有限会社 三九出版 - 悲劇の街フランス・ストラスブールでの世界会議


















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☆超音波医学国際会議出席異聞(14)
            悲劇の街フランス・ストラスブールでの世界会議

                    和賀井 敏夫(神奈川県川崎市)

 1972年初め,フランス・ストラスブールで開催される第1回世界乳癌会議会長のグロー教授から,本会議の「乳癌の超音波診断」シンポジウムへ参加してほしいと,会議登録料および滞在費会議負担での招待状が来たのには,全く関係のない学会からだけに驚いた。同時に,乳癌の超音波診断法を超音波専門学会以外の乳癌一般の学会で発表する好機と思い,また,独仏の国境にあるストラスブールの町の悲惨な歴史にも関心があったので,招待を受諾し演題および抄録を送付した。
 6月26日,ストラスブール空港に到着した。空港ターミナルビルの屋上に,世界乳癌会議の大きい歓迎の横断幕が掲げてあるのを見て,緊張感に襲われた。ところが,入国検査で私だけが残され,何のことやら不明のまま,特別室で長いこと待たされた挙げ句,理由も分からないまま入国OKとなった。私がこの飛行機ただ一人の日本人乗客だったので,当時日本人過激派が起こしたテルアビブ事件の影響と思われた。空港ロビーの世界乳癌学会の案内所で,私の宿泊は駅前のラインホテルと知らされた。
 ホテルで小休息後,今回の世界乳癌会議の会場となったストラスブール大学医学部を歩いて訪ねた。ホテルから歩いて10分位のところで,途中のストラスブールの町は,多くの美しい運河が流れている落ち着いた静かな町だった。夕刻7時より,グロー会長夫妻による各国代表や招待演者の歓迎パーティが,欧州連合(EC)発祥地として精神的に最も重要な宮殿のような館で行われた。パーティには30名ほどが出席,会長のグロー教授は,ストラスブール大学放射線科教授とのことを初めて知らされた。教授ご夫妻の温かい歓迎を受けたのは感激だった。
 翌27日,世界乳癌会議が開始された。メイン会場の医学部大階段講堂が約1000名の出席で超満員になっているのを見て,日本から私一人の出席のことや,日本の乳癌に対する関心度の低さが,何とも残念に思われた。グロー会長の素晴らしい開会講演の中で,突然,日本のゲイシャガールの美しいカラースライドが出てきたのにはびっくり。これは,日本で乳癌の発生が少ないのは,このように広い帯(ベルト)で胸を締め,乳房が大きくならないようにしているからと述べていたのには,当時の欧州における日本の乳癌に対する認識の低さにがっかりした
 開会式終了後,学術展示会場を訪ねた。私の展示ブースでは,私どもが開発した
水浸法超音波診断装置の写真と,多くの各種乳癌諧調性超音波断層写真を説明文とともに展示した。この展示が大評判で,展示に集まった多くの会員に対する説明に大変だった。またこの展示会で,今回の世界乳癌会議主催のストラスブール大学独特の「乳癌科」の研究内容の展示は興味深かった。しかし乳癌超音波断層像については,手動接触式を用いた低レベルだったのには,むしろ私の講演に自信を持つこととなった。
 ホテルにストラスブール大学耳鼻科に留学中の梅田先生から電話があり,会議参加者名簿の中にただ一人の日本人の名前を見つけ,懐かしくなったとのことだった。夕刻,ホテルまで迎えに来てくれ,梅田先生のマンションに案内され,奥様手料理の素晴らしい日本式のスキヤキをご馳走になったのは大感激だった。最近の日本の事情についていろいろと話した。また例のテルアビブ事件について,フランスではこの事件は日本の一部の過激派がやったことで,日本政府が代表を派遣してお詫びするのはおかしいと思っているとのことだった。食後,ライン河畔をドライブで案内してもらった。すぐ近くの郊外に,あの歴史的なマジノラインのトーチカの残骸が,往時のままさりげなく残っているのを見て,第二次大戦の歴史が欧州ではまだ生々しく残っていることや,この町の三度の大戦による独仏帰属変遷の悲劇の歴史を考えさせられた。
 学会第3日目,私の出番の「乳癌の超音波診断」シンポジウムが,主会場の大階段講堂で開催された。演者は私を含め3名で,講演時間はそれぞれ30分だった。他の二人の講演はレベルの低いものであり,最後の私の講演での多くの乳癌症例の諧調性超音波断層像による診断についての報告は抜群であった。講演終了後,3演者による総合討論会が行われたが,全てフランス語で行われたのは,全く憤慨ものだった。
 翌6月30日,第1回世界乳癌会議の最終日,午前中,ストラスブール大学の「乳癌科」に招待され,改めて私の研究業績を講演,日本の乳癌研究の実績を認識してもらったのは幸いだった。その後,ノートルダム大聖堂や,中世のアルザス地方の町並みが残っている「小フランス」を案内してもらった。この一角の建物は黒い木組で縁取られたドイツ風の建築で,窓の綺麗な花が美しい運河に映えた風景には感激だった。夕刻よりオランジェリー公園で優雅なお別れパーティが開かれ,アルザス地方の吹奏楽を聞きながら,これで初めての世界乳癌会議無事終了と感無量だった。



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