☆《自由広場》
日本人として生き,日本人として死んだ台湾の叔父 ⑵
坂本進一郎(秋田県大潟村)
6.2・28事件について ⑵
「2・28事件」は1947年2月27日台北市で煙草売りをしていた林という子連れの寡婦が警察に摘発を受けたことから始まった。 台湾人は蒋介石を祖国復帰と喜んだが,蒋介石は日本が台湾から引き揚げ,権力空白になった台湾に権力の住みかを求めて進駐してきただけであった。台湾は植民地にされたのである。それだけではない。大陸の賄賂,強権政治を持ち込んだので台湾人は怒り,台湾人を内省人,大陸人を外省人あるいは半山(はんやま:半人前という意味)と呼び捨てた。強権や賄賂政治を続けた蒋介石は,台湾民主化運動の育ての親とも言えようか。
強権支配は蒋介石が死去するまで続いた。私が初めて訪台した1967(昭和42)年には,駅にやたらと憲兵が多く,夕食時テーブルを囲んでの団欒で,私が「蒋介石をどう思うか」と質問したところ,隣に座っていた叔父に太股をつねられた。後で叔父に「壁に耳あり,障子に目ありだから,そういう質問は慎むように」と言われてわかったのだが日本人と騒動の主犯者は弾圧されたという。叔父も日本人なので狙われ,一家は山に逃げたという。
7.人となり⑵
ある時,霧社事件(1930年・モーナルーダオを首班とする霧社蕃での抗日蜂起)の舞台である霧社に行ってみたいと言うと,叔父は顔をしかめて「わしは行きたくない」とにべもなかった。後でその気持ちを語った。「昔は生蕃警察は原住民を武力征伐など手荒なことをしたが,わしが生蕃警察をやったころは,蕃童教育に変わって国語(日本語)を教えたり,授産事業などを行った。それだけに生蕃警察の力は絶大であった」泰蔵叔父は続けて言った。「警察の中には現地人を馬鹿にしたり,横暴な者もいて,労賃をピンハネする者もいた。抗日蜂起を平定するのに2ヶ月も要したというから,霧社蕃の原住民も相当不満を持っていたのだろうな。霧社と阿里山は山一つ越えの関係で,あの辺りの警察は総動員されたが俺は警察を辞めていたので巻き込まれないでよかったよ。それにしてもこれら生蕃は日本教育を受けたのに,統治が命令調だったのかな」と残念そうな口ぶりであった。その口ぶりには折角日本教育をしたのにという気持ちと,凄惨な平定のやり方に辟易だという複雑な気持ちも混じっている。人生に無欲恬淡・謙虚な叔父にとって蕃地警官は性に合わなかったのであろう。
ついでに言えば叔父は明治教育を受け,皇民政策を進める行政の一端に携わった者として,あのダムもこのダムも道路も造ってやったと日本人優越の気持ちの根本のところをちらちらと見せた。明治人としての時代の制約を免れなかったようだ。だがある時,「俺はヤソだからな」と聖書の入ったリュックを軽くたたいた。私は「良いことはしなくても,悪いことはするな」という教えをその言動から受け取っている。
1980年2月最後に叔父・叔母に会った時,叔父は高齢で空港まで来られなかった。叔母は私に向かって懇々と言った。「叔父にあなたは日本が祖国か台湾が祖国か聞いた。そしたら叔父は台湾生活が長いので台湾が祖国だと言った。そこで今お墓を造っている」「日本に帰ったら,内地の親戚の住所を教えてくれ。また叔父が死んでも叔母が生きているかぎりは必ず台湾に来るように」こう言うと私が税関の門をくぐるまでジッと見送ってくれた。この姿を見て頭がボーッとするとともに,「早く帰ってきて下さい」という手紙の束が思い浮かび,彼女の義理堅さにも感動した。
私はこの義理堅さは,台湾人の気質・感謝の気持ちからきているのではないかと思っている。余談だが,これに反して中国人の気質・歴史観は単純にして厄介だ。例えば,満洲は中国によると「偽」満州と一口に片付けられる。ところが,「中国文化は世界の中心にあって,世界をあまねく照らす」だから,「この地球に王土ならざる土地はなし」ということになる。この結果満洲国時代の水豊ダム,豊満ダムなどの巨大プロジェクトも「偽満州」の産物として片付けられている。そのくせ日本時代のインフラはチャッカリ利用している。建前は「偽」だが,本音は「資産化」したいということなのであろう。
1980年2月,先述の如く生い立ちからこれまでの生涯を聞き書きした。その時叔父は日本人として生き,日本人として死ぬことに誇りを持っていることを私は感じた。
事実,叔父は日本国籍のまま台湾で私が最後に会ってから1年後の1981(昭和56)年4月死去した。享年87歳。カトリック式の葬儀で天に召されたという。そのことを徐鳳嬌の夫黄清業 ―彼は日本語が堪能― が手紙で伝えてきた。
日本人として生き,日本人として死んだ台湾の叔父 ⑵
坂本進一郎(秋田県大潟村)
6.2・28事件について ⑵
「2・28事件」は1947年2月27日台北市で煙草売りをしていた林という子連れの寡婦が警察に摘発を受けたことから始まった。 台湾人は蒋介石を祖国復帰と喜んだが,蒋介石は日本が台湾から引き揚げ,権力空白になった台湾に権力の住みかを求めて進駐してきただけであった。台湾は植民地にされたのである。それだけではない。大陸の賄賂,強権政治を持ち込んだので台湾人は怒り,台湾人を内省人,大陸人を外省人あるいは半山(はんやま:半人前という意味)と呼び捨てた。強権や賄賂政治を続けた蒋介石は,台湾民主化運動の育ての親とも言えようか。
強権支配は蒋介石が死去するまで続いた。私が初めて訪台した1967(昭和42)年には,駅にやたらと憲兵が多く,夕食時テーブルを囲んでの団欒で,私が「蒋介石をどう思うか」と質問したところ,隣に座っていた叔父に太股をつねられた。後で叔父に「壁に耳あり,障子に目ありだから,そういう質問は慎むように」と言われてわかったのだが日本人と騒動の主犯者は弾圧されたという。叔父も日本人なので狙われ,一家は山に逃げたという。
7.人となり⑵
ある時,霧社事件(1930年・モーナルーダオを首班とする霧社蕃での抗日蜂起)の舞台である霧社に行ってみたいと言うと,叔父は顔をしかめて「わしは行きたくない」とにべもなかった。後でその気持ちを語った。「昔は生蕃警察は原住民を武力征伐など手荒なことをしたが,わしが生蕃警察をやったころは,蕃童教育に変わって国語(日本語)を教えたり,授産事業などを行った。それだけに生蕃警察の力は絶大であった」泰蔵叔父は続けて言った。「警察の中には現地人を馬鹿にしたり,横暴な者もいて,労賃をピンハネする者もいた。抗日蜂起を平定するのに2ヶ月も要したというから,霧社蕃の原住民も相当不満を持っていたのだろうな。霧社と阿里山は山一つ越えの関係で,あの辺りの警察は総動員されたが俺は警察を辞めていたので巻き込まれないでよかったよ。それにしてもこれら生蕃は日本教育を受けたのに,統治が命令調だったのかな」と残念そうな口ぶりであった。その口ぶりには折角日本教育をしたのにという気持ちと,凄惨な平定のやり方に辟易だという複雑な気持ちも混じっている。人生に無欲恬淡・謙虚な叔父にとって蕃地警官は性に合わなかったのであろう。
ついでに言えば叔父は明治教育を受け,皇民政策を進める行政の一端に携わった者として,あのダムもこのダムも道路も造ってやったと日本人優越の気持ちの根本のところをちらちらと見せた。明治人としての時代の制約を免れなかったようだ。だがある時,「俺はヤソだからな」と聖書の入ったリュックを軽くたたいた。私は「良いことはしなくても,悪いことはするな」という教えをその言動から受け取っている。
1980年2月最後に叔父・叔母に会った時,叔父は高齢で空港まで来られなかった。叔母は私に向かって懇々と言った。「叔父にあなたは日本が祖国か台湾が祖国か聞いた。そしたら叔父は台湾生活が長いので台湾が祖国だと言った。そこで今お墓を造っている」「日本に帰ったら,内地の親戚の住所を教えてくれ。また叔父が死んでも叔母が生きているかぎりは必ず台湾に来るように」こう言うと私が税関の門をくぐるまでジッと見送ってくれた。この姿を見て頭がボーッとするとともに,「早く帰ってきて下さい」という手紙の束が思い浮かび,彼女の義理堅さにも感動した。
私はこの義理堅さは,台湾人の気質・感謝の気持ちからきているのではないかと思っている。余談だが,これに反して中国人の気質・歴史観は単純にして厄介だ。例えば,満洲は中国によると「偽」満州と一口に片付けられる。ところが,「中国文化は世界の中心にあって,世界をあまねく照らす」だから,「この地球に王土ならざる土地はなし」ということになる。この結果満洲国時代の水豊ダム,豊満ダムなどの巨大プロジェクトも「偽満州」の産物として片付けられている。そのくせ日本時代のインフラはチャッカリ利用している。建前は「偽」だが,本音は「資産化」したいということなのであろう。
1980年2月,先述の如く生い立ちからこれまでの生涯を聞き書きした。その時叔父は日本人として生き,日本人として死ぬことに誇りを持っていることを私は感じた。
事実,叔父は日本国籍のまま台湾で私が最後に会ってから1年後の1981(昭和56)年4月死去した。享年87歳。カトリック式の葬儀で天に召されたという。そのことを徐鳳嬌の夫黄清業 ―彼は日本語が堪能― が手紙で伝えてきた。
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