☆東日本大震災私は忘れない
忘れてはならないこと
安達 博昭(北海道札幌市)
あれから6年が経とうとしていますが,私自身,当時の記憶が薄れてきていることは否定できません。6度目の3月11日を迎える前に,当時の状況を振り返ってみようと思います。
「あれーっ。ちょっと揺れましたねぇ。」それは,北海道のオホーツク海沿岸にある港町に単身赴任していた時の出来事でした。震度1の地震に反応した職員が発した言葉を聞いて,防災対策のために設置してあるテレビのスイッチを入れました。
飛び込んできた映像は,「東北地方で巨大な地震が発生しました。」と慌てて喋るアナウンサーの姿でした。極めて大変な状況を感じさせるその様子をしばらく見ていると,今まで経験したことのない深刻な事態になっていることが分かってきました。
「マグニチュード9」とか「震度7」だとかいう,甚大な被害を想定させる発生状況が伝わり,しばらく呆気にとられていると,映し出されたのは津波が押し寄せている仙台空港の様子でした。ターミナルビルの2階と思われる所から送られてくる映像から,押し寄せる津波の圧倒的な破壊力を見せつけられたのです。
ややあって,田園地帯をテレビ画面の右から左へと進みながら,家々をなぎ倒していく津波の実況中継が始まりました。走行中の車に迫っては飲みこみ始めた様子を見ていると,とても現実に起きていることとは思えませんでした。
それからは,ずーっとテレビに釘付けでした。時間の経過とともに繰り返される余震や,次々と明らかになっていく被害状況が報道され続け,本当に切ない思いになっていきました。特に衝撃的だったのは,漆黒の海の中のあちこちで,火の手が上がった気仙沼の様子です。映し出された時には目に涙をためていました。
翌日も,朝からテレビをつけっぱなしでした。建物の倒壊や火災などにより壊滅状態となった市街地,津波の襲撃を受けた三陸沿岸各地の変わり果てた様子,テレビを通じてありとあらゆる災難が映し出され続けました。
そんな未曽有の状況についても, 時の経過とともに記憶が少しずつ薄れていく現実。
それでも,忘れないようにしていく努力を続けようと思っています。
あの時,被災者の救出やご遺体の搬送に身を粉にして携わられた自衛官,警察官,消防士の方々の賢明な姿。被災地各地で地域に入って様々な活動をされたボランティアの皆さん。日本全国,世界各地域からの言葉では言い尽くせないほどの善意があったこと。決して忘れてはならないことです。
地域の被害により避難生活を送られている方が未だに数多くいらっしゃいますが,その中でも,放射線物質の放出・拡散により原発周辺の避難区域に指定されている地域にお住まいだった方々は, 故郷に戻ることができずに日本全国に避難されています。
発電所から汚染水は相変わらず海に放流され続けており,完全にコントロールできている状況になく,福島の漁業者の方々の苦労は終わりそうにありません。その他にも産業や観光の面でもどれだけ福島県民に犠牲を強いてきて現在に至っているのか,もう一度思い起こしてみる必要があると考えます。
私自身は,原子力発電所そのものには反対ではありませんが,この数年間,原発なしでも電力不足にはならなかった事実は重いと思っています。何より,原発にとって避けて通れない,使用済み核燃料など廃棄物の問題解決の見通しが立っていないにもかかわらず再稼働させることは誤りであると思うのです。最終処分地がどうなるのかも分からない,プルサーマル計画の要であった高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉も決定し,核燃料サイクルのシステムが確立されていない中で,核廃棄物を増やしていくだけの原発再稼働は理解できないのです。よもや福島の原発事故が示している被害の甚大さを忘れているわけではないでしょう。ここは今一度立ち止まり,冷静に今後の方向性を検討し直す必要があるのではないでしょうか。
福島から避難している子供たちが,いじめにあっている事実を最近知りました。偏見や差別によるこれらの行為には,心が痛み許し難いものがあります。一体どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。避難している福島の子供たちは原発事故の被害者でありますから,支援することがあってもいじめるなどということは,まず人の道に外れることです。「補償金をもらったのだから,金を出せ」というような意味のことを言った子供もいると聞きました。このような発想は子供のものとは思われません。大人の話を聞きかじったうえでのものと思われます。大震災後,「絆」という言葉が日本人としての合言葉のように使われました。あれは一過性のもの,すでに過去の言葉となってしまったのでしょうか。“忘れまい「絆」を!”という思いをしております。
忘れてはならないこと
安達 博昭(北海道札幌市)
