☆東日本大震災私は忘れない
前に,明日に向かって
鈴木 貴雅(岩手県山田町)
▲本震直後▼ 6年経過した今でもあの日のことが脳裏から離れない。私が勤務する障害者支援施設は,岩手県山田町の沿岸部にあり,目の前が海で利用者様,職員共に穏やかな海を眺めながら生活を共にしていた。しかし,そんな穏やかな海が一変した。2011年3月11日午後2時46分,突然の経験したことのない強い揺れに,立っているのが精いっぱいで,利用者様,職員共に恐怖と不安でパニックに陥った。余震が続く中,どうにか利用者様を外へ誘導し,点呼を取るが利用者様の人数が少ないことに気づく。当日,その時間帯は入浴の時間帯だった。余震で,建物の天井が崩れてきたり,物が落ちてくる中,救助へ向かった。利用者様の中には,難聴で何が起きているのか分からないまま洗体を行っている方や,避難を促すが拘りが強く洗髪がまだ終わってないからと拒否する方,トイレに行きたいと動かなくなる利用者様がおり,緊急対応として布団で利用者様を囲い担いで外へ避難した。
地震から5分後,目の前に広がる海原の水が沖へと引いていき海底が見えてきた。過去, 津波を経験している先人からの, 海底が見えてきたら大津波が来るとの教えで,高台避難を決定した。午後3時,高台へ避難を開始。ラジオからの情報で,数十㎝,3mの津波が来るとの情報を得る(実際は18m)。避難を開始するが,通常の避難路が,建物が崩れ通行できなく,瓦礫の脇の通路を確保し,バス避難者と徒歩避難者とに分かれて避難した。
避難完了後,施設へ薬,保存食等を取りに数名の職員が戻った。本来ならば戻らないことが最善だが,薬と保存食があって助かったのも事実である。
▲老人施設の救助▼ 当施設の避難がすべて完了するが,隣接する老人施設はまだ避難が完了していないため,数名の職員へ呼びかけて救助を行う。車椅子の方々を高台へ誘導するが,坂道のため思うように避難が進まない。午後3時20分,私が4人目の方を避難中に後方50m先から,あの黒い波がゴーッと音を立てながら鉄筋3階建ての建物を飲み込む。波に飲み込まれながら,助けを求める叫びと視線。だが,恐怖で助けに戻ることができなかった。その後,私の目の前には電信柱の上方に服が掛かりぶら下がる人,波で衣服が全て脱げて横たわる人,人,人。あちらこちらから聞こえる呻き声。建物の屋上に何台もの車。鳴り響く車のクラクション。施設の自動警報装置も鳴り響いていた。すぐさま,余波が続く中救助に向かい,瓦礫を掻き分け救助し、心肺蘇生と体温低下を防ぐ行動をとった。午後5時,日が沈み辺りは暗闇,海の様子が見られなくなる。余波の危険があるため,瓦礫の中から助けを求める呻き声が聞こえるも,救助を中止せざるを得なかった。
▲第1避難所▼ 避難した高台に,町の宿泊施設1棟5人用の建物3棟に十数人が重なり合い,一夜を過ごす。外は雪。暖房が無く寒い。海を挟んだ対岸には町の中心街があり,街から上がる火柱,爆発,爆風が数キロ離れている私たちの宿泊施設まで届き,窓ガラスが揺れていた。利用者様の方々は,恐怖と不安で眠れなく,癲癇(てんかん)発作や発熱等,興奮状態が続いていた。
▲第2避難所▼ 2日目の朝,焦げ臭いにおいが漂い,裏山の火災で周辺が煙に包まれる。道路の復旧と避難先の確保が必要になるが,避難先はどこも満員で利用者,職員57名を受け入れてくれる避難所が見つからず,避難所には指定されていなかったが公共施設の体育館に移動し,一夜を過ごした。ここの施設では,地域住民の方々との共同での利用となった。障害者への理解が薄い地域住民もおり,避難生活に不安を感じたが,信頼関係が築かれている地域住民だったとしても,当時は誰もが恐怖と不安で自分の事だけで精一杯だったはず。 だから,生きている事だけで良しと思うようにした。
