田門付近の広場をスタートして二重橋,馬場先門,大手門,竹橋,北の丸,千鳥が淵,半蔵門と時計の逆回りに走り,5.3キロを歩かずに走り続け無事ゴール出来ました。タイム・37分45秒,31位と書かれたカードをスタッフから渡され,先にゴールしていた鴨下先生がまだ荒い呼吸をしていた私を見つけ,カードを見るなり握手をしてくださいました。「完走お見事です。健康な限り続けてください。そして私と約束しましょう,目標は85歳まで頑張りましょう。」――この一言が私にどれだけ勇気と元気を与えてくれたことか。感動のあまり,先生の手を力一杯握り返しました。
大正3年1月9日,宮崎県小林市で7人兄弟の長女として生まれた私は,小学校1〜4年生の頃は背が低く(前から3人目),6年生〜中学にかけて急に成長し,身長が伸びたせいか,体の節々が痛み,医者の診断書(神経痛)をもらって体育の時間はほとんど欠席していました。
実家が小林市内で教科書と文具の一手販売をしていたこともあり,裕福な家庭で甘やかされて育てられたせいか,我が儘で偏食の私は菜食主体で,蛋白源は小魚と焼魚,少々の鶏肉のみでそれ以外は一切食べませんでした。女学校時代はそれが原因かどうか判りませんが,同年の女子生徒と比べて体力が劣っていたようです。
父が山林を数か所所有していた関係で,女学校在学中,父は弁当持ちで毎週山歩きに半ば強制的に連れていかされました。父は全く運動をしない娘を案じたのでしょう。「女はいずれ結婚し,子育てをしなくてはならないから何よりも大事なのは健康と体力だからな」と,厳しく叱るように言うのが口癖でした。以後そのお陰で人一倍丈夫になりました。戦前,戦中,終戦と食糧事情の最悪の最中(さなか),私は5人の子育てに奔走しました。あの時,父が嫌がる私を無理やり山歩きに引っ張っていかなければ,5人の子供を育てられなかったでしょう。
長女が結婚し,子供達がそれぞれ社会人になってやっと生活に余裕が出来るようになったのは60代の後半。子供のPTA仲間やご近所の方と体操やヨガスクール,ウォーキング等々,結婚後,家事以外で体を動かしたのは初めてでした。
70歳の誕生日を迎えた頃,たまたま早朝日課にしていた散歩の途中,目黒不動尊の境内で朝のNHKラジオ体操(6時30分より)があるのを知り,悪天候以外は毎日参加することにしました。自宅から目黒不動尊まで片道約1.5キロ強,出来る限り往復走るよう心がけました。初参加の皇居一周マラソン大会で鴨下先生に誓った85歳になるまで続け,さらに鴨下先生との約束を3年も超えることが出来ました。
鴨下先生は,平成5年に衆議院議員となられ平成14年に厚生労働副大臣に,同19年に環境大臣を務められ,医療・福祉・環境問題等に貢献されています。
平成14年,88歳になり体力の限界を悟り,先生の精神的支えがあったからこそ走れたことに感謝とお礼の挨拶をしたところ,「よく頑張りましたね」と手を握りしめてくださいました。鴨下先生の,最初にお会いした時と国会諷員になられた今も変わらないその姿勢に改めて心を打たれました。
現在週2日デーサービスに通っています。そこで毎回ウオーキングマシーンを使って歩行していますが,それが出来るのは18年間マラソンを続けたからでしょう。
〔談/口述筆記は福永邦昭(長男)〕
福永 久子(東京都目黒区)
国立劇場を右手に,太陽の反射で水面がギラギラ光る皇居内堀を左眼下に見ながら800メートル程なだらかな坂を下るとゴールの桜田門がどんどん迫ってくる。真冬なのに額に薄(うっす)ら汗が滲み出た。初めて走る5.3キロを目前にして足は否応無しに前に伸びた。疲れは殆ど感じられない,この年になるまで経験したことのない壮快感を全身で味わいながら……。
