☆《自由広場》
古希過ぎて,百名山 (2)
伊藤 晃(埼玉県所沢市)
利尻岳は標高こそは低いものの,海岸近くからすぐに登るので標高差は1,500m以上あり,おまけに頂上近辺は火山礫の急な道でなかなか侮れない山です。私は八合目近くで火山礫に足を取られ,苦しみながら登っているうちに突然,両太ももの痙攣に見舞われ,強烈な痛みで一歩も歩けなくなりました。(弱みの一つが早速出てしまいました。)出足を阻まれ,これでは百名山どころかこの山を無事に下りるのも難しいかなと,ボクシングの新人が初戦で勇躍リングに上がった途端にいきなり強烈なカウンターパンチを浴びてダウンしたような情けない気分でした。 この時私を助けてくれたのはワンゲルのT先輩が教えてくれて,持参していた筋肉痙攣の特効薬である「コムレケア」でした。別に薬の宣伝するつもりはありませんが,これを飲んだらたちどころに痙攣が治り,何とか登頂できました。その後もこの薬には何回も助けられました。有り難いのは先輩と薬です。 こんなこともあってその後の山行も,行動中はいつも楽しみよりも不安ばかりでした。「道が消えてしまった。雨が降りそうだ。暗くなってきたが陽のあるうちに目的地に着けるのか。膝痛や筋肉痙攣の予兆が現れてきた,どうしよう。食料がなくなった。今飲む水が最後だが次の水場は涸れていないか。(北海道で)ヒグマのホカホカの落し物を見たが,怖い! 等々」そんなヤバイことやドジなことをいくつも経験しながら,結果的には当初の計画どおり2011年には2座,2012年に18座,そして2013年には4月末から10月15日までに実に23座(月平均4座)を登り,ヘロヘロになりながら何とか深田久弥の日本百名山を完登しました。100座目の四阿山登頂時の正直な感想は喜びよりも「よかった! もう登らなくてもいいんだ」というものでした。 70歳を過ぎてほとんど一人で登り終えることができた要因は,一つには学生時代に北・南アルプスのうち合計23座等の難関を登り終えていたことです。それとまだ中年並の体力があったこと,そして家族の理解があったことだと思います。 ところで,よく「どこの山が一番良かったか,一番大変だったか」と聞かれますが,これは答えるのが難しく,強いて言えば「どの山も最高だったし,また楽な山は一つ もなかった」と言うほかありません。敢えて言えば,この3年では好天に恵まれてハッピーだったのが白山(はくさん:石川県・岐阜県,2,702m),白馬岳(しろうまだ け:長野県・富山県,2,932m)で,いずれも高山植物の宝庫であり何度も足を止め写真を撮り,至福の時を過ごしました。これらの山では,私が山頂に立った時に儀式のようにして必ず食べる一個のコーヒーゼリーが,パリの3ツ星レストランのフルコースよりも何倍もおいしく思えたのは言うまでもありません。 逆にすごく苦戦した山の一つは祖母山(そぼさん:大分県・宮崎県,1,756m)でかなりの雨の中,疲労困憊し何度ももうやめようと思いながら歯を食いしばって何とか登頂しました。ところが下山で道に迷ったために焦って滑落し,途中眼についた木や岩につかまり何とか止まったのですが,これには少し肝を冷やしました。滑落の原因は直接的には弱みの一つである加齢によるバランスの悪化です。しかし間接的な原因は朝から雨で体調も悪かったので,天気の回復を待ったためにスタートがかなり遅れたことでした。下山時は薄暗くなってしまい,焦って急ぎ過ぎました。前述の「早発ち,早着き」の原則を守らなかった咎めが出てしまいました。 最後に百名山登山決断のきっかけになった宮之浦岳の頂上は一面ガスで1m先が見えず「あーあ,俺はやっぱり雨男」と,あきらめながらもスマホの「雨雲レーダー」を見ていたら1時間後には晴れることがわかりました。たまたま頂上で一緒になった京都の若いアパレル店員,埼玉の中年の県庁職員といろいろな話をしながら待っていたら予報どおりにガスが晴れ,快晴になりました。真っ青な南国の海の上に開聞岳(かいもんだけ:鹿児島県,924m,百名山の一つ)が光っていました。南海の屋久島の頂上は緑のカーペットと純白の花崗岩の巨石に覆われ,そこでの世代を超えた仲間との交歓はまさに山上の,そして人生の楽園でした。 こうして私の「古希過ぎて,百名山」は変化に満ち,アドベンチャラスに終わったのですが,やってみて良かったことは70歳を過ぎても「やると決めたことは必ずやる」という勇気・意志と緻密な計画・冷静な行動,それと健康があればそれなりのことはやれるという,今後の生き方についての自信をいただいたことでした。 チャップリン曰く「人生に必要なのは愛と勇気と多少のお金」 (……ところで今度は何をやろうかな?……)
古希過ぎて,百名山 (2)
伊藤 晃(埼玉県所沢市)
