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☆東日本大震災私は忘れない

               天は教えてくれた
              荒井 忠男(千葉県松戸市)


その日,私は市ヶ谷の日本棋院で,「福井会」という碁会に参加していた。プロ棋士の福井正明9段に碁を打ってもらう会だ。一般の人たちの対局場である棋院2階の大ホールの片隅に会の席が設けられ,福井先生は同時に2,3人を相手に指導碁を打つ。
その時,私はもう先生との対局を終え,他の人たちの指導碁を見ていた。グラッと来た瞬間のことは,よく覚えていない。建物全体がギシギシ揺れ動き,碁盤の上の碁石は散らばり落ちた。先生は,あっという間に姿を消した。後日,その逃げ足の速さを訊ねたところ,「あのビルのあちこちにガタが来ていることを,よく知っていたからだ」と。築後40年ばかりの棋院の8階建てビルは,確かに古ぼけてはいたが,幸い先生が恐れたようなことは起きなかった。
大ホールにいた4,50人は,てんでに急いで階段に向かって逃げ出した。私の碁仲間の1人は一見,少しも動じないようだったが,実はかなり重症の糖尿病の上,心臓バイパス手術もしているので,身軽には動けないのだ。80過ぎぐらいのおばあさんが席から立ち上がれずに,「止まれーっ。止まってくれーっ」と叫んでいた。地震に「止まれ」と言っているのだ。くすりと笑ってしまった。
外に出て棋院の前の道路に立っていると,強い余震が続き,薄暗く曇った空が不気味に揺れた。 JR市ヶ谷駅に行き,しばらく雑踏の中にいたが,電車が動く気配がないので,また棋院に戻った。棋院は帰れなくなった人たちのために1階だけを開放した。そこには,かなり大勢が碁を打てる部屋もあり,どうやら時間はつぶせそうだと思った。
1階玄関ホールには,大きなテレビがあった。通常はプロ棋士の対局の実況や「囲碁・将棋チャンネル」の番組を放映しているのだが,この時は地震情報が流されていた。情報は断片的で混乱していたが,東北地方を震源とする巨大地震であることは分かった。すぐに,津波のことが頭に浮かんだ。
何時ごろだっただろうか。どこかの町が津波で全滅状態だ,という情報がテレビから流れた。それは陸前高田だったかもしれない。「町が全滅する?」。そんなことが,ありうるのか。私は耳を疑った。それが本当なら,一つの町だけでなく,地域全体の海岸で同じことが起きているに違いない。情報がまだ集まらないだけだ。とんでもな いことが起きている。肝がつぶれる思いがした。
その少し後ぐらいだっただろうか。見るからにエキセントリックな感じの老人が,棋院の職員にテレビの放送を碁に変えるように要求した。その日は棋聖戦の挑戦手合いが行われていて,中継放送中だったのだ。テレビは碁の放送に変えられた。この国に未曾有ともいうべき災難が降りかかっているのに,オレは知らんよとばかり碁を見ようというのか? 私はその老人に憎しみを感じた。
ここで徹夜するしかないかと覚悟していたのだが, 午後11時過ぎぐらいに地下鉄が動いた。住まいのある松戸までは行けないが,娘が芝に住んでいて,そこへ転がり込んだ。地震が発生した時,娘は1歳4カ月の孫娘を抱いてエレベーターの止まったマンションの7階から外へ逃げたという。娘の夫は勤め先から帰れなかった。
翌朝,JRは動いたが,常磐線に乗るのに上野駅で2時間も待たされた。 たどり着いたわが家では,書棚の本が散乱し,食器棚の中で食器類がかなり割れていたが,家具類の転倒などはなかった。食器棚の上に置いてあった蜂蜜の瓶が落ちて割れ,じゅうたんがベトベトになっていたのには閉口した。地震の時,家内は船橋にいた。タクシーに乗るのに7時間,並んだという。
次々に明らかになる被災地の惨状には,呆然とするばかりだった。気持ちが萎え,しばらくは脱力感から抜け出せなかった。被災者や被災地に対して私にできることと言えば,分相応の寄付だけだった。被災地には,今日に至るまで行ったことはない。 1000年に一度とも言われる,あの自然災害には大きな天の啓示があったのだ,と私は思いたい。「原発を止めよ」という天啓が。福島原発事故は,きわどくあそこで収まり,危機一髪,東日本壊滅を免れた。だが,放射性物質の処理や廃炉には,いまだメドが立たない有様ではないか。他の原発も無事故であっても,原発から出る高レベル放射性物質は半永久的に日本のどこかに残り続けるのだ。その間,破滅的な天災や事故は当然,起こりうる。人間と原発は共存できない,特に地震と火山の国,日本では。天は,そう教えてくれたのではないか。
原発を即座に全廃せよ,とまでは言わない。脱原発を近未来の目標として,それに向かって努力を積み重ねる。それがあの大震災を後世に生かす道ではないだろうか。
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