《自由広場》
振り返ってみると…・私の中の読書抄
橋本 恭明(埼玉県小川町)
高齢者の仲間入りして早3年経過。そろそろ身の回りを整理する時期とも思える。現役の仕事から退いて10数年,実に多忙な人生が全く異なる時間と空間に放り出されている日々の実感である。書斎・本棚には実に懐かしい文献書籍が,溢れている。暇に任せて本棚の一冊一冊を手にして眺めてみると,面白い発見が多々あって,生きた時代やその時の知的な欲求や関心が思い出される。
私が生を享けたのは昭和16年8月, 12月には日本の軍隊が真珠湾を激しく攻撃し,太平洋戦争が勃発した。終戦(敗戦)は昭和20年だから戦中派とも戦後派とも言えない世代なのかもしれない。敢えて言えば,まだ物事を理解できない幼少期の焼跡派とも思う。マーク・ゲインの「ニッポン日記・上」(昭和26年11月5日発行,井本威夫訳,筑摩書房)では1945年12月5日東京の日記に「横浜に近づくにつれて日本の損害がはっきりしてきた。見渡す限り一面の廃墟だった。……ここはまさに人間がこしらえ上げた砂漠だった。……車の往来はかなり頻繁だったが、みんなアメリカの、それも軍の車だった。日本人たちはほこりにまみれてヨタヨタ歩いていたが苦にしている様も見えなかった……」と記している。(……は紙数の関係で省略)
また,「戦後生活文化史 私たちの生きた道」(昭和41年6月15日初版発行,尾崎秀樹・山田宗睦著,弘文堂)には次の記述がある。「…戦争の悪夢は去った。荒廃した焦土には、生活が戻ってくる。どこまでも青い空の下で、私たちは生活のよろこびをかみしめた。既成の権威は失墜し秩序は混乱した。民主化の諸方策が相次いで天下ってくる。しかし戦争を放棄した平和憲法もパンを保障してくれなかった。私たちは食うために働いた。いや食うことだけがすべてだったといってもよい。」。最近の「戦火のレシピ太平洋戦争下の食を知る」(2002年8月9日第1刷発行,斎藤美奈子著,岩波アクティブ新書)でも,「戦後の食糧難は、戦時中以上に悲惨だったといわれる。主食は相変わらずのさつまいも。焼け跡のバラックで生活をスタートさせた人々をまっていたのは、『たけのこ生活』であった。」と記している。幼少年期ではこのような時代や社会の生活環境に放り出されていたが,成長するにつれて戦後日本の歴史と,現実を学び,所与の生活環境の意味を知るようになった。戦後70年の現在に至るまでに,平和憲法の下で一度も戦火を交えずに,課題は多々あったにしても,日本は平和で豊かな社会を築きあげてきた。
70年の歴史は紛れもなく平和憲法下の歴史である。ところで「憲法は一般に、抽象的な規定が多いために、弾力的な解釈が可能である。その結果、時の権力の担い手が、支配の便宜や階級的利益のためにほんらいの規範的意味をねじまげて、『公権的解釈』を押しとおすことも少なくない。」(昭和38年11月15日発行,「日本における憲法動態の分析」,小林直樹著,岩波書店)との記述がある。※※※なぁるほど,鋭い指摘。
さて,日本国憲法の前文では「国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民が享受する」とある。このもとで民主主義の原理・基本的人権の保障,そして第九条では戦争の放棄を定め,永久平和主義を掲げている。「焼跡からのデモクラシー 上 草の根の占領期体験」(2014年3月18日第一刷発行,吉見義明著,岩波現代全書)によれば「…民法学者戒能通孝は日本が再び戦争に近づきつつあると感じられた1949年に民衆の中にある戦争忌避の感情が強いという事実が平和国家を築く基礎であるとして…日本人の大部分がもう一度原子爆弾や空襲を受けたいとは思っていないことも確かであって、この希望こそいってみれば平和国家の基礎である」と述べている。
最近,戦中派の方の「フィリッピンでの戦争体験とその後」と題する講演を聞く機会があった。「昭和9年ミンダナオ島で生まれ、6人兄弟姉妹、昭和16年日本に帰国する直前に、太平洋戦争に遭遇、家族全員が米軍の砲撃・爆撃の中ジャングルへ避難、過酷な避難生活を強いられ弟が爆死、兄は戦病死、終戦後引き揚げ直前に母が病死して死線をさ迷いながらの地獄絵から生還した」とのことであった。戦火の中で生死を彷徨う極限状況を生き抜いた方の悲惨な話に実に胸が痛くなった。
戦後日本を振り返り,現代を見つめると,戦争を放棄した平和への希求こそ,国民の戦後の基盤でもあるにも拘わらず, 国際社会の変化とはいえ戦後70年の節目に平和的外交努力の乏しい中で,日米同盟の強化・解釈改憲・安全保障法制等の動向は,果たして「積極的平和主義」と言えるのだろうか? 立憲主義にも反し国民世論や憲法学者等の多数の見解もないがしろにしている状況は、危機的である。先に挙げた前文では「…政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように決意し…」とも明記している。「積極的平和主義」どころか,政府による「積極的戦争主義」と思える法制等に,多くの疑問と危惧を強く抱いている。
振り返ってみると…・私の中の読書抄