利尻岳は標高こそは低いものの,海岸近くからすぐに登るので標高差は1,500m以上あり,おまけに頂上近辺は火山礫の急な道でなかなか侮れない山です。私は八合目近くで火山礫に足を取られ,苦しみながら登っているうちに突然,両太ももの痙攣に見舞われ,強烈な痛みで一歩も歩けなくなりました。(弱みの一つが早速出てしまいました。)出足を阻まれ,これでは百名山どころかこの山を無事に下りるのも難しいかなと,ボクシングの新人が初戦で勇躍リングに上がった途端にいきなり強烈なカウンターパンチを浴びてダウンしたような情けない気分でした。 この時私を助けてくれたのはワンゲルのT先輩が教えてくれて,持参していた筋肉痙攣の特効薬である「コムレケア」でした。別に薬の宣伝するつもりはありませんが,これを飲んだらたちどころに痙攣が治り,何とか登頂できました。その後もこの薬には何回も助けられました。有り難いのは先輩と薬です。 こんなこともあってその後の山行も,行動中はいつも楽しみよりも不安ばかりでした。「道が消えてしまった。雨が降りそうだ。暗くなってきたが陽のあるうちに目的地に着けるのか。膝痛や筋肉痙攣の予兆が現れてきた,どうしよう。食料がなくなった。今飲む水が最後だが次の水場は涸れていないか。(北海道で)ヒグマのホカホカの落し物を見たが,怖い! 等々」そんなヤバイことやドジなことをいくつも経験しながら,結果的には当初の計画どおり2011年には2座,2012年に18座,そして2013年には4月末から10月15日までに実に23座(月平均4座)を登り,ヘロヘロになりながら何とか深田久弥の日本百名山を完登しました。100座目の四阿山登頂時の正直な感想は喜びよりも「よかった! もう登らなくてもいいんだ」というものでした。 70歳を過ぎてほとんど一人で登り終えることができた要因は,一つには学生時代に北・南アルプスのうち合計23座等の難関を登り終えていたことです。それとまだ中年並の体力があったこと,そして家族の理解があったことだと思います。 ところで,よく「どこの山が一番良かったか,一番大変だったか」と聞かれますが,これは答えるのが難しく,強いて言えば「どの山も最高だったし,また楽な山は一つ もなかった」と言うほかありません。敢えて言えば,この3年では好天に恵まれてハッピーだったのが白山(はくさん:石川県・岐阜県,2,702m),白馬岳(しろうまだ け:長野県・富山県,2,932m)で,いずれも高山植物の宝庫であり何度も足を止め写真を撮り,至福の時を過ごしました。これらの山では,私が山頂に立った時に儀式のようにして必ず食べる一個のコーヒーゼリーが,パリの3ツ星レストランのフルコースよりも何倍もおいしく思えたのは言うまでもありません。 逆にすごく苦戦した山の一つは祖母山(そぼさん:大分県・宮崎県,1,756m)でかなりの雨の中,疲労困憊し何度ももうやめようと思いながら歯を食いしばって何とか登頂しました。ところが下山で道に迷ったために焦って滑落し,途中眼についた木や岩につかまり何とか止まったのですが,これには少し肝を冷やしました。滑落の原因は直接的には弱みの一つである加齢によるバランスの悪化です。しかし間接的な原因は朝から雨で体調も悪かったので,天気の回復を待ったためにスタートがかなり遅れたことでした。下山時は薄暗くなってしまい,焦って急ぎ過ぎました。前述の「早発ち,早着き」の原則を守らなかった咎めが出てしまいました。 最後に百名山登山決断のきっかけになった宮之浦岳の頂上は一面ガスで1m先が見えず「あーあ,俺はやっぱり雨男」と,あきらめながらもスマホの「雨雲レーダー」を見ていたら1時間後には晴れることがわかりました。たまたま頂上で一緒になった京都の若いアパレル店員,埼玉の中年の県庁職員といろいろな話をしながら待っていたら予報どおりにガスが晴れ,快晴になりました。真っ青な南国の海の上に開聞岳(かいもんだけ:鹿児島県,924m,百名山の一つ)が光っていました。南海の屋久島の頂上は緑のカーペットと純白の花崗岩の巨石に覆われ,そこでの世代を超えた仲間との交歓はまさに山上の,そして人生の楽園でした。 こうして私の「古希過ぎて,百名山」は変化に満ち,アドベンチャラスに終わったのですが,やってみて良かったことは70歳を過ぎても「やると決めたことは必ずやる」という勇気・意志と緻密な計画・冷静な行動,それと健康があればそれなりのことはやれるという,今後の生き方についての自信をいただいたことでした。 チャップリン曰く「人生に必要なのは愛と勇気と多少のお金」 (……ところで今度は何をやろうかな?……)
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雑 感 |
本物語 |
言 葉 の 不 思 議 |