☆ふるさと 紹 介
古代へ通じる里山~群馬県みどり市
野口 広鎮(千葉県野田市)
子供のころは,群馬県・赤城山の南麓に住んでいた。
町は赤城山に向かってなだらかな登り坂がつづく。東側は渡良瀬川が深い渓谷を拵え,川に沿った崖上には国鉄足尾線(現,わたらせ渓谷鉄道)の蒸気機関車が,黒い煙をはきながら走っていた。
町は,明治から昭和二十年代半ばまでは,養蚕と足尾銅山の宿場町として賑わいを見せていた。しかし,二十年代の終りごろになると,銅山は鉱毒事件と採掘量の減少により廃業に追いこまれる。 でも, 養蚕と織物と小麦や野菜を生産する在郷町だったので,過疎化にならずにすんでいた。その町を大間々町(おおまままち、現,みどり市)と呼んだ。
わたしは小学校に入ったとき,毎朝やってくるお兄さんから,納豆を買うのがお手伝いの一つになった。お兄さんは,自転車の荷台に取りつけた木の箱から,ワラに巻かれた納豆を取り出し,わたしに渡す。わたしはお金を払う。お兄さんは「まいど,ありがとう,元気に学校へ行ってね」と笑顔で自転車を漕ぎ,坂道を上がって行く。朝食は,麦の混じったお米に納豆かけご飯と,お新香と味噌汁だけだった。
学校の休みの日に友だちと近所のお兄ちゃんに連れられて,裏山へ行った。山といっても丘陵だ。畑の隅には農家が点在する。垣根代わりに植えられた桑の木も葉を落とし,草枯れの畑の中に足を踏み入れる。
――地面を見ながらゆっくりと進む。ピカッ,と光った。その物は二,三歩先にあった。ガラスの破片か,瀬戸物か……やおら手にすると,石のかけらで,黒と茶色と半透明の模様が縦に交じり,刃物のように先が尖っていた。寄ってきたお兄ちゃんは,「ヤジリだよっ,弓矢の先っちょにつける,あれだよ」と興奮する。ヤジリは三つ四つほど拾えた。友だちも同じ数ほど取った。それから,日曜のたびにヤジリ探しをやる。取ったヤジリはミカン箱を代用した宝箱に入れた。
小学二年生のときのことだ。昭和二十四年十月の新聞は,『日本に旧石器時代があった』と大きく報じた。それは,考古学上の大発見であった。
わが家から三キロメートルほど下った笠懸村岩宿(現,群馬県みどり市)という所で,今までよりも二万年以上も前の石器が出た。発見したのは,地元の一青年で,ちまたの考古学研究者だという。だが,名前は記されていなかった。
「一青年……相沢さんだよ! 納豆売りのお兄さんだ」
父は大きな声を上げた。母も寄ってきて,身内のように喜んだ。
相沢さんは赤城南麓の町や村々で納豆を売り歩く傍ら,切通しの崖を見つけては土を掘ったという。石器は関東ローム層(火山灰)の赤土の中から見つかった。地表から一・五メートルほど下にあった,と。
日本には旧石器時代(縄文時代以前)は存在しない,と学者たちは主張していた。赤城山や浅間山が噴火している場所で,ヒトも獣も棲めるはずがないと,いうのが定説だった。やがて,相沢さんと某大学との大がかりの調査により,発見した石器は旧石器時代の物とされた。
そんな偉業をやったお兄さんは,いつもの自転車に乗って納豆を売りにきた。
わたしが拾ったヤジリを見せ,あった場所も言う。すると,お兄さんは石をじっと見て答えた。
「これは,ジョウモンジダイの石器だろうね。でも,大切にしてね」
その後,二十年ほどが過ぎた,昭和四十四年のある日のことだ。
広島市に住むわたしに, 父から一冊の本が送られてきた。表紙に,『岩宿の発見
――幻の旧石器を求めて――』相沢忠洋とあった。わたしは,夢中で読んだ。「あとがきに代えて」の中で,「ローム層が堆積された崖で土と石器と向き合っていると、遠い昔の人たちの家族だんらんの息遣いが聞こえた、それが孤独に耐える力になった」とつづられてあった。相沢さんの不遇な少年時代には叶わなかった家族のふれあいを,古代に求めるような言葉だった。相沢さんは,それからも多くの遺跡を発見し,平成元年にこの世を去った。その本は,今も私の本棚の貴賓席に座っている。
先祖の墓参りの帰りに,『岩宿博物館』にはしばしば立ち寄った。
その日は遺跡が見つかった周辺の里山を一歩一歩,のんびり歩く。遠くに赤城山が見え,風が木々の葉をサワサワと揺する。葉音は三万五千年前の古代人の話し声のようにも聞こえてくる。 ゆったりと進む時間を感じていると,今の時間と過去の時間が重なる瞬間に,時空の向こうに,もう一つの古里があるように思えた。
古代へ通じる里山~群馬県みどり市
