☆東日本大震災——私は忘れない☆
吉村昭『三陸海岸大津波』と共に
廣澤 千秋(茨城県取手市)
2011年3月11日,私は自宅で過ごしていた。家内と二人だけだった。少し遅い昼食を終えた午後2時46分ごろ,突然の大揺れに驚愕した。今まで体験したことのない激しい揺れが長く続いた。あまりにも振動が止まらないので屋内にとどまるべきか,外へ飛び出した方が無事なのか,判断に苦しみ,家から出たり入ったりしていた。恥ずかしい話ではあるが,どこに身を置くのが安全なのか判断しかねたのである。
とっさに,この地でこれだけの強い揺れを感じたのには,どこかそう遠くない地方でとてつもない大地震が起きたのだろうと思った。テレビにスイッチを入れると宮城県北部で強い地震が発生,震度7を記録したと報じていた。
2015年2月の警察庁発表によれば,この震災による死者は15890人,行方不明2589人といわれる。地震発生後,マスメディアは生々しい映像を日本全国の茶の間に流した。無辜の民が激流に流され,大型漁船が岩壁を乗り越え,家々や車が大波に翻弄された。過去に目にしたことのない光景ばかりであった。何と恐ろしいことが起きたのだろう,と目を疑った。なかでも,石巻市の大川小学校は全校児童108人中74人が死亡・行方不明となり,教職員10名も犠牲となった。同じ石巻市では,送迎中の幼稚園児5人が大波に呑みこまれる惨事も起きている。子供たちの悲劇は思い出す度に胸が痛み,哀切である。
吉村昭という作家がいた。2006年に他界している。残された膨大な作品の一つに『三陸海岸大津波』(文春文庫)という著書がある。亡くなったのが「3.11」の大津波が起こる5年前であるから,この人が存命だったらどんな感想を述べただろう。45年も前に世に出た本であるにもかかわらず3月11日の東日本大震災を契機に注目を集め,売れ行きを伸ばしているという。解説を含めても190ページ程度である。フィクションに基づく文芸作品ではなく,明治29年(1896年),昭和8年(1933年),昭和35年(1960年)と明治以降,三たび三陸海岸を襲った大津波の証言・記録を掲載している。次世代への警告の書として学ぶべき貴重な資料である。
著者は昭和30年代後半,初めて三陸海岸の岩手県田野畑村を訪れて以来,何度もこの地へ足を運び,住人の肉声を頼りに精力的に調査・取材に取り組んだ。これらの記録のなかには今回(3.11)の大津波と同じ体験を綴ったものが数多く見られる。
たとえば,今回の「3.11」では,大波がいったん引いたので,もう津波はやって来ないと信じ,寒いので家に戻ったところ,その後,再び大波が押し寄せ,多くの命が失われている。同じことが『三陸海岸大津波』にも出ている。この書には昭和8年(1933年)の大津波を経験した人の記録もいくつか残されており,岩手県田老町(現宮古市)の田老尋常高等小学校の児童の作文も含まれている。子供の無心な目に映った津波だが,それだけに生々しいものがある。一例(一部抜粋)を紹介しよう。
つ な み 尋二 佐藤 トミ
大きなじしんがゆれたので、着物を着たりおびをしめたりしてから、おじい
さんと外へ出て川へ行ってみました。其の時はまだ川の水はひけませんから、
着物を着てねました。そうしておっかなくていると、外でつなみだとさわぎま
した。私は、ぶるぶるふるえて外に出ましたら、おじさんが私をそって(背負
って)山へはせ(走り)ました。山でつなみを見ました。白いけむりのようで、
おっかない音が聞こえました。火事もあって、みんながなきました。
東北地方は明治以降,前述のように3回の大津波が襲来している。1896年(明治29年)の三陸大津波では26360人,1933年(昭和8年)では2995人,1960年(昭和35年)のチリ地震では105人の死者を出している。
いくら,吉村昭のような誠実で良心的な作家が苦心して,歩き回り,取材し,後世のために優れた記録を残しても,いつか,またやって来るであろう大津波の悲劇を少しでも食い止めることが出来なければ,吉村のせっかくの遺志が無駄になるというものだろう。人を悲しみのどん底へ突き落す大惨事も,初めのうちは深刻に記憶にとどめるものの,時間の経過とともに日常の利便性や効率を優先し,初心を忘れてしまうのが人間の性(さが)である。吉村昭も「結局は海の近くに戻ってしまうんだよな」と語っている。
吉村昭が著した『三陸海岸大津波』には,リアリティがある。私事であるが,私の祖先の眠る寺の墓石も被害に遭った。「3.11」で再度見直された吉村の後世への貴重な警告を忘れずに,しっかりと脳裏に刻みたいと思う。と共に,多くの方に,とりわけ行政を司る地域のリーダーにはぜひ本書に目を通して貰いたいと願うものである。
吉村昭『三陸海岸大津波』と共に
