有限会社 三九出版 - メモ風旅日記・奈良


















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メモ風旅日記・奈良
小櫃 蒼平(神奈川県相模原市)

午後二時三十分,ホテルに着いた。
部屋の窓からは,左ななめ前方に興福寺の北円堂と五重塔,その向こうに春日山と高円山,そして正面はるかに金剛山,やや右手のほうに生駒山と信貴山がみえる。
晩い春特有のほわっとした空気の中で,それらの風景は柔らかく落ち着いている。もともと奈良というところはくっきりとした輪郭をもったまちではない。とりわけ春はパステル調の色合いに包まれた日が多い。だからこんどの旅が奈良日和といった日からはじまるのはしあわせである。
窓際の椅子に腰を下ろし,ぼんやりと遠くの景色を眺める。これは身についている日常性を脱ぎ捨てるための儀式だ。この儀式のなかでわたしはひとりの旅人になる。曖昧な存在になることが旅の作法としていいことかどうかは分からない。しかしわたしの腕は日常からの逃避であり,わたしが訪れるまちやむらに「日常」という時間が流れている以上,このぼんやりと過ごす時間は必要なひとつの儀式なのだ。
ところで「日常」を背負わない旅人としてのわたしは,実際どのように自分をこのまちにかかわらせていったらいいのだろう。おのれを「一個の目」と化すこと――それである。つまり,芭蕉のように西行のように,ただひたすらおのれの目に映るものだけをみること,おのれのみたものだけを信じること。それを流儀とすることである。
もちろん,「日常性を脱ぎ捨てる」といったところで簡単に脱ぎ捨てられるものではない。何をみても生活のかげはついてまわるだろう。どこかの寺の美しい庭をみればわが物としたいとおもうだろうし,古物屋で容(かたち)のよい茶碗をみれば手に入れたいとおもうだろう。では,芭蕉や西行のように〈みる〉とはどういう意味か。ひと言でいえば,ものに依ってみる,対象に依ってみる,ということである。いまの自分の生活やいまの時代に〈規矩〉を置かない,かりに自分の生活にかかわるとしても,あくまでも対象からのうながしに依ってそれを受け止める。そうすることによってしぜんに芭蕉や西行の眼差しをもつことになるだろう。つまり,近代合理主義による解釈を放棄し,対象の発するサインをすなおに受け止めること。それはまた,わたしのなかに眠っている歴史的存在としての自分をも目覚めさせるだろう。「一個の目」と化すこと――それはわたしが〈歴史〉に出会うための方法でもあるのだ。
旅の中での自分のありようはきまった。が,せっかちになる必要はあるまい。旅人としての本格的な徘徊は明日からでよい。気持ちも少し落ち着いたので,わたしは近くを少し歩いてみることにした。
近鉄奈良駅の東寄りのアーケードを抜けて左に折れ,少し行ったところから興福寺の寺域に入る。南円堂,北円堂,そして中金堂のかたわらを通り,五重塔の前に出る。塔の真向かいのベンチに腰を下ろし,しばらく塔を眺める。この塔は悪くない。しかし薬師寺の東塔,法隆寺の五重塔などのようにさわがれることはない。ここに一個屹立する塔は,散在するほかの堂棟もそうであるが,まことに寒々として無愛想である。しかもその無愛想にはどこか寂しさがただよう。わたしはこの質朴な,男性的な塔にいつも同情の念を禁じえない。原因はいろいろあるのだろうが,わたしのみるところ,それは興福寺建築群の全体と部分,あるいは部分と部分の緊張のなさという,伽藍配置の問題に帰着するようにおもわれる。つまり中心がないのだ。
この「中心がない」というのはひとつの比喩であって,そこには現在の仏教界=宗教界の状況の明らかな沈滞があるようにおもわれる。中心の喪失――すなわち宗教の多くがひとびとの魂の拠り所としての本質的なはたらきを失っているのではないか。本質を失って形象(かたち)は無意味である。そう考えると,薬師寺の塔や法隆寺の塔に対するひとびとの関心の内容がちょっと怪しくなる。ではなぜ,二寺の塔は興福寺のそれに比べてひとびとを魅了するのか,いまのわたしにはわからない。ここではおもったことを率直に書き留めておくだけだ。おのれの目に映ったもの,おのれの考えたこと,それだけが確かなことなのだから――。
わたしは五重塔をあとにして三条通りを東に歩き,春日大社の大鳥居の前を右に,荒池の手前を左に曲がり,緩やかな下り坂を楽しみながら鷺池に出る。中央の浮御堂でしばし休憩。鷺池というがこの日鷺は一羽も見あたらない。
ホテルの近くを散策するだけのつもりが,思わぬ遠出になってしまった。鷺池から飛火野の通りに上がり,そのままバス通りを東大寺前に出て,ふたたび興福寺を抜けてホテルに帰った。近鉄奈良駅のあたりにはすでにふだんの「わたし」がたくさんいた。このまちで生活するひとびとの帰宅の時間のはじまりである。「日常性」が色濃くまちを彩っている。〈旅人であるわたし〉が鮮明になる。この感じは爽やかだった。
部屋に入ると,わたしはふたたび窓際の椅子に腰を下ろし,ぼんやり外を眺める。外はまだ明るいが,その明るさの中にすでに夕暮れの気配がある。まもなく鬼の時間だ。わたしは鬼に出会わぬように密かに酒亭に身を隠さなければならない。
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