☆東日本大震災私は忘れない
常々の備えを怠らずに
石黒 秀雄(宮城県仙台市)
2011年3月11日(金)午後2時46分,東日本大震災が発生しました。当時私は秋の合唱祭の練習のため,仲間と県北の大崎市にあるスタジオに入り,食後の休憩時間中でした。初めは,ゆらゆらと,次にぐらぐらと次第に大きくなり,約3分続きました。「スロー地震」と言われておるものです。立っているのは勿論座っていることもできません。しかし,今まで最初からガタガタと揺れるのは,被害が少なかったですし,スタジオの建物が耐震構造になっていることの確認は,以前からしておりましたのでそれほど驚きもしませんでした。ところが,揺れが止まり外を見ると周囲の瓦の家は六軒とも全壊し,電柱も折れたり,斜めになったりの惨状でした。舗装道路は殆んど亀裂が入り,通行不能の状態で,とてもこの世の景とは思われませんでした。余震も大きく数回続きました。ここは宮城県でも震度六弱と一番大きかったのですが,この建物は平屋作りであったので全員外に出なかったのが幸いしました。慌てて飛び出しておれば怪我人も出ておったと思われ,生きた心地はしませんでした。
この日は惨状の道路をかき分け,普通なら40分ぐらいしかかからないところを一時間半かけて仙台市の我が家にたどり着きました。しかし,崩れ落ちた什器で足の踏み場もない家の中,居るはずの病弱の家内はいませんでした。家の被害は思ったより少なかったのですが,中のガラス食器類は殆んど壊れていました。幸い家内は近所の人が車の中で暖をとらせてくださっておりました。ここの隣組は普段から助け合っておりましたが,これが絆となって,向こう十軒大隣の付き合いが,今も続いております。
実は,この震災前の2月中旬頃には,毎年,鶯の初音がありました。しかしあの年は,この時期はもとより3月に入ってからも,鶯どころかほかの鳥も来なかったのです。また,太陽の照り方も変に差すような感じでした。昔,我が家は北海道にて漁業をしていました。その頃の言い伝えに天候や動物の動作の異変があり,鳴き声がその季節になかった時は天に異変の兆しあり,と聞いておりました。しかし,迷信と思って普段は聞き流しておりましたが,天気予報等に,頻繁に地震,降雨情報が流れるので,その言い伝えを信じてみることにしました。そして非常食,明り物,水,卓上焜炉,ガソリンは満タン等々,野菜は家庭菜園のものを,約一か月生活できるように準
しました
それでも「天に異変がある」というのは半信半疑でありました。しかし,意外や意外,その時が来たのです。リハーサルの手順に従い行動開始しました。薄暗い家の中での作業は,慣れるまで大変でしたが,慣れるとキャンプに行ったようで,「また楽し」の気持ちも涌きました。 助かったのは, 冷蔵庫とは別個の大きめの冷凍庫でした。 暖かくなり始めた三月の中旬ということもあって,冷凍の役目を果たしてくれました。ここに趣味の海釣りでの魚を詰めました。また,水は,近くの山の普段は山菜採りをする場に行くとたまたま水が流れていましたのでそれも利用しました。外の倉庫に保管の携帯の子供用プールがあったので, それにその水を使って風呂の代用にしました。それは三日に一度の風呂でしたが楽しみの一つでありました。 こうした生活でしたが,終戦の頃を想えば我慢できましたし, 懐かしさも湧いてきた一時でした。
今年の六月に入り間もなく,私は震災地の海岸巡りをしました。震災から9年目を迎えたにもかかわらず,復興は蝸牛の感がしました。若者の戻る日はまだまだ先のようにも感じました。現地の釣友達も多数亡くなっていました。現地の方から「天気予報は信じておるが,地震予報はそれなりのところがあった」と聞きました。今後,予報が出たときは,仮に外れたとしても,これに従い,行動をとることを望みます。また,震災訓練の時も参加率が少ないようですので,積極的な参加が望まれます。そうして,震災に対する自分の不注意による事故からは免れたいものです。言うまでもなく日本列島は,ユーラシアプレート,北アメリカプレート,太平洋プレート,フィリピン海プレートの四つに囲まれた,地震国です。過去の例からも何時,どこで大地震が起きても不思議ではありません。それにもかかわらず,特に地震情報には一般的に安易なところがあるのではと思います。それを改め,避難場所,避難経路を含めた,その地区の定期的な防災訓練が不可欠であることを忘れてはなりません。
こうしたことを伝えるために,被災地では現在,語り部が活躍しておりますが,この他に教育の現場においても,語り継ぎ,広めるようにしたいものです。
常々の備えを怠らずに
石黒 秀雄(宮城県仙台市)
