○東日本大震災私は忘れない
[ 空 襲 と 大 震 災
菊池 健三(宮城県塩釜市)
2011年3月11日,大震災が起きた当日,私は総支配人として勤務していた福島県磐梯熱海温泉「四季彩一力」の執務室で作業をしていた。その14時46分,デスクワークができない(文章が書けない,読めない)ほどの大きな揺れを長い時間感じた。
社員から「震源地は宮城県沖のようです」との報告があり,まず,前日から連泊のお客さま,当日チェックイン済のお客様への情報お伝えとお怪我の有無の様子確認に走らせ,また,設備担当者には館内を点検させた。幸い,怪我人も,施設面の異常もなく,安堵した。とともに,宮城県沖が震源地ということなので,塩釜市の自宅に独り残していた妻の様子の心配が強くなり,幸い電話が通じていたのでそれで連絡したところ,マンション12階の自室内は家財などが散乱し,余震もあり,怖いので,近隣の知り合い宅に避難,宿泊するとのことであった。「四季彩一力」は特に問題はなかったので,一旦,塩釜の自宅に戻ることにした。
翌12日,公共交通機関が全面ストップのためにタクシーで午前8時に出発。通常なら東北自動車道を走るのだが,地震の影響で一般車両乗り入れ禁止となったため,国道4号線経由で塩釜へ向かった。途中,何度も「通行止め」の箇所に出くわしたがそこを迂回しながらの走行。午後の5時ごろにようやく自宅のあるマンション前に到着した。
着いてみると自宅マンションだけではなく近隣一帯がライフラインはすべて停止。そんな中,知人宅に寄せてもらっていた妻を迎えに行き,なんとか夫婦二人で自宅に戻った。が,湯吞み形違いが2個,皿3枚,漆器類だけを残して,家財や食器類は殆んど破損の状態である。それでもそれらを室内で最低限の生活スペースを獲得するまでに片付け,食事用具,炊飯用具,照明の確保,ベッドの移動などをして,震災後の生活をスタートさせた。
しかし,停電によるエレベーター停止のため,13階建てのマンションは階段による昇降以外に移動手段はなく,老齢者には大変厳しい状況であった。3月17日になって通電及びエレベーターが復旧,3月23日に水道復旧,そして4月の25日にようやく都市ガスが復旧したが,こうした状況は,親の庇護の下で受けた(その所為もあるのだろうが)先の大戦の際の仙台大空襲よりも厳しいものと感じた。「灯火管制」「空襲警報」が続く中,1945年7月10日未明,自宅近くの山に避難して仙台市内が赤々と燃えているのを見,上空を悠々と飛来するB-29,そしてそれに向けて東仙台駅西側にあった「高射砲」が時々火を噴くもB-29の下方で破裂する煙(全く命中しなかった)を見ていた。しかし,テニアン島から飛来したB-29が戻って行けば,受けた被害状況にもよるが,通常生活に戻れた家が,我が家も含んで結構多かったように思う。それに比べて,前記のような状況に加えて,長い期間にわたって何度も起こる余震に怯える生活,壊れた食器を新たに購入する意欲もなく湯飲み茶わんで食事した1週間,物はあるはずなのに物流が機能しないため手に入りにくい食料品を2時間並んでようやく購入できる生活は,本当に悲惨であったと言うほかなく,生涯忘れられるものではない。
その一方で……。マンション管理組合理事長をしている私は,震災前年の2010年12月26日に塩釜市認定の自主防災組織を立ち上げ,各組織員の災害時の役割分担や津波襲来の場合のハザードマップなどの被災時の準備をし,それらのことの入居者への周知の徹底も行っていた。被災直後は理事長で防災会長である私は不在であったが、決められた役割分担に基づき,マンション全室を回り,居住者の安否確認をしてくれており,独居老人も含めて全員無事でることが分かり,その報告を聞いて安堵するとともに,災害に対処するための日頃の準備がいかに大切かということを改めて実感した次第であった。
津波はマンションの50m近くまで押し寄せてきたが,幸いにもそれによる被害はなかった。塩釜市内でも津波による被害を受けた方々が数多く出た中で,非常に幸運であったと言ってもよいだろう。
それにつけても津波で犠牲になった方々,被害を受けた人方々のことを思うと私が受けた被害というものは比較にならないほど小さいものである。犠牲になった方が帰ってくることはないし,家族や親類,家屋等の財産を失われた人たちの気持ちは7年過ぎた今でもなかなか整理がつかないものと察せられる。確かに私も震災の被害者ではあるが,こうした方々が数え切れないほど居られることを忘れてはならないと思っている。
[ 空 襲 と 大 震 災
菊池 健三(宮城県塩釜市)
2011年3月11日,大震災が起きた当日,私は総支配人として勤務していた福島県磐梯熱海温泉「四季彩一力」の執務室で作業をしていた。その14時46分,デスクワークができない(文章が書けない,読めない)ほどの大きな揺れを長い時間感じた。
社員から「震源地は宮城県沖のようです」との報告があり,まず,前日から連泊のお客さま,当日チェックイン済のお客様への情報お伝えとお怪我の有無の様子確認に走らせ,また,設備担当者には館内を点検させた。幸い,怪我人も,施設面の異常もなく,安堵した。とともに,宮城県沖が震源地ということなので,塩釜市の自宅に独り残していた妻の様子の心配が強くなり,幸い電話が通じていたのでそれで連絡したところ,マンション12階の自室内は家財などが散乱し,余震もあり,怖いので,近隣の知り合い宅に避難,宿泊するとのことであった。「四季彩一力」は特に問題はなかったので,一旦,塩釜の自宅に戻ることにした。
翌12日,公共交通機関が全面ストップのためにタクシーで午前8時に出発。通常なら東北自動車道を走るのだが,地震の影響で一般車両乗り入れ禁止となったため,国道4号線経由で塩釜へ向かった。途中,何度も「通行止め」の箇所に出くわしたがそこを迂回しながらの走行。午後の5時ごろにようやく自宅のあるマンション前に到着した。
着いてみると自宅マンションだけではなく近隣一帯がライフラインはすべて停止。そんな中,知人宅に寄せてもらっていた妻を迎えに行き,なんとか夫婦二人で自宅に戻った。が,湯吞み形違いが2個,皿3枚,漆器類だけを残して,家財や食器類は殆んど破損の状態である。それでもそれらを室内で最低限の生活スペースを獲得するまでに片付け,食事用具,炊飯用具,照明の確保,ベッドの移動などをして,震災後の生活をスタートさせた。
しかし,停電によるエレベーター停止のため,13階建てのマンションは階段による昇降以外に移動手段はなく,老齢者には大変厳しい状況であった。3月17日になって通電及びエレベーターが復旧,3月23日に水道復旧,そして4月の25日にようやく都市ガスが復旧したが,こうした状況は,親の庇護の下で受けた(その所為もあるのだろうが)先の大戦の際の仙台大空襲よりも厳しいものと感じた。「灯火管制」「空襲警報」が続く中,1945年7月10日未明,自宅近くの山に避難して仙台市内が赤々と燃えているのを見,上空を悠々と飛来するB-29,そしてそれに向けて東仙台駅西側にあった「高射砲」が時々火を噴くもB-29の下方で破裂する煙(全く命中しなかった)を見ていた。しかし,テニアン島から飛来したB-29が戻って行けば,受けた被害状況にもよるが,通常生活に戻れた家が,我が家も含んで結構多かったように思う。それに比べて,前記のような状況に加えて,長い期間にわたって何度も起こる余震に怯える生活,壊れた食器を新たに購入する意欲もなく湯飲み茶わんで食事した1週間,物はあるはずなのに物流が機能しないため手に入りにくい食料品を2時間並んでようやく購入できる生活は,本当に悲惨であったと言うほかなく,生涯忘れられるものではない。
その一方で……。マンション管理組合理事長をしている私は,震災前年の2010年12月26日に塩釜市認定の自主防災組織を立ち上げ,各組織員の災害時の役割分担や津波襲来の場合のハザードマップなどの被災時の準備をし,それらのことの入居者への周知の徹底も行っていた。被災直後は理事長で防災会長である私は不在であったが、決められた役割分担に基づき,マンション全室を回り,居住者の安否確認をしてくれており,独居老人も含めて全員無事でることが分かり,その報告を聞いて安堵するとともに,災害に対処するための日頃の準備がいかに大切かということを改めて実感した次第であった。
津波はマンションの50m近くまで押し寄せてきたが,幸いにもそれによる被害はなかった。塩釜市内でも津波による被害を受けた方々が数多く出た中で,非常に幸運であったと言ってもよいだろう。
それにつけても津波で犠牲になった方々,被害を受けた人方々のことを思うと私が受けた被害というものは比較にならないほど小さいものである。犠牲になった方が帰ってくることはないし,家族や親類,家屋等の財産を失われた人たちの気持ちは7年過ぎた今でもなかなか整理がつかないものと察せられる。確かに私も震災の被害者ではあるが,こうした方々が数え切れないほど居られることを忘れてはならないと思っている。
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