昭和59年1月第一週目の日曜日,皇居一周「新春願掛けマラソン大会」に初参加したのは70歳の3日前でした。主催者は息子と孫がお世話になっている日比谷国際クリニックの医院長・鴨下一郎先生。参加者は50〜60名だったように記憶しています。出発前に鴨下先生から大会の主旨の説明と“一年の健康と抱負を念じて走ってください”というご挨拶があり,突然私に近づいてこられ,「失礼ですがお幾つですか」と尋ねられました。「あと3日で70歳になります。」と返事をしますと,「お婆ちゃん,無理はしないでください。しんどかったら歩いてもいいですよ。私も歩くことがあります。要は最後まで完走(歩)することです。」と優しく微笑んで激励してくださいました。
桜田門付近の広場をスタートして二重橋,馬場先門,大手門,竹橋,北の丸,千鳥が淵,半蔵門と時計の逆回りに走り,5.3キロを歩かずに走り続け無事ゴール出来ました。タイム・37分45秒,31位と書かれたカードをスタッフから渡され,先にゴールしていた鴨下先生がまだ荒い呼吸をしていた私を見つけ,カードを見るなり握手をしてくださいました。「完走お見事です。健康な限り続けてください。そして私と約束しましょう,目標は85歳まで頑張りましょう。」――この一言が私にどれだけ勇気と元気を与えてくれたことか。感動のあまり,先生の手を力一杯握り返しました。
大正3年1月9日,宮崎県小林市で7人兄弟の長女として生まれた私は,小学校1〜4年生の頃は背が低く(前から3人目),6年生〜中学にかけて急に成長し,身長が伸びたせいか,体の節々が痛み,医者の診断書(神経痛)をもらって体育の時間はほとんど欠席していました。
実家が小林市内で教科書と文具の一手販売をしていたこともあり,裕福な家庭で甘やかされて育てられたせいか,我が儘で偏食の私は菜食主体で,蛋白源は小魚と焼魚,少々の鶏肉のみでそれ以外は一切食べませんでした。女学校時代はそれが原因かどうか判りませんが,同年の女子生徒と比べて体力が劣っていたようです。
父が山林を数か所所有していた関係で,女学校在学中,父は弁当持ちで毎週山歩きに半ば強制的に連れていかされました。父は全く運動をしない娘を案じたのでしょう。「女はいずれ結婚し,子育てをしなくてはならないから何よりも大事なのは健康と体力だからな」と,厳しく叱るように言うのが口癖でした。以後そのお陰で人一倍丈夫になりました。戦前,戦中,終戦と食糧事情の最悪の最中(さなか),私は5人の子育てに奔走しました。あの時,父が嫌がる私を無理やり山歩きに引っ張っていかなければ,5人の子供を育てられなかったでしょう。
長女が結婚し,子供達がそれぞれ社会人になってやっと生活に余裕が出来るようになったのは60代の後半。子供のPTA仲間やご近所の方と体操やヨガスクール,ウォーキング等々,結婚後,家事以外で体を動かしたのは初めてでした。
70歳の誕生日を迎えた頃,たまたま早朝日課にしていた散歩の途中,目黒不動尊の境内で朝のNHKラジオ体操(6時30分より)があるのを知り,悪天候以外は毎日参加することにしました。自宅から目黒不動尊まで片道約1.5キロ強,出来る限り往復走るよう心がけました。初参加の皇居一周マラソン大会で鴨下先生に誓った85歳になるまで続け,さらに鴨下先生との約束を3年も超えることが出来ました。
鴨下先生は,平成5年に衆議院議員となられ平成14年に厚生労働副大臣に,同19年に環境大臣を務められ,医療・福祉・環境問題等に貢献されています。
平成14年,88歳になり体力の限界を悟り,先生の精神的支えがあったからこそ走れたことに感謝とお礼の挨拶をしたところ,「よく頑張りましたね」と手を握りしめてくださいました。鴨下先生の,最初にお会いした時と国会諷員になられた今も変わらないその姿勢に改めて心を打たれました。
現在週2日デーサービスに通っています。そこで毎回ウオーキングマシーンを使って歩行していますが,それが出来るのは18年間マラソンを続けたからでしょう。
〔談/口述筆記は福永邦昭(長男)〕
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