☆ふるさと紹 介
領主は「敵中突破」の立役者~日置市永吉地区
本田 哲郎(鹿児島県日置市)
「敵中突破」という言葉があります。「天下分け目の決戦」と言われている関ケ原合戦で東軍(徳川方)が勝利しましたが,その時西軍として参画した薩摩藩(島津軍)の大将である島津義弘が関が原から鹿児島へ帰還する際に徳川軍本陣前を強行突破して,さらに追ってきた徳川勢の家臣団(福島家,松平家,井伊家など)の追撃を阻止して,義弘一行が無事鹿児島へ帰還できたのは正にこの敵中突破でありました。その三家を主体とする徳川家家臣団は,義弘が豊臣・徳川両軍から次の薩摩藩主と見られていたので,彼を倒すことで,薩摩藩は徳川側から「お家取り潰し」なるとのことで義弘一行を襲ったのです。その追撃を阻止して,義弘一行の鹿児島への逃げ道を確保,つまり,逃げる時間稼ぎのために,追いかけてくる徳川勢と必死に戦ったのが,義弘の家老であった阿多長寿院敦盛と義弘の甥子(義弘の弟,島津家久の嫡子)である島津豊久の二人の副将格とその家臣たちでありました。
薩摩軍(島津軍)としては関ケ原合戦では西軍として参加しましたが,当時の薩摩藩の禄高「77万石」にしては参加兵力も1200人しか参加しておらず(毛利家などは3万人?),元々当時の薩摩藩主の島津義久公は戦いを好まなかったこともあるでしょうが,義弘も豊臣家に対する義理で参加したのであり,関ケ原合戦の最中も現実には島津陣地の中でそのまま,じっとしているだけで,戦いには参戦していなかったのです。この理由は,豊臣秀吉が亡くなった後は,島津義弘は「次の世は徳川家康の天下である」との考えをもともと持っていたということでありましょう。
しかし徳川側の家臣団の福島,松平,井伊家などはそのような島津義弘の考えなどは知らず,彼を倒せば薩摩は自分らが薩摩を領地としてもらえると思って,関ケ原合戦は終わっていたのに,執拗に義弘を倒すために追っかけてきたのであります。それを島津藩の副将格である阿多長寿院と島津豊久らが何とか義弘一行の逃げ道を確保して,その時間稼ぎに,当時の上石津町(今は大垣市となっている)の鳥頭坂周辺で徳川家臣団と壮烈な切り合い(戦い)を演じて,徳川方は6000人とも言われているのに島津軍は1000人足らずの軍勢で「捨てまがり戦法」(全員が死ぬ覚悟の玉砕戦法)を駆使して,義弘の逃げ道の時間稼ぎを行ったわけです。主君を無事故郷に帰すために死を恐れず戦った薩摩藩士の姿を目前に見ていた上石津の方々は彼らの行為を不憫に思い,彼らの屍を荼毘にして埋葬し,墓を作り,さらにその近くには菩提寺(瑠璃光寺)まで建立して400年以上も顕彰し,供養してきました。
そのことが,昭和の御代になって初めて永吉島津家の墓地がある地元永吉地区でもわかり,それ以来,当時の吹上町と上石津町は友好都市の盟約を結び,今では市民レベルでの親しい交流が続いています。それは,毎年交互に夏休みには児童集団の訪問や婦人部,青年部,我々歴史保存活動団体,市職員間などの相互訪問交流などです。
実は関ケ原合戦の前には島津豊久,その父島津家久は薩摩藩の支藩である佐土原藩の当主(佐土原城主)でありました。豊久の父,家久は島津四兄弟(義久,義弘,歳久,家久)の末っ子であり島津軍の九州制覇に向けて「沖田畷の戦い」「戸次川の戦い」等島津軍の先兵として縦横に活躍しました。家久の子,豊久は関ケ原で徳川家臣団と闘って死亡したことで,一時佐土原が徳川側から召し上げられたことによりその家臣団が落ち着き先として永吉が選ばれ、そこに家久を初代,豊久を二代目として永吉島津家が創設されて,今は十九代目の永吉島津家当主が存在しています。
近年,特に漫画家やアニメ作家などが漫画の世界などで「戦国武将」を取り上げてくれるようになって,今やこの永吉島津家は島津本家に対して分家ではありますが,これら「敵中突破」の立役者として,この悲劇のヒーローとして,漫画などで多く取り上げられることで特に若い方々の中で人気となり,家久,豊久の墓地がある当地の天昌寺跡や梅天寺跡などを東京,大阪あたりからも「豊久公のお墓参りに伺いました!」と言って訪ねてくる歴史愛好会の方々が多いのにはびっくりさせられます。四百年以上も前に亡くなった武将のお墓参りとはと,当地の史跡の維持管理に当たっている我々「永吉南郷会」のメンバーも仰天しているほどです。小生も帰郷後,歴史豊かな故郷で郷土史に出会って,永吉南郷会の会長職なども経験して,今度は史跡の「語り部」としてこのように遠くから訪れる方々に対して史跡の案内などをさせてもらっています。 それにしても今までは, 歴史愛好家といえば年輩の方が多かったのですが,最近は男女を問わず,若者が押し寄せてくる風潮にはアニメや漫画,それにネット上での「戦国武将ブーム」とも言えるほどの人気ぶりには驚愕しています。これらのことで,自分としては郷土史愛好者として生きがいのある余生をと思っています。
領主は「敵中突破」の立役者~日置市永吉地区
本田 哲郎(鹿児島県日置市)