廣澤 千秋(茨城県取手市)
2011年3月11日,私は自宅で過ごしていた。家内と二人だけだった。少し遅い昼食を終えた午後2時46分ごろ,突然の大揺れに驚愕した。今まで体験したことのない激しい揺れが長く続いた。あまりにも振動が止まらないので屋内にとどまるべきか,外へ飛び出した方が無事なのか,判断に苦しみ,家から出たり入ったりしていた。恥ずかしい話ではあるが,どこに身を置くのが安全なのか判断しかねたのである。
とっさに,この地でこれだけの強い揺れを感じたのには,どこかそう遠くない地方でとてつもない大地震が起きたのだろうと思った。テレビにスイッチを入れると宮城県北部で強い地震が発生,震度7を記録したと報じていた。
2015年2月の警察庁発表によれば,この震災による死者は15890人,行方不明2589人といわれる。地震発生後,マスメディアは生々しい映像を日本全国の茶の間に流した。無辜の民が激流に流され,大型漁船が岩壁を乗り越え,家々や車が大波に翻弄された。過去に目にしたことのない光景ばかりであった。何と恐ろしいことが起きたのだろう,と目を疑った。なかでも,石巻市の大川小学校は全校児童108人中74人が死亡・行方不明となり,教職員10名も犠牲となった。同じ石巻市では,送迎中の幼稚園児5人が大波に呑みこまれる惨事も起きている。子供たちの悲劇は思い出す度に胸が痛み,哀切である。
吉村昭という作家がいた。2006年に他界している。残された膨大な作品の一つに『三陸海岸大津波』(文春文庫)という著書がある。亡くなったのが「3.11」の大津波が起こる5年前であるから,この人が存命だったらどんな感想を述べただろう。45年も前に世に出た本であるにもかかわらず3月11日の東日本大震災を契機に注目を集め,売れ行きを伸ばしているという。解説を含めても190ページ程度である。フィクションに基づく文芸作品ではなく,明治29年(1896年),昭和8年(1933年),昭和35年(1960年)と明治以降,三たび三陸海岸を襲った大津波の証言・記録を掲載している。次世代への警告の書として学ぶべき貴重な資料である。
著者は昭和30年代後半,初めて三陸海岸の岩手県田野畑村を訪れて以来,何度もこの地へ足を運び,住人の肉声を頼りに精力的に調査・取材に取り組んだ。これらの記録のなかには今回(3.11)の大津波と同じ体験を綴ったものが数多く見られる。
たとえば,今回の「3.11」では,大波がいったん引いたので,もう津波はやって来ないと信じ,寒いので家に戻ったところ,その後,再び大波が押し寄せ,多くの命が失われている。同じことが『三陸海岸大津波』にも出ている。この書には昭和8年(1933年)の大津波を経験した人の記録もいくつか残されており,岩手県田老町(現宮古市)の田老尋常高等小学校の児童の作文も含まれている。子供の無心な目に映った津波だが,それだけに生々しいものがある。一例(一部抜粋)を紹介しよう。
つ な み 尋二 佐藤 トミ
大きなじしんがゆれたので、着物を着たりおびをしめたりしてから、おじい
さんと外へ出て川へ行ってみました。其の時はまだ川の水はひけませんから、
着物を着てねました。そうしておっかなくていると、外でつなみだとさわぎま
した。私は、ぶるぶるふるえて外に出ましたら、おじさんが私をそって(背負
って)山へはせ(走り)ました。山でつなみを見ました。白いけむりのようで、
おっかない音が聞こえました。火事もあって、みんながなきました。
東北地方は明治以降,前述のように3回の大津波が襲来している。1896年(明治29年)の三陸大津波では26360人,1933年(昭和8年)では2995人,1960年(昭和35年)のチリ地震では105人の死者を出している。
いくら,吉村昭のような誠実で良心的な作家が苦心して,歩き回り,取材し,後世のために優れた記録を残しても,いつか,またやって来るであろう大津波の悲劇を少しでも食い止めることが出来なければ,吉村のせっかくの遺志が無駄になるというものだろう。人を悲しみのどん底へ突き落す大惨事も,初めのうちは深刻に記憶にとどめるものの,時間の経過とともに日常の利便性や効率を優先し,初心を忘れてしまうのが人間の性(さが)である。吉村昭も「結局は海の近くに戻ってしまうんだよな」と語っている。
吉村昭が著した『三陸海岸大津波』には,リアリティがある。私事であるが,私の祖先の眠る寺の墓石も被害に遭った。「3.11」で再度見直された吉村の後世への貴重な警告を忘れずに,しっかりと脳裏に刻みたいと思う。と共に,多くの方に,とりわけ行政を司る地域のリーダーにはぜひ本書に目を通して貰いたいと願うものである。
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