あれから6年が経とうとしていますが,私自身,当時の記憶が薄れてきていることは否定できません。6度目の3月11日を迎える前に,当時の状況を振り返ってみようと思います。
「あれーっ。ちょっと揺れましたねぇ。」それは,北海道のオホーツク海沿岸にある港町に単身赴任していた時の出来事でした。震度1の地震に反応した職員が発した言葉を聞いて,防災対策のために設置してあるテレビのスイッチを入れました。
飛び込んできた映像は,「東北地方で巨大な地震が発生しました。」と慌てて喋るアナウンサーの姿でした。極めて大変な状況を感じさせるその様子をしばらく見ていると,今まで経験したことのない深刻な事態になっていることが分かってきました。
「マグニチュード9」とか「震度7」だとかいう,甚大な被害を想定させる発生状況が伝わり,しばらく呆気にとられていると,映し出されたのは津波が押し寄せている仙台空港の様子でした。ターミナルビルの2階と思われる所から送られてくる映像から,押し寄せる津波の圧倒的な破壊力を見せつけられたのです。
ややあって,田園地帯をテレビ画面の右から左へと進みながら,家々をなぎ倒していく津波の実況中継が始まりました。走行中の車に迫っては飲みこみ始めた様子を見ていると,とても現実に起きていることとは思えませんでした。
それからは,ずーっとテレビに釘付けでした。時間の経過とともに繰り返される余震や,次々と明らかになっていく被害状況が報道され続け,本当に切ない思いになっていきました。特に衝撃的だったのは,漆黒の海の中のあちこちで,火の手が上がった気仙沼の様子です。映し出された時には目に涙をためていました。
翌日も,朝からテレビをつけっぱなしでした。建物の倒壊や火災などにより壊滅状態となった市街地,津波の襲撃を受けた三陸沿岸各地の変わり果てた様子,テレビを通じてありとあらゆる災難が映し出され続けました。
そんな未曽有の状況についても, 時の経過とともに記憶が少しずつ薄れていく現実。
それでも,忘れないようにしていく努力を続けようと思っています。
あの時,被災者の救出やご遺体の搬送に身を粉にして携わられた自衛官,警察官,消防士の方々の賢明な姿。被災地各地で地域に入って様々な活動をされたボランティアの皆さん。日本全国,世界各地域からの言葉では言い尽くせないほどの善意があったこと。決して忘れてはならないことです。
地域の被害により避難生活を送られている方が未だに数多くいらっしゃいますが,その中でも,放射線物質の放出・拡散により原発周辺の避難区域に指定されている地域にお住まいだった方々は, 故郷に戻ることができずに日本全国に避難されています。
発電所から汚染水は相変わらず海に放流され続けており,完全にコントロールできている状況になく,福島の漁業者の方々の苦労は終わりそうにありません。その他にも産業や観光の面でもどれだけ福島県民に犠牲を強いてきて現在に至っているのか,もう一度思い起こしてみる必要があると考えます。
私自身は,原子力発電所そのものには反対ではありませんが,この数年間,原発なしでも電力不足にはならなかった事実は重いと思っています。何より,原発にとって避けて通れない,使用済み核燃料など廃棄物の問題解決の見通しが立っていないにもかかわらず再稼働させることは誤りであると思うのです。最終処分地がどうなるのかも分からない,プルサーマル計画の要であった高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉も決定し,核燃料サイクルのシステムが確立されていない中で,核廃棄物を増やしていくだけの原発再稼働は理解できないのです。よもや福島の原発事故が示している被害の甚大さを忘れているわけではないでしょう。ここは今一度立ち止まり,冷静に今後の方向性を検討し直す必要があるのではないでしょうか。
福島から避難している子供たちが,いじめにあっている事実を最近知りました。偏見や差別によるこれらの行為には,心が痛み許し難いものがあります。一体どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。避難している福島の子供たちは原発事故の被害者でありますから,支援することがあってもいじめるなどということは,まず人の道に外れることです。「補償金をもらったのだから,金を出せ」というような意味のことを言った子供もいると聞きました。このような発想は子供のものとは思われません。大人の話を聞きかじったうえでのものと思われます。大震災後,「絆」という言葉が日本人としての合言葉のように使われました。あれは一過性のもの,すでに過去の言葉となってしまったのでしょうか。“忘れまい「絆」を!”という思いをしております。
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