☆《自由広場》
ザビエルを日本に導いた3人の男3.船 出
山本 年樹(神奈川県川崎市)
(1)イタリア巡礼
パリでの神学修業を終えたザビエルたちはまずアルプス越えをしてイタリアのベネチアに集結しました。 そこから聖地イエルサレムへの巡礼船に乗り込む計画でしたが,
当時はオスマン帝国が勢力を拡大し, 聖地へは行けないことが判明しました。 そこで,まずローマを目ざしました。バチカンのシスチナ礼拝堂にて,ミケランジェロという画家が「最後の審判」という大作を制作中という話題が町に流れていました。
ザビエルたちと面会した教皇パウロ3世は,彼らの博識ぶりと真摯な行動に感銘を受け,全員の司祭叙階を許可しました。イエズス会神父が誕生しました。会の総長にはロヨラを選出し,ロヨラの意向で会士たちは当面イタリア各地で托鉢などの修行に専念することになりました。
ザビエルは,父ハッスが学んだボローニアに行き,学生たちに説教したり,地元のサンタルチア修道院での黙想などに努めていました。
イエズス会は異端派との論争や会の正式認可をめぐって,苦境に立たされたこともありましたが,ロヨラ総長以下の固い結束力で徐々にその評価を高めていきました。
(2)ポルトガル海洋王国
一方,リスボン王宮では時の国王ジョアン3世がアジアまで広がる海洋王国の統治に頭を悩ませていました。父王マヌエル1世は,大航海時代の覇者としてインド,マラッカなどを制圧し,幸運王という名前まで付けられました。当時の人口わずか百万強の小国が世界の海に君臨したのです。
しかし,小国の悲しさ,海外派遣の守備兵士には限りがあり,異教徒の地をどのように治めたら良いのか? 敬虔王と呼ばれ,カトリックへの信仰が厚いジョアン3世は,その頃パリから帰国していたバーバラ学院のゴウベイア院長にアドバイスを求めました。そして院長からイエズス会を推薦されるのです。異教徒をキリスト教徒に改宗させ,正しい神の道に導く。信仰に従って世界のどの地にも行って行動することから「神の軍隊」と評されるイエズス会こそポルトガル海外領土へ派遣される神父としてふさわしいと説きました。ジョアン3世も武力ではなく信仰の力で広大な領土を治めるとの発想に全面的に同意したのです。
(3)ザビエルへの指名
ポルトガル国王の大使がイエズス会ロヨラ総長の許を訪れ,東洋への宣教師派遣を要請しました。ロヨラは当初ポルトガル人のシモンと大使が親しくしていたボヴァディリャの2名を選びました。ところがポルトガルへ出発の日にボヴァディリャが急病となり動けなくなったのです。 そこでロヨラは右腕とも信頼していたザビエルを呼び,「フランシスコ神父,神のお声があなたを呼んでいます。あなたにインドに行ってもらいたい。」と告げます。それを聞くと,ザビエルははらはらと涙を流し,「総長,もちろんお受けします。私はこの日が来るのを待っていました。」と述べてザビエルのインド行きが決まりました。
(4)リスボン出航
ザビエルとシモンは4ヵ月の旅をして,リスボンに到着し,早速ジョアン3世,カタリーナ王妃に謁見しました。国王も王妃もザビエルの誠実な人柄が気に入り,王宮の人々も争って告解したり,説教を聞きに集まって来るようになりました。
当時のリスボンには, 世界中から金, 胡椒,砂糖,アフリカの奴隷などが集められ,繁栄を謳歌していました。ジェロニモス修道院も金箔を使った豪華な建築の最中でした。ザビエルには,贅沢三昧で働こうとしない市民の姿がやゝ気にかかっていました。
結局,シモンは残り,ザビエルがインドに行くことになりました。1541年4月,ザビエルは,着任するインド新総督と共に,旗艦サンチャゴ号700トンに乗って,リスボン港を出航しました。風まかせの帆船の長旅は困難を極め,喜望峰を回る船は5隻に2隻しか戻らないといわれていました。かつては「苦難の岬」という名前でしたが,国王が東方への期待を込めて改名したのです。
ザビエルを日本に導いた3人の男3.船 出