3日目。県の職員がニーズ調査で来訪する。食糧,日用品,処方箋薬を要望する。特に,処方箋薬は精神薬や癲癇薬等命に直結することから,早急に対応してくれるよう願い出た。ここの避難所は地域から離れた場所にあり,避難所に指定されていないため,物資が届きにくい。しかもガソリンが手に入りずらく貴重で移動することが困難な場所だった。食事は,おにぎり1日分を朝半分,夕半分配給されるようになる。そしてやっと自宅待機していた職員が,当施設が全滅したとの情報が流れる中,避難場所を巡り巡って十数キロはあろう道のりを徒歩で駆けつけてくれるようになった。
4日目。物資が届きずらく,後回しにされたりと不便なとき,NPOの団体が当施設に特化したオムツや介護用品等を届けてくれるようになる。また,利用者様のご家族が自衛隊へ直接当施設の現状を話してくださったことがマスコミにも取り上げられ,物資が届くようになった。
5日目以降。体に異変が出始め,下痢,便秘,嘔吐の症状の利用者様,職員が出始める。毎日,おにぎりとカップラーメンの日々で食生活の偏りと,避難生活で運動不足や精神的なストレスが原因と思われた。利用者様,職員共に,家族に会えない,家に帰りたいが移動手段がない。家がなくなっていて帰っても避難生活。この頃のストレスは尋常ではなかったと思うが,職員間で話し合い,「利用者様には今できる精一杯の事を笑顔で。それだけは忘れないようにしよう」と,職員一致団結した。職員も数が揃いはじめ,2夜交代制の勤務にできるようになり,帰宅できるようになるが,移動手段がなく,ほとんどの職員がヒッチハイクでの出勤退勤であった。
12日目以降。岩手県の各施設から派遣職員の方々が応援に駆けつけてくれた。派遣職員の方々を目にしたとき,今までの緊張感が解けて強く安堵感を得ることができ,感謝の気持ちでいっぱいだった。派遣職員のお陰様で,今までできていなかった利用者様の日中活動を再開することができ,外を散策したり,レクリェーションをすることができ,利用者様から笑顔が見られるようになった。
ノロウイルスが発生。避難所で感染が広まり,利用者様,職員共に殆んどの方が感染し,職員は感染して発熱,嘔吐,下痢の症状がある中の支援業務にあたった。通常,感染者が出た時点で接触を避けたり,トイレの共同使用を避けるのであるが,避難所ではそれができず,避難所担当医師からも混乱を避けるためにも通常通りの生活をするよう指示があった。
▲第3避難所▼ 4月に入り,全壊して休校中の地元の小学校を再開したいとの要望が強くなり,当施設が移動すれば再開することができることが分かり,予てより当法人が所有している旧ホテルの建物に5月から移動することになった。ところが,ここで問題が発生した。岩手県から,衛生環境が悪く感染症発症の可能性が高いので,山田町を離れ,内陸部にある空き施設へ当面の間引っ越すよう指導を受けたのである。緊急に,保護者様,職員会合を開き話し合った結果,内陸部の施設は200㎞以上離れた場所にあり,保護者様も利用者様の面会ができなくなることや,職員も家庭の事情で半数が退職しなければならなくなり,今の環境より混乱を招くとの結論で,岩手県には衛生管理を徹底することを条件に今の場所で生活できるよう申し出をし,山田町での生活が送れるようになった。食事は,支援物資のパン,自衛隊からの炊き出し弁当。トイレは段ボールで囲まれたポータブルトイレ。歯磨き,洗面はバケツで対応。この状況を乗り切るには,建物内の消毒の徹底,排泄物の処理,食事の準備には細心の注意が必要で,かなりの労力を覚悟していたが,北海道,青森県,岩手県,災害看護支援機構からの派遣職員の皆様,ボランティアの皆様のご尽力のお陰様で無事乗り切ることができた。