橋本 恭明(埼玉県小川町)
高齢者の仲間入りして早3年経過。そろそろ身の回りを整理する時期とも思える。現役の仕事から退いて10数年,実に多忙な人生が全く異なる時間と空間に放り出されている日々の実感である。書斎・本棚には実に懐かしい文献書籍が,溢れている。暇に任せて本棚の一冊一冊を手にして眺めてみると,面白い発見が多々あって,生きた時代やその時の知的な欲求や関心が思い出される。
私が生を享けたのは昭和16年8月, 12月には日本の軍隊が真珠湾を激しく攻撃し,太平洋戦争が勃発した。終戦(敗戦)は昭和20年だから戦中派とも戦後派とも言えない世代なのかもしれない。敢えて言えば,まだ物事を理解できない幼少期の焼跡派とも思う。マーク・ゲインの「ニッポン日記・上」(昭和26年11月5日発行,井本威夫訳,筑摩書房)では1945年12月5日東京の日記に「横浜に近づくにつれて日本の損害がはっきりしてきた。見渡す限り一面の廃墟だった。……ここはまさに人間がこしらえ上げた砂漠だった。……車の往来はかなり頻繁だったが、みんなアメリカの、それも軍の車だった。日本人たちはほこりにまみれてヨタヨタ歩いていたが苦にしている様も見えなかった……」と記している。(……は紙数の関係で省略)
また,「戦後生活文化史 私たちの生きた道」(昭和41年6月15日初版発行,尾崎秀樹・山田宗睦著,弘文堂)には次の記述がある。「…戦争の悪夢は去った。荒廃した焦土には、生活が戻ってくる。どこまでも青い空の下で、私たちは生活のよろこびをかみしめた。既成の権威は失墜し秩序は混乱した。民主化の諸方策が相次いで天下ってくる。しかし戦争を放棄した平和憲法もパンを保障してくれなかった。私たちは食うために働いた。いや食うことだけがすべてだったといってもよい。」。最近の「戦火のレシピ太平洋戦争下の食を知る」(2002年8月9日第1刷発行,斎藤美奈子著,岩波アクティブ新書)でも,「戦後の食糧難は、戦時中以上に悲惨だったといわれる。主食は相変わらずのさつまいも。焼け跡のバラックで生活をスタートさせた人々をまっていたのは、『たけのこ生活』であった。」と記している。幼少年期ではこのような時代や社会の生活環境に放り出されていたが,成長するにつれて戦後日本の歴史と,現実を学び,所与の生活環境の意味を知るようになった。戦後70年の現在に至るまでに,平和憲法の下で一度も戦火を交えずに,課題は多々あったにしても,日本は平和で豊かな社会を築きあげてきた。
70年の歴史は紛れもなく平和憲法下の歴史である。ところで「憲法は一般に、抽象的な規定が多いために、弾力的な解釈が可能である。その結果、時の権力の担い手が、支配の便宜や階級的利益のためにほんらいの規範的意味をねじまげて、『公権的解釈』を押しとおすことも少なくない。」(昭和38年11月15日発行,「日本における憲法動態の分析」,小林直樹著,岩波書店)との記述がある。※※※なぁるほど,鋭い指摘。
さて,日本国憲法の前文では「国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民が享受する」とある。このもとで民主主義の原理・基本的人権の保障,そして第九条では戦争の放棄を定め,永久平和主義を掲げている。「焼跡からのデモクラシー 上 草の根の占領期体験」(2014年3月18日第一刷発行,吉見義明著,岩波現代全書)によれば「…民法学者戒能通孝は日本が再び戦争に近づきつつあると感じられた1949年に民衆の中にある戦争忌避の感情が強いという事実が平和国家を築く基礎であるとして…日本人の大部分がもう一度原子爆弾や空襲を受けたいとは思っていないことも確かであって、この希望こそいってみれば平和国家の基礎である」と述べている。
最近,戦中派の方の「フィリッピンでの戦争体験とその後」と題する講演を聞く機会があった。「昭和9年ミンダナオ島で生まれ、6人兄弟姉妹、昭和16年日本に帰国する直前に、太平洋戦争に遭遇、家族全員が米軍の砲撃・爆撃の中ジャングルへ避難、過酷な避難生活を強いられ弟が爆死、兄は戦病死、終戦後引き揚げ直前に母が病死して死線をさ迷いながらの地獄絵から生還した」とのことであった。戦火の中で生死を彷徨う極限状況を生き抜いた方の悲惨な話に実に胸が痛くなった。
戦後日本を振り返り,現代を見つめると,戦争を放棄した平和への希求こそ,国民の戦後の基盤でもあるにも拘わらず, 国際社会の変化とはいえ戦後70年の節目に平和的外交努力の乏しい中で,日米同盟の強化・解釈改憲・安全保障法制等の動向は,果たして「積極的平和主義」と言えるのだろうか? 立憲主義にも反し国民世論や憲法学者等の多数の見解もないがしろにしている状況は、危機的である。先に挙げた前文では「…政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように決意し…」とも明記している。「積極的平和主義」どころか,政府による「積極的戦争主義」と思える法制等に,多くの疑問と危惧を強く抱いている。
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