山本 年樹(神奈川県川崎市)
(1)イタリア巡礼
パリでの神学修業を終えたザビエルたちはまずアルプス越えをしてイタリアのベネチアに集結しました。 そこから聖地イエルサレムへの巡礼船に乗り込む計画でしたが,
当時はオスマン帝国が勢力を拡大し, 聖地へは行けないことが判明しました。 そこで,まずローマを目ざしました。バチカンのシスチナ礼拝堂にて,ミケランジェロという画家が「最後の審判」という大作を制作中という話題が町に流れていました。
ザビエルたちと面会した教皇パウロ3世は,彼らの博識ぶりと真摯な行動に感銘を受け,全員の司祭叙階を許可しました。イエズス会神父が誕生しました。会の総長にはロヨラを選出し,ロヨラの意向で会士たちは当面イタリア各地で托鉢などの修行に専念することになりました。
ザビエルは,父ハッスが学んだボローニアに行き,学生たちに説教したり,地元のサンタルチア修道院での黙想などに努めていました。
イエズス会は異端派との論争や会の正式認可をめぐって,苦境に立たされたこともありましたが,ロヨラ総長以下の固い結束力で徐々にその評価を高めていきました。
(2)ポルトガル海洋王国
一方,リスボン王宮では時の国王ジョアン3世がアジアまで広がる海洋王国の統治に頭を悩ませていました。父王マヌエル1世は,大航海時代の覇者としてインド,マラッカなどを制圧し,幸運王という名前まで付けられました。当時の人口わずか百万強の小国が世界の海に君臨したのです。
しかし,小国の悲しさ,海外派遣の守備兵士には限りがあり,異教徒の地をどのように治めたら良いのか? 敬虔王と呼ばれ,カトリックへの信仰が厚いジョアン3世は,その頃パリから帰国していたバーバラ学院のゴウベイア院長にアドバイスを求めました。そして院長からイエズス会を推薦されるのです。異教徒をキリスト教徒に改宗させ,正しい神の道に導く。信仰に従って世界のどの地にも行って行動することから「神の軍隊」と評されるイエズス会こそポルトガル海外領土へ派遣される神父としてふさわしいと説きました。ジョアン3世も武力ではなく信仰の力で広大な領土を治めるとの発想に全面的に同意したのです。
(3)ザビエルへの指名
ポルトガル国王の大使がイエズス会ロヨラ総長の許を訪れ,東洋への宣教師派遣を要請しました。ロヨラは当初ポルトガル人のシモンと大使が親しくしていたボヴァディリャの2名を選びました。ところがポルトガルへ出発の日にボヴァディリャが急病となり動けなくなったのです。 そこでロヨラは右腕とも信頼していたザビエルを呼び,「フランシスコ神父,神のお声があなたを呼んでいます。あなたにインドに行ってもらいたい。」と告げます。それを聞くと,ザビエルははらはらと涙を流し,「総長,もちろんお受けします。私はこの日が来るのを待っていました。」と述べてザビエルのインド行きが決まりました。
(4)リスボン出航
ザビエルとシモンは4ヵ月の旅をして,リスボンに到着し,早速ジョアン3世,カタリーナ王妃に謁見しました。国王も王妃もザビエルの誠実な人柄が気に入り,王宮の人々も争って告解したり,説教を聞きに集まって来るようになりました。
当時のリスボンには, 世界中から金, 胡椒,砂糖,アフリカの奴隷などが集められ,繁栄を謳歌していました。ジェロニモス修道院も金箔を使った豪華な建築の最中でした。ザビエルには,贅沢三昧で働こうとしない市民の姿がやゝ気にかかっていました。
結局,シモンは残り,ザビエルがインドに行くことになりました。1541年4月,ザビエルは,着任するインド新総督と共に,旗艦サンチャゴ号700トンに乗って,リスボン港を出航しました。風まかせの帆船の長旅は困難を極め,喜望峰を回る船は5隻に2隻しか戻らないといわれていました。かつては「苦難の岬」という名前でしたが,国王が東方への期待を込めて改名したのです。
投票数:13
平均点:10.00
校正おそるべし」が引き継ぎ事項 |
本物語 |
複雑系の科学(その2)―73億個の世界― |