▲第4避難所▼ 7月に仮設施設が完成し引っ越し。男性用1棟,女性用1棟のユニット式で1部屋2人用の仮設の建物であった。しかし以前より快適な生活だが,食堂,居間のスペースは以前より狭くなり利用者様間のトラブルが増大することになった。また度重なる環境の変化に適応することができず,体調を崩す利用者様が多々見られるようになった。そうした状況に対応するために,職員を増員し,以前より利用者様に寄り添った支援ができるよう対応してきた。しかし,ここでも問題が発生した。震災の影響で,離職者や人事異動で実務経験者が減少し,8割の職員が新人職員となり,人材育成が急務となった。そして,環境の変化が苦手な利用者様にとっては計り知れないストレスだったと思う。
▲新施設へ▼ 震災後,災害国庫補助金を活用した施設復旧を目指し,国からも建物の早期復旧を急かされるが当時は土地が無い,設計士が見つからない,建築資材の高騰に人手不足が重なり,着工の遅れ,着工するが完成の遅れなど幾多の難題を乗り越え新施設が完成した。平成26年4月1日,その新施設へ引っ越す事ができた。
ここに至るまでには,全国の皆様の温かいご支援と励ましのお言葉を頂きました。また,施設完成後も数多くの個人,団体様に遠方から毎年当施設へ足を運んで頂き,6年経った今でも私達の事を気にかけて頂いております。このご恩は一生忘れることなく,必ずや何かの形で恩返しできればと思っております。その為にも,今私たちにできることは,震災で被災を経験した施設として,災害に強い施設作りをして全国のモデルとなること,沢山のご支援,励ましのお言葉を頂いた方々の事を忘れず,前に,明日に向かって生きていくことだと思っております。
前に,明日に向かって
鈴木 貴雅(岩手県山田町)
▲本震直後▼ 6年経過した今でもあの日のことが脳裏から離れない。私が勤務する障害者支援施設は,岩手県山田町の沿岸部にあり,目の前が海で利用者様,職員共に穏やかな海を眺めながら生活を共にしていた。しかし,そんな穏やかな海が一変した。2011年3月11日午後2時46分,突然の経験したことのない強い揺れに,立っているのが精いっぱいで,利用者様,職員共に恐怖と不安でパニックに陥った。余震が続く中,どうにか利用者様を外へ誘導し,点呼を取るが利用者様の人数が少ないことに気づく。当日,その時間帯は入浴の時間帯だった。余震で,建物の天井が崩れてきたり,物が落ちてくる中,救助へ向かった。利用者様の中には,難聴で何が起きているのか分からないまま洗体を行っている方や,避難を促すが拘りが強く洗髪がまだ終わってないからと拒否する方,トイレに行きたいと動かなくなる利用者様がおり,緊急対応として布団で利用者様を囲い担いで外へ避難した。
地震から5分後,目の前に広がる海原の水が沖へと引いていき海底が見えてきた。過去, 津波を経験している先人からの, 海底が見えてきたら大津波が来るとの教えで,高台避難を決定した。午後3時,高台へ避難を開始。ラジオからの情報で,数十㎝,3mの津波が来るとの情報を得る(実際は18m)。避難を開始するが,通常の避難路が,建物が崩れ通行できなく,瓦礫の脇の通路を確保し,バス避難者と徒歩避難者とに分かれて避難した。
避難完了後,施設へ薬,保存食等を取りに数名の職員が戻った。本来ならば戻らないことが最善だが,薬と保存食があって助かったのも事実である。