「敵中突破」という言葉があります。「天下分け目の決戦」と言われている関ケ原合戦で東軍(徳川方)が勝利しましたが,その時西軍として参画した薩摩藩(島津軍)の大将である島津義弘が関が原から鹿児島へ帰還する際に徳川軍本陣前を強行突破して,さらに追ってきた徳川勢の家臣団(福島家,松平家,井伊家など)の追撃を阻止して,義弘一行が無事鹿児島へ帰還できたのは正にこの敵中突破でありました。その三家を主体とする徳川家家臣団は,義弘が豊臣・徳川両軍から次の薩摩藩主と見られていたので,彼を倒すことで,薩摩藩は徳川側から「お家取り潰し」なるとのことで義弘一行を襲ったのです。その追撃を阻止して,義弘一行の鹿児島への逃げ道を確保,つまり,逃げる時間稼ぎのために,追いかけてくる徳川勢と必死に戦ったのが,義弘の家老であった阿多長寿院敦盛と義弘の甥子(義弘の弟,島津家久の嫡子)である島津豊久の二人の副将格とその家臣たちでありました。
薩摩軍(島津軍)としては関ケ原合戦では西軍として参加しましたが,当時の薩摩藩の禄高「77万石」にしては参加兵力も1200人しか参加しておらず(毛利家などは3万人?),元々当時の薩摩藩主の島津義久公は戦いを好まなかったこともあるでしょうが,義弘も豊臣家に対する義理で参加したのであり,関ケ原合戦の最中も現実には島津陣地の中でそのまま,じっとしているだけで,戦いには参戦していなかったのです。この理由は,豊臣秀吉が亡くなった後は,島津義弘は「次の世は徳川家康の天下である」との考えをもともと持っていたということでありましょう。
しかし徳川側の家臣団の福島,松平,井伊家などはそのような島津義弘の考えなどは知らず,彼を倒せば薩摩は自分らが薩摩を領地としてもらえると思って,関ケ原合戦は終わっていたのに,執拗に義弘を倒すために追っかけてきたのであります。それを島津藩の副将格である阿多長寿院と島津豊久らが何とか義弘一行の逃げ道を確保して,その時間稼ぎに,当時の上石津町(今は大垣市となっている)の鳥頭坂周辺で徳川家臣団と壮烈な切り合い(戦い)を演じて,徳川方は6000人とも言われているのに島津軍は1000人足らずの軍勢で「捨てまがり戦法」(全員が死ぬ覚悟の玉砕戦法)を駆使して,義弘の逃げ道の時間稼ぎを行ったわけです。主君を無事故郷に帰すために死を恐れず戦った薩摩藩士の姿を目前に見ていた上石津の方々は彼らの行為を不憫に思い,彼らの屍を荼毘にして埋葬し,墓を作り,さらにその近くには菩提寺(瑠璃光寺)まで建立して400年以上も顕彰し,供養してきました。
そのことが,昭和の御代になって初めて永吉島津家の墓地がある地元永吉地区でもわかり,それ以来,当時の吹上町と上石津町は友好都市の盟約を結び,今では市民レベルでの親しい交流が続いています。それは,毎年交互に夏休みには児童集団の訪問や婦人部,青年部,我々歴史保存活動団体,市職員間などの相互訪問交流などです。
実は関ケ原合戦の前には島津豊久,その父島津家久は薩摩藩の支藩である佐土原藩の当主(佐土原城主)でありました。豊久の父,家久は島津四兄弟(義久,義弘,歳久,家久)の末っ子であり島津軍の九州制覇に向けて「沖田畷の戦い」「戸次川の戦い」等島津軍の先兵として縦横に活躍しました。家久の子,豊久は関ケ原で徳川家臣団と闘って死亡したことで,一時佐土原が徳川側から召し上げられたことによりその家臣団が落ち着き先として永吉が選ばれ、そこに家久を初代,豊久を二代目として永吉島津家が創設されて,今は十九代目の永吉島津家当主が存在しています。
近年,特に漫画家やアニメ作家などが漫画の世界などで「戦国武将」を取り上げてくれるようになって,今やこの永吉島津家は島津本家に対して分家ではありますが,これら「敵中突破」の立役者として,この悲劇のヒーローとして,漫画などで多く取り上げられることで特に若い方々の中で人気となり,家久,豊久の墓地がある当地の天昌寺跡や梅天寺跡などを東京,大阪あたりからも「豊久公のお墓参りに伺いました!」と言って訪ねてくる歴史愛好会の方々が多いのにはびっくりさせられます。四百年以上も前に亡くなった武将のお墓参りとはと,当地の史跡の維持管理に当たっている我々「永吉南郷会」のメンバーも仰天しているほどです。小生も帰郷後,歴史豊かな故郷で郷土史に出会って,永吉南郷会の会長職なども経験して,今度は史跡の「語り部」としてこのように遠くから訪れる方々に対して史跡の案内などをさせてもらっています。 それにしても今までは, 歴史愛好家といえば年輩の方が多かったのですが,最近は男女を問わず,若者が押し寄せてくる風潮にはアニメや漫画,それにネット上での「戦国武将ブーム」とも言えるほどの人気ぶりには驚愕しています。これらのことで,自分としては郷土史愛好者として生きがいのある余生をと思っています。
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腹の立つこと |
本物語 |
古希過ぎて,直木賞読破 ⑶ |