☆《自由広場》
52年振りの沖縄回顧旅行(1)
岡本 崇(京都府木津川市)
1963年(S38)11月(大学卒業の5ヶ月前)に,学友3人でパスポートと,ドルを持って沖縄諸島を旅した。5日,高崎駅を出発して,東海道線経由で九州を半周してから,鹿児島から船で那覇に向かった。当時は池田内閣時代で佐藤内閣が始まる1年前。この年はベトナム戦争開戦3年目で,沖縄が返還される9年前であった。 鹿児島を出港する前日(9日)は,福岡県大牟田市の三井三池炭鉱で,死者458名,一酸化炭素中毒患者839名を出す大爆発事故が発生し,その夜には,横浜市鶴見区で死者161名,重軽傷者120名を出す鶴見事故(横須賀線列車脱線事故)が発生しており,「魔の土曜日」と呼ばれた。沖縄本島・石垣島・宮古島を旅して,鹿児島港に帰り着いた翌日(22日)は,キャロライン現駐日大使のお父さんである,ケネディ元大統領がテキサス州ダラスで暗殺された日であった。 今回も,昔と同じメンバーではあるが,私は関空,杉浦捷之・武田順治の両名は羽田空港から,2015年6月22日に那覇に向かって飛び立った。前回は,4ヶ月前に建造されたばかりの「ひめゆり丸」で鹿児島から那覇港まで22時間もかかったが,飛行機は2時間少しと比較にならないほど速い。 空港近くでレンタカーを借りて,日航ホテルに行く。19階の部屋から眺めると,那覇の町はコンクリート造りの民家が多いせいか重圧感がある。前回は,ユースホステルや民宿ばかりに宿泊したが,昔に比べて緑も多く,モノレールまで走っている。 当時は琉球大学であった跡地には首里城が整備され,観光の目玉になっていた。首里城では米国人に,「守禮之邦」とはどういう意味かと聞かれて,「ウエルカムだ」と適当に答えていたように思うが,今回は,欧米人はほとんどいなくて,中国人ばかりだから,漢字を聞いてくる外国観光客はいない。 23日は糸満市での「沖縄戦70年慰霊追悼式」に参列。52年前には9歳であった安倍晋三総理と,6歳であったキャロライン・ケネディー駐日大使も出席された。1960年に日米新安保条約に調印したのが岸信介(晋三の祖父)であり,沖縄返還を成し遂げた佐藤栄作は岸の弟。岸は,猛反対を受けた安保改定が「きちんと評価されるには50年はかかる」という言葉を残す。確かにその後,世論調査では8割の支持率を得たが,その安保の改憲を打ち出しているのが安倍総理。普天間飛行場の辺野古移転問題では, 翁長沖縄県知事と溝が出来,総理は知事との会食もせず4時間後に帰京された。 その後,南城市に行き玉泉洞を見たが,東洋で一番美しい鍾乳洞といわれるだけあって吃驚した。ここの最初の調査が行われたのが,私達の訪問した4年後というから,当時は何もなかった。 24日は,普天間基地を経由して中城・勝連城・座喜味城跡などの城巡りをして,伊計島にも行き,残波岬のホテルで夕食。前回,沖縄本島では友人にジープを運転してもらい,砂ぼこりで真っ白になりながら島内を見学した。ベトナム戦争の最中であるから,米軍のトラックがよく来る。その度に道路の端に退避した記憶が残っている。今回は私の運転で628㎞走破したが,舗装も完璧でエアコンもあるので快適であった。 25日は,辺野古基地を訪問。基地反対の座り込み現場で道を聞き,普天間基地代替施設予定地が見える,基地反対テント村に行く。どこかの労働組合の観光バスが1台きて説明を受けていたので便乗する。万座毛のホテルで昼食を取り,ウェートレスにいろいろ聞くもあまり知らない。中国の女性であると後で分かった。日航ホテルに戻りプールで泳いだ後,国際通りに行き夕食。中国人や台湾人やタイ人もいたが,欧米人は見かけなかった。予想に反して,飛行機の爆音も無く静かであったが,19時頃,2階のレストランの窓下を見ると,基地反対のデモ行進が静かに行われていた。 26日は,瀬底ビーチ・海洋博公園・古宇利島など,素晴らしい海を満喫。今帰仁城跡では,中嶺盛治さんに案内いただいたが,風鈴仏桑華が印象に残った。52年前には,赤い仏桑華が描かれた琉球漆器の置物を買っている。玉陵を見学した後,ホテルに戻り,那覇最後の夕食をとる。その日のニュースによると,チュニジア,クウェート,フランス,ソマリアの4か国で相次いだイスラム過激派による襲撃事件の死者は,少なくとも計116人に達した模様である。 27日は,32万都市に大変身した那覇市を瞼に納めてからホテルをチェックアウト。琉球庭園のある識名園に行く。本土より1ヶ月も早くセミが鳴いていた。珍しいベニトンボも発見。近くの識名霊園墓地を見る。ここには三線野村流の始祖,野村安趙の墓もあるらしい。立派な墓地と,新聞死亡広告に,故人の孫やイトコの名前まで載せている沖縄の風習には驚く。15時15分のANAで次の訪問地,宮古島に飛び立つ。
52年振りの沖縄回顧旅行(1)
岡本 崇(京都府木津川市)