▲老人施設の救助▼ 当施設の避難がすべて完了するが,隣接する老人施設はまだ避難が完了していないため,数名の職員へ呼びかけて救助を行う。車椅子の方々を高台へ誘導するが,坂道のため思うように避難が進まない。午後3時20分,私が4人目の方を避難中に後方50m先から,あの黒い波がゴーッと音を立てながら鉄筋3階建ての建物を飲み込む。波に飲み込まれながら,助けを求める叫びと視線。だが,恐怖で助けに戻ることができなかった。その後,私の目の前には電信柱の上方に服が掛かりぶら下がる人,波で衣服が全て脱げて横たわる人,人,人。あちらこちらから聞こえる呻き声。建物の屋上に何台もの車。鳴り響く車のクラクション。施設の自動警報装置も鳴り響いていた。すぐさま,余波が続く中救助に向かい,瓦礫を掻き分け救助し、心肺蘇生と体温低下を防ぐ行動をとった。午後5時,日が沈み辺りは暗闇,海の様子が見られなくなる。余波の危険があるため,瓦礫の中から助けを求める呻き声が聞こえるも,救助を中止せざるを得なかった。
▲第1避難所▼ 避難した高台に,町の宿泊施設1棟5人用の建物3棟に十数人が重なり合い,一夜を過ごす。外は雪。暖房が無く寒い。海を挟んだ対岸には町の中心街があり,街から上がる火柱,爆発,爆風が数キロ離れている私たちの宿泊施設まで届き,窓ガラスが揺れていた。利用者様の方々は,恐怖と不安で眠れなく,癲癇(てんかん)発作や発熱等,興奮状態が続いていた。
▲第2避難所▼ 2日目の朝,焦げ臭いにおいが漂い,裏山の火災で周辺が煙に包まれる。道路の復旧と避難先の確保が必要になるが,避難先はどこも満員で利用者,職員57名を受け入れてくれる避難所が見つからず,避難所には指定されていなかったが公共施設の体育館に移動し,一夜を過ごした。ここの施設では,地域住民の方々との共同での利用となった。障害者への理解が薄い地域住民もおり,避難生活に不安を感じたが,信頼関係が築かれている地域住民だったとしても,当時は誰もが恐怖と不安で自分の事だけで精一杯だったはず。 だから,生きている事だけで良しと思うようにした。
3日目。県の職員がニーズ調査で来訪する。食糧,日用品,処方箋薬を要望する。特に,処方箋薬は精神薬や癲癇薬等命に直結することから,早急に対応してくれるよう願い出た。ここの避難所は地域から離れた場所にあり,避難所に指定されていないため,物資が届きにくい。しかもガソリンが手に入りずらく貴重で移動することが困難な場所だった。食事は,おにぎり1日分を朝半分,夕半分配給されるようになる。そしてやっと自宅待機していた職員が,当施設が全滅したとの情報が流れる中,避難場所を巡り巡って十数キロはあろう道のりを徒歩で駆けつけてくれるようになった。
4日目。物資が届きずらく,後回しにされたりと不便なとき,NPOの団体が当施設に特化したオムツや介護用品等を届けてくれるようになる。また,利用者様のご家族が自衛隊へ直接当施設の現状を話してくださったことがマスコミにも取り上げられ,物資が届くようになった。
5日目以降。体に異変が出始め,下痢,便秘,嘔吐の症状の利用者様,職員が出始める。毎日,おにぎりとカップラーメンの日々で食生活の偏りと,避難生活で運動不足や精神的なストレスが原因と思われた。利用者様,職員共に,家族に会えない,家に帰りたいが移動手段がない。家がなくなっていて帰っても避難生活。この頃のストレスは尋常ではなかったと思うが,職員間で話し合い,「利用者様には今できる精一杯の事を笑顔で。それだけは忘れないようにしよう」と,職員一致団結した。職員も数が揃いはじめ,2夜交代制の勤務にできるようになり,帰宅できるようになるが,移動手段がなく,ほとんどの職員がヒッチハイクでの出勤退勤であった。
12日目以降。岩手県の各施設から派遣職員の方々が応援に駆けつけてくれた。派遣職員の方々を目にしたとき,今までの緊張感が解けて強く安堵感を得ることができ,感謝の気持ちでいっぱいだった。派遣職員のお陰様で,今までできていなかった利用者様の日中活動を再開することができ,外を散策したり,レクリェーションをすることができ,利用者様から笑顔が見られるようになった。