野口 広鎮(千葉県野田市)
子供のころは,群馬県・赤城山の南麓に住んでいた。
町は赤城山に向かってなだらかな登り坂がつづく。東側は渡良瀬川が深い渓谷を拵え,川に沿った崖上には国鉄足尾線(現,わたらせ渓谷鉄道)の蒸気機関車が,黒い煙をはきながら走っていた。
町は,明治から昭和二十年代半ばまでは,養蚕と足尾銅山の宿場町として賑わいを見せていた。しかし,二十年代の終りごろになると,銅山は鉱毒事件と採掘量の減少により廃業に追いこまれる。 でも, 養蚕と織物と小麦や野菜を生産する在郷町だったので,過疎化にならずにすんでいた。その町を大間々町(おおまままち、現,みどり市)と呼んだ。
わたしは小学校に入ったとき,毎朝やってくるお兄さんから,納豆を買うのがお手伝いの一つになった。お兄さんは,自転車の荷台に取りつけた木の箱から,ワラに巻かれた納豆を取り出し,わたしに渡す。わたしはお金を払う。お兄さんは「まいど,ありがとう,元気に学校へ行ってね」と笑顔で自転車を漕ぎ,坂道を上がって行く。朝食は,麦の混じったお米に納豆かけご飯と,お新香と味噌汁だけだった。
学校の休みの日に友だちと近所のお兄ちゃんに連れられて,裏山へ行った。山といっても丘陵だ。畑の隅には農家が点在する。垣根代わりに植えられた桑の木も葉を落とし,草枯れの畑の中に足を踏み入れる。
――地面を見ながらゆっくりと進む。ピカッ,と光った。その物は二,三歩先にあった。ガラスの破片か,瀬戸物か……やおら手にすると,石のかけらで,黒と茶色と半透明の模様が縦に交じり,刃物のように先が尖っていた。寄ってきたお兄ちゃんは,「ヤジリだよっ,弓矢の先っちょにつける,あれだよ」と興奮する。ヤジリは三つ四つほど拾えた。友だちも同じ数ほど取った。それから,日曜のたびにヤジリ探しをやる。取ったヤジリはミカン箱を代用した宝箱に入れた。
小学二年生のときのことだ。昭和二十四年十月の新聞は,『日本に旧石器時代があった』と大きく報じた。それは,考古学上の大発見であった。
わが家から三キロメートルほど下った笠懸村岩宿(現,群馬県みどり市)という所で,今までよりも二万年以上も前の石器が出た。発見したのは,地元の一青年で,ちまたの考古学研究者だという。だが,名前は記されていなかった。
「一青年……相沢さんだよ! 納豆売りのお兄さんだ」
父は大きな声を上げた。母も寄ってきて,身内のように喜んだ。
相沢さんは赤城南麓の町や村々で納豆を売り歩く傍ら,切通しの崖を見つけては土を掘ったという。石器は関東ローム層(火山灰)の赤土の中から見つかった。地表から一・五メートルほど下にあった,と。
日本には旧石器時代(縄文時代以前)は存在しない,と学者たちは主張していた。赤城山や浅間山が噴火している場所で,ヒトも獣も棲めるはずがないと,いうのが定説だった。やがて,相沢さんと某大学との大がかりの調査により,発見した石器は旧石器時代の物とされた。
そんな偉業をやったお兄さんは,いつもの自転車に乗って納豆を売りにきた。
わたしが拾ったヤジリを見せ,あった場所も言う。すると,お兄さんは石をじっと見て答えた。
「これは,ジョウモンジダイの石器だろうね。でも,大切にしてね」
その後,二十年ほどが過ぎた,昭和四十四年のある日のことだ。
広島市に住むわたしに, 父から一冊の本が送られてきた。表紙に,『岩宿の発見
――幻の旧石器を求めて――』相沢忠洋とあった。わたしは,夢中で読んだ。「あとがきに代えて」の中で,「ローム層が堆積された崖で土と石器と向き合っていると、遠い昔の人たちの家族だんらんの息遣いが聞こえた、それが孤独に耐える力になった」とつづられてあった。相沢さんの不遇な少年時代には叶わなかった家族のふれあいを,古代に求めるような言葉だった。相沢さんは,それからも多くの遺跡を発見し,平成元年にこの世を去った。その本は,今も私の本棚の貴賓席に座っている。
先祖の墓参りの帰りに,『岩宿博物館』にはしばしば立ち寄った。
その日は遺跡が見つかった周辺の里山を一歩一歩,のんびり歩く。遠くに赤城山が見え,風が木々の葉をサワサワと揺する。葉音は三万五千年前の古代人の話し声のようにも聞こえてくる。 ゆったりと進む時間を感じていると,今の時間と過去の時間が重なる瞬間に,時空の向こうに,もう一つの古里があるように思えた。
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