☆《自由広場》
豊洲移転問題にわが苦難の時代を想う
西 紘平(東京都練馬区)
築地市場の豊洲への移転は小池知事に代わってから既に8ヶ月間凍結され,百条委員会まで開かれたが,石原前知事や其の他の幹部からファクト(事実の確認)は解明されず,地下水の汚染と安全と安心の最終の整理,移転の可・否は未だ見えずという状態です。一日も早く明確な方向の提示を望んでいるところですが,テレビや新聞等で科学的な安全性や風評基準の安心性の論争が繰り返し報道される度に17年前に雪印乳業が起こした食中毒事件(当時戦後最大と言われた)に奔走していた私の苦しかった経験が鮮明に想い出されます。
古い話で恐縮ですが2000年6月28日,札幌で開かれた株主総会の当日発生した低脂肪乳による下痢・嘔吐の被災者は和歌山で数名の報告を受けましたが,津波のようなスピードで近畿一円に広がり,4~5日後には2万人を超す数となりました。テレビや新聞で毎日トップニュースとして報道され,問題となった低脂肪乳に留まらず,雪印の商品は,すべてスーパーやデパート,コンビニエンスの棚から撤去され,ホテルやレストランの商品も,更に育児用の粉ミルク,医薬品まで返品の山となりました。
事件前は,雪印グループ34社で1兆3千億円の売上高を有する食品としては最大手企業で,本体である雪印乳業は6,000億円あった売上高は,苦情が発生した関西地区に留まらず,全国で影響を受け,2ヶ月後の8月には50%落ち込む最悪の状況となりました。
70年前に北海道でバターの製造と販売で始まった企業も品質問題と事件発生時の初期対応のまずさから全国の消費者の信頼を失い,社名の雪印にふさわしい雪の結晶が社章でありましたが,僅か一週間で溶けて水と化した会社,食品の品質問題の恐ろしさを知らされました。
2万人を超すお客様の個別訪問による対応を行ったために,通常業務を一旦中断して真夏の大阪を走り回った社員の背広には全員汗のために塩を噴いていました。その姿は今も鮮明に脳裏に浮かんできます。
私自身は,当時,東日本支社長として常務職でしたが,突然前社長から命を受けて社長に就いたものの,日中は国会の対応,マスコミの記者会見やお取引先への訪問に追われ,夜は毎日深夜まで企業の再建会議で,土日も無しの日々。よく2年間身体がもったものだと思います。夢中でした。
信頼を回復するためのガバナンスに着手したのは夏の終り。事件を起こした原因はトップの座にあった企業の驕りと社内の風通しの悪さと決めつけた社員のモチベーションの回復を優先し,社内の抜本的改革に入りました。
全てを白紙に戻した土壌づくりのために,70年前の起業時の理念を再確認し,先人が創り,定着した4文字「健土健民」―〈健康な土に育った牧草を食べてそだった牛、その牛乳を原料として日本国民の健康に寄与する〉の意 ― を経営の原点としました。そしてそれまでの社内の常識を捨てて,これからの再建に供する経営理念を構築するために外部の先生方のお力をいただく経営諮問委員会を設置しました。
司法,酪農,農政,経営,ブランド,マスコミの先生方に加えて問題を起こした大阪の消費者代表の先生にも参画いただき,7名の委員会をスタートしました。
この委員会のスタート時に倖いなことに大阪府警の事故調査委員会から食中毒を起こし,原料となった脱脂肪乳の特定と,下痢,嘔吐となったエントロトキシンという物質を明らかにしていただき,工場の再生産の認可も受けることができました。
冒頭に記した「安全と安心」はこの諮問委員会のやり取りで,上記大阪の井上先生から強烈に指摘されたことでした。私から「原因も究明され安全宣言できる状況となり,(当時の)武部農林大臣,また津島厚生大臣も応援に回ってくれるので」と報告しましたら,「社長はまだ変わっていない。安全宣言は誰のためか。私共消費者は安全なんて当たり前,本当に望んでいるのは安心ですよ」と言われ,役員全員が頭から冷や水をどっと被せられた,真に身が引き締まる一瞬でした。
この日を機にして,今まで社内の常識で経営改革していることが社外から見れば非常識であることを思い知り,遅きに失した感じもして恥ずかしい話ですが,前述した「健土健民」を心に据えて,全ては安心からの発想に定着させました。
雪印も社名は変わりましたが,17年経った今日,当時の6,000億円規模に回復してきましたし,今後も一雪印ファンとして,静かに見守って行きたいと思っています。
豊洲移転問題にわが苦難の時代を想う
西 紘平(東京都練馬区)
築地市場の豊洲への移転は小池知事に代わってから既に8ヶ月間凍結され,百条委員会まで開かれたが,石原前知事や其の他の幹部からファクト(事実の確認)は解明されず,地下水の汚染と安全と安心の最終の整理,移転の可・否は未だ見えずという状態です。一日も早く明確な方向の提示を望んでいるところですが,テレビや新聞等で科学的な安全性や風評基準の安心性の論争が繰り返し報道される度に17年前に雪印乳業が起こした食中毒事件(当時戦後最大と言われた)に奔走していた私の苦しかった経験が鮮明に想い出されます。
古い話で恐縮ですが2000年6月28日,札幌で開かれた株主総会の当日発生した低脂肪乳による下痢・嘔吐の被災者は和歌山で数名の報告を受けましたが,津波のようなスピードで近畿一円に広がり,4~5日後には2万人を超す数となりました。テレビや新聞で毎日トップニュースとして報道され,問題となった低脂肪乳に留まらず,雪印の商品は,すべてスーパーやデパート,コンビニエンスの棚から撤去され,ホテルやレストランの商品も,更に育児用の粉ミルク,医薬品まで返品の山となりました。
事件前は,雪印グループ34社で1兆3千億円の売上高を有する食品としては最大手企業で,本体である雪印乳業は6,000億円あった売上高は,苦情が発生した関西地区に留まらず,全国で影響を受け,2ヶ月後の8月には50%落ち込む最悪の状況となりました。
70年前に北海道でバターの製造と販売で始まった企業も品質問題と事件発生時の初期対応のまずさから全国の消費者の信頼を失い,社名の雪印にふさわしい雪の結晶が社章でありましたが,僅か一週間で溶けて水と化した会社,食品の品質問題の恐ろしさを知らされました。
2万人を超すお客様の個別訪問による対応を行ったために,通常業務を一旦中断して真夏の大阪を走り回った社員の背広には全員汗のために塩を噴いていました。その姿は今も鮮明に脳裏に浮かんできます。
私自身は,当時,東日本支社長として常務職でしたが,突然前社長から命を受けて社長に就いたものの,日中は国会の対応,マスコミの記者会見やお取引先への訪問に追われ,夜は毎日深夜まで企業の再建会議で,土日も無しの日々。よく2年間身体がもったものだと思います。夢中でした。
信頼を回復するためのガバナンスに着手したのは夏の終り。事件を起こした原因はトップの座にあった企業の驕りと社内の風通しの悪さと決めつけた社員のモチベーションの回復を優先し,社内の抜本的改革に入りました。
全てを白紙に戻した土壌づくりのために,70年前の起業時の理念を再確認し,先人が創り,定着した4文字「健土健民」―〈健康な土に育った牧草を食べてそだった牛、その牛乳を原料として日本国民の健康に寄与する〉の意 ― を経営の原点としました。そしてそれまでの社内の常識を捨てて,これからの再建に供する経営理念を構築するために外部の先生方のお力をいただく経営諮問委員会を設置しました。
司法,酪農,農政,経営,ブランド,マスコミの先生方に加えて問題を起こした大阪の消費者代表の先生にも参画いただき,7名の委員会をスタートしました。
この委員会のスタート時に倖いなことに大阪府警の事故調査委員会から食中毒を起こし,原料となった脱脂肪乳の特定と,下痢,嘔吐となったエントロトキシンという物質を明らかにしていただき,工場の再生産の認可も受けることができました。
冒頭に記した「安全と安心」はこの諮問委員会のやり取りで,上記大阪の井上先生から強烈に指摘されたことでした。私から「原因も究明され安全宣言できる状況となり,(当時の)武部農林大臣,また津島厚生大臣も応援に回ってくれるので」と報告しましたら,「社長はまだ変わっていない。安全宣言は誰のためか。私共消費者は安全なんて当たり前,本当に望んでいるのは安心ですよ」と言われ,役員全員が頭から冷や水をどっと被せられた,真に身が引き締まる一瞬でした。
この日を機にして,今まで社内の常識で経営改革していることが社外から見れば非常識であることを思い知り,遅きに失した感じもして恥ずかしい話ですが,前述した「健土健民」を心に据えて,全ては安心からの発想に定着させました。
雪印も社名は変わりましたが,17年経った今日,当時の6,000億円規模に回復してきましたし,今後も一雪印ファンとして,静かに見守って行きたいと思っています。
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