ノロウイルスが発生。避難所で感染が広まり,利用者様,職員共に殆んどの方が感染し,職員は感染して発熱,嘔吐,下痢の症状がある中の支援業務にあたった。通常,感染者が出た時点で接触を避けたり,トイレの共同使用を避けるのであるが,避難所ではそれができず,避難所担当医師からも混乱を避けるためにも通常通りの生活をするよう指示があった。
▲第3避難所▼ 4月に入り,全壊して休校中の地元の小学校を再開したいとの要望が強くなり,当施設が移動すれば再開することができることが分かり,予てより当法人が所有している旧ホテルの建物に5月から移動することになった。ところが,ここで問題が発生した。岩手県から,衛生環境が悪く感染症発症の可能性が高いので,山田町を離れ,内陸部にある空き施設へ当面の間引っ越すよう指導を受けたのである。緊急に,保護者様,職員会合を開き話し合った結果,内陸部の施設は200㎞以上離れた場所にあり,保護者様も利用者様の面会ができなくなることや,職員も家庭の事情で半数が退職しなければならなくなり,今の環境より混乱を招くとの結論で,岩手県には衛生管理を徹底することを条件に今の場所で生活できるよう申し出をし,山田町での生活が送れるようになった。食事は,支援物資のパン,自衛隊からの炊き出し弁当。トイレは段ボールで囲まれたポータブルトイレ。歯磨き,洗面はバケツで対応。この状況を乗り切るには,建物内の消毒の徹底,排泄物の処理,食事の準備には細心の注意が必要で,かなりの労力を覚悟していたが,北海道,青森県,岩手県,災害看護支援機構からの派遣職員の皆様,ボランティアの皆様のご尽力のお陰様で無事乗り切ることができた。
▲第4避難所▼ 7月に仮設施設が完成し引っ越し。男性用1棟,女性用1棟のユニット式で1部屋2人用の仮設の建物であった。しかし以前より快適な生活だが,食堂,居間のスペースは以前より狭くなり利用者様間のトラブルが増大することになった。また度重なる環境の変化に適応することができず,体調を崩す利用者様が多々見られるようになった。そうした状況に対応するために,職員を増員し,以前より利用者様に寄り添った支援ができるよう対応してきた。しかし,ここでも問題が発生した。震災の影響で,離職者や人事異動で実務経験者が減少し,8割の職員が新人職員となり,人材育成が急務となった。そして,環境の変化が苦手な利用者様にとっては計り知れないストレスだったと思う。
▲新施設へ▼ 震災後,災害国庫補助金を活用した施設復旧を目指し,国からも建物の早期復旧を急かされるが当時は土地が無い,設計士が見つからない,建築資材の高騰に人手不足が重なり,着工の遅れ,着工するが完成の遅れなど幾多の難題を乗り越え新施設が完成した。平成26年4月1日,その新施設へ引っ越す事ができた。
ここに至るまでには,全国の皆様の温かいご支援と励ましのお言葉を頂きました。また,施設完成後も数多くの個人,団体様に遠方から毎年当施設へ足を運んで頂き,6年経った今でも私達の事を気にかけて頂いております。このご恩は一生忘れることなく,必ずや何かの形で恩返しできればと思っております。その為にも,今私たちにできることは,震災で被災を経験した施設として,災害に強い施設作りをして全国のモデルとなること,沢山のご支援,励ましのお言葉を頂いた方々の事を忘れず,前に,明日に向かって生きていくことだと思っております。
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