2011年3月11日(金)午後2時46分,東日本大震災が発生しました。当時私は秋の合唱祭の練習のため,仲間と県北の大崎市にあるスタジオに入り,食後の休憩時間中でした。初めは,ゆらゆらと,次にぐらぐらと次第に大きくなり,約3分続きました。「スロー地震」と言われておるものです。立っているのは勿論座っていることもできません。しかし,今まで最初からガタガタと揺れるのは,被害が少なかったですし,スタジオの建物が耐震構造になっていることの確認は,以前からしておりましたのでそれほど驚きもしませんでした。ところが,揺れが止まり外を見ると周囲の瓦の家は六軒とも全壊し,電柱も折れたり,斜めになったりの惨状でした。舗装道路は殆んど亀裂が入り,通行不能の状態で,とてもこの世の景とは思われませんでした。余震も大きく数回続きました。ここは宮城県でも震度六弱と一番大きかったのですが,この建物は平屋作りであったので全員外に出なかったのが幸いしました。慌てて飛び出しておれば怪我人も出ておったと思われ,生きた心地はしませんでした。
この日は惨状の道路をかき分け,普通なら40分ぐらいしかかからないところを一時間半かけて仙台市の我が家にたどり着きました。しかし,崩れ落ちた什器で足の踏み場もない家の中,居るはずの病弱の家内はいませんでした。家の被害は思ったより少なかったのですが,中のガラス食器類は殆んど壊れていました。幸い家内は近所の人が車の中で暖をとらせてくださっておりました。ここの隣組は普段から助け合っておりましたが,これが絆となって,向こう十軒大隣の付き合いが,今も続いております。
実は,この震災前の2月中旬頃には,毎年,鶯の初音がありました。しかしあの年は,この時期はもとより3月に入ってからも,鶯どころかほかの鳥も来なかったのです。また,太陽の照り方も変に差すような感じでした。昔,我が家は北海道にて漁業をしていました。その頃の言い伝えに天候や動物の動作の異変があり,鳴き声がその季節になかった時は天に異変の兆しあり,と聞いておりました。しかし,迷信と思って普段は聞き流しておりましたが,天気予報等に,頻繁に地震,降雨情報が流れるので,その言い伝えを信じてみることにしました。そして非常食,明り物,水,卓上焜炉,ガソリンは満タン等々,野菜は家庭菜園のものを,約一か月生活できるように準
しました
それでも「天に異変がある」というのは半信半疑でありました。しかし,意外や意外,その時が来たのです。リハーサルの手順に従い行動開始しました。薄暗い家の中での作業は,慣れるまで大変でしたが,慣れるとキャンプに行ったようで,「また楽し」の気持ちも涌きました。 助かったのは, 冷蔵庫とは別個の大きめの冷凍庫でした。 暖かくなり始めた三月の中旬ということもあって,冷凍の役目を果たしてくれました。ここに趣味の海釣りでの魚を詰めました。また,水は,近くの山の普段は山菜採りをする場に行くとたまたま水が流れていましたのでそれも利用しました。外の倉庫に保管の携帯の子供用プールがあったので, それにその水を使って風呂の代用にしました。それは三日に一度の風呂でしたが楽しみの一つでありました。 こうした生活でしたが,終戦の頃を想えば我慢できましたし, 懐かしさも湧いてきた一時でした。
今年の六月に入り間もなく,私は震災地の海岸巡りをしました。震災から9年目を迎えたにもかかわらず,復興は蝸牛の感がしました。若者の戻る日はまだまだ先のようにも感じました。現地の釣友達も多数亡くなっていました。現地の方から「天気予報は信じておるが,地震予報はそれなりのところがあった」と聞きました。今後,予報が出たときは,仮に外れたとしても,これに従い,行動をとることを望みます。また,震災訓練の時も参加率が少ないようですので,積極的な参加が望まれます。そうして,震災に対する自分の不注意による事故からは免れたいものです。言うまでもなく日本列島は,ユーラシアプレート,北アメリカプレート,太平洋プレート,フィリピン海プレートの四つに囲まれた,地震国です。過去の例からも何時,どこで大地震が起きても不思議ではありません。それにもかかわらず,特に地震情報には一般的に安易なところがあるのではと思います。それを改め,避難場所,避難経路を含めた,その地区の定期的な防災訓練が不可欠であることを忘れてはなりません。
こうしたことを伝えるために,被災地では現在,語り部が活躍しておりますが,この他に教育の現場においても,語り継ぎ,広めるようにしたいものです。
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