1963年(S38)11月(大学卒業の5ヶ月前)に,学友3人でパスポートと,ドルを持って沖縄諸島を旅した。5日,高崎駅を出発して,東海道線経由で九州を半周してから,鹿児島から船で那覇に向かった。当時は池田内閣時代で佐藤内閣が始まる1年前。この年はベトナム戦争開戦3年目で,沖縄が返還される9年前であった。 鹿児島を出港する前日(9日)は,福岡県大牟田市の三井三池炭鉱で,死者458名,一酸化炭素中毒患者839名を出す大爆発事故が発生し,その夜には,横浜市鶴見区で死者161名,重軽傷者120名を出す鶴見事故(横須賀線列車脱線事故)が発生しており,「魔の土曜日」と呼ばれた。沖縄本島・石垣島・宮古島を旅して,鹿児島港に帰り着いた翌日(22日)は,キャロライン現駐日大使のお父さんである,ケネディ元大統領がテキサス州ダラスで暗殺された日であった。 今回も,昔と同じメンバーではあるが,私は関空,杉浦捷之・武田順治の両名は羽田空港から,2015年6月22日に那覇に向かって飛び立った。前回は,4ヶ月前に建造されたばかりの「ひめゆり丸」で鹿児島から那覇港まで22時間もかかったが,飛行機は2時間少しと比較にならないほど速い。 空港近くでレンタカーを借りて,日航ホテルに行く。19階の部屋から眺めると,那覇の町はコンクリート造りの民家が多いせいか重圧感がある。前回は,ユースホステルや民宿ばかりに宿泊したが,昔に比べて緑も多く,モノレールまで走っている。 当時は琉球大学であった跡地には首里城が整備され,観光の目玉になっていた。首里城では米国人に,「守禮之邦」とはどういう意味かと聞かれて,「ウエルカムだ」と適当に答えていたように思うが,今回は,欧米人はほとんどいなくて,中国人ばかりだから,漢字を聞いてくる外国観光客はいない。 23日は糸満市での「沖縄戦70年慰霊追悼式」に参列。52年前には9歳であった安倍晋三総理と,6歳であったキャロライン・ケネディー駐日大使も出席された。1960年に日米新安保条約に調印したのが岸信介(晋三の祖父)であり,沖縄返還を成し遂げた佐藤栄作は岸の弟。岸は,猛反対を受けた安保改定が「きちんと評価されるには50年はかかる」という言葉を残す。確かにその後,世論調査では8割の支持率を得たが,その安保の改憲を打ち出しているのが安倍総理。普天間飛行場の辺野古移転問題では, 翁長沖縄県知事と溝が出来,総理は知事との会食もせず4時間後に帰京された。 その後,南城市に行き玉泉洞を見たが,東洋で一番美しい鍾乳洞といわれるだけあって吃驚した。ここの最初の調査が行われたのが,私達の訪問した4年後というから,当時は何もなかった。 24日は,普天間基地を経由して中城・勝連城・座喜味城跡などの城巡りをして,伊計島にも行き,残波岬のホテルで夕食。前回,沖縄本島では友人にジープを運転してもらい,砂ぼこりで真っ白になりながら島内を見学した。ベトナム戦争の最中であるから,米軍のトラックがよく来る。その度に道路の端に退避した記憶が残っている。今回は私の運転で628㎞走破したが,舗装も完璧でエアコンもあるので快適であった。 25日は,辺野古基地を訪問。基地反対の座り込み現場で道を聞き,普天間基地代替施設予定地が見える,基地反対テント村に行く。どこかの労働組合の観光バスが1台きて説明を受けていたので便乗する。万座毛のホテルで昼食を取り,ウェートレスにいろいろ聞くもあまり知らない。中国の女性であると後で分かった。日航ホテルに戻りプールで泳いだ後,国際通りに行き夕食。中国人や台湾人やタイ人もいたが,欧米人は見かけなかった。予想に反して,飛行機の爆音も無く静かであったが,19時頃,2階のレストランの窓下を見ると,基地反対のデモ行進が静かに行われていた。 26日は,瀬底ビーチ・海洋博公園・古宇利島など,素晴らしい海を満喫。今帰仁城跡では,中嶺盛治さんに案内いただいたが,風鈴仏桑華が印象に残った。52年前には,赤い仏桑華が描かれた琉球漆器の置物を買っている。玉陵を見学した後,ホテルに戻り,那覇最後の夕食をとる。その日のニュースによると,チュニジア,クウェート,フランス,ソマリアの4か国で相次いだイスラム過激派による襲撃事件の死者は,少なくとも計116人に達した模様である。 27日は,32万都市に大変身した那覇市を瞼に納めてからホテルをチェックアウト。琉球庭園のある識名園に行く。本土より1ヶ月も早くセミが鳴いていた。珍しいベニトンボも発見。近くの識名霊園墓地を見る。ここには三線野村流の始祖,野村安趙の墓もあるらしい。立派な墓地と,新聞死亡広告に,故人の孫やイトコの名前まで載せている沖縄の風習には驚く。15時15分のANAで次の訪問地,宮古島に飛び立つ。
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戦争の犠牲